飛行場建設を契機に発展が始まった

立川は近年、駅ビルのルミネ、グランデュオ、北口に伊勢丹、高島屋、そして多くのタワーマンションなどにより、都心並みの賑わいを見せている。
しかし再開発が進む前、30年以上前までは、まだ「基地の街」のイメージが強かった。私は1977年に東京に来て、国立市の大学に入ったが、米軍のベトナム撤退が73年、ベトナム戦争の終結が75年、立川基地からの米軍撤退が77年だから、立川の街はまだ完全に「基地の街」として認識されていた。

古代、中世、江戸と、地域の拠点としての歴史を持つ府中、八王子、青梅などと比べると、立川にはあまり長い歴史はない。多摩川に面した現在の柴崎1丁目あたりが立川村(旧・柴崎村)の中心で、そこから立川駅あたりまでが耕地。その北と東は山林だったという。
駅北は旧・砂川村であり、江戸時代の新田開発でできた村である。だが地下水に乏しく、農業には適さない。そのため、長い努力の末、養蚕によって豊かな村を築き上げた。

今回の取材では、まずこの砂川村のあたりを歩いてみたが、立派な庭を持つ農家をしばしば見かけた。立川にもこんな農村風景があるのかと驚いた。多摩都市モノレール砂川七番駅近くには登録有形文化財の「中野家住宅」がある。中野家は代々「きぬや」と称し、絹を生産していた。
立川通り沿いにも、豪農らしい農家の屋敷を活用したチェーンの寿司屋もあった。説明の看板を読むとこれも中野家の屋敷だという。二度と作れないこうした屋敷が保存されるなら、チェーン店になるのもいいのではないか。

登録有形文化財の「中野家住宅」と寿司チェーンの入った中野家の別の屋敷登録有形文化財の「中野家住宅」と寿司チェーンの入った中野家の別の屋敷

中央線の駅ができて北口が発展した

立川は、中央線(当初は甲武鉄道)の立川駅が明治22年(1889)にできてから、特に駅の北口が急激に発展した。
また、大正11年に広さ45万坪の立川飛行場ができる。以来昭和8年(1933)まで軍用としても民間飛行場としても利用され、当時は「東京国際空港」でもあったが、その後民間は羽田に移り、立川は軍専用となる。

飛行場と関連して周辺には軍事施設が増え、陸軍航空工廠、立川飛行機、日立航空機、昭和飛行機などの工場とその下請けが増えて、立川は軍需産業の街として発展した。従業者が増え、住宅地が広がり、その需要に応える商業も広がっていった(立川飛行機だけで昭和15年の従業員が8350人だった)。
これが現在の立川の街の基礎を作った。大正12年(1923)には立川村は人口5千人を超えて立川町となり、昭和15年には人口3万人を超える立川市となる。

したがって昭和10年代の立川は住宅難の時代だった。駅北口から曙町、高松町、さらに砂川の栄町へと住宅地化が進んだ。農家の蚕室が軍事労働者の寄宿舎になったこともあるという。栄町には今も栄町銀座という商店街があるが、銀座という名前からして戦前の名残であろう。ただし今は商店は数店しかない。

かつては大変賑わったという栄町銀座とシネマストリートかつては大変賑わったという栄町銀座とシネマストリート

料亭や花街があり軍人たちで賑わった

また、南口では昭和3年に錦町1丁目が、その後羽衣町にも二業地ができて、花街としても発展した。錦町のほうは「錦町楽天地」、羽衣町のほうは「羽衣新天地」という。
立川駅周辺にも昭和初期から戦後にかけて10軒ほどの料亭ができた。飛行場と飛行機工場の関係者が主な客だった。

そのひとつ、錦町の「三幸」という料亭は歌手の布施明の父の幸四郎の創業したものだった。もともと幸四郎の兄の三郎が新潟県から出てきて酒屋を始めたのだが、急逝したため、幸四郎も新潟から出てきて後を継ぎ、店先で酒を飲ませた。
その後、酒屋の免許か飲食の免許はどちらか一つだけしか取れなくなり、飲食を選んだ。「三幸」という店名は三郎と幸四郎からとったものだろうと言われている。

現在の二業地跡地は、小さな飲み屋が数軒ある他は、旧花街の風情は残っていない。しかし駅からそのあたりまではラブホテルあり、場外馬券売り場あり、キャバクラ多数で、その点は戦前以来の土地の個性を保っていると言えるだろう。

戦前戦後と映画館や料亭が栄えた。料亭の地図の右上の「指定地」が二業地戦前戦後と映画館や料亭が栄えた。料亭の地図の右上の「指定地」が二業地

基地の街へ

米軍基地需要でキャバレー、カフェ、ビヤホールが栄えた(鈴木武編『立川の風景 昭和色アルバム その5』から)
米軍基地需要でキャバレー、カフェ、ビヤホールが栄えた(鈴木武編『立川の風景 昭和色アルバム その5』から)

戦争が終わると軍事関連の従業員は全員が解雇され、彼らの多くは出身地に戻った。市の人口は半減してしまった。市内には失業者が溢れた。そこに米軍が進駐してきた。日本軍の貯蔵していた物資や米軍からの横流し品が街頭に現われ、駅北口の広場から高松通りには露店が並び、闇市が形成された。

立川周辺の米軍基地群で働く日本人は約2万人。うち立川基地だけでも1万2千人であり、市内の全従業員数を上回っていた。福生の米軍基地の日本人従業者は3500人ほど、府中市は1200人ほどだったから、立川の規模の大きさがわかる。
かつ、従業員の8割は市外からの通勤者であったというから、米軍が市の経済に与えた影響は非常に大きかったはずだ。

もちろん夜の女性も増えた。米兵向けにRAA (特殊慰安施設協会)の立川支部としてキャバレーなどができ、米兵相手専門の「洋娼」が登場し、全盛期には3000人とも5000人とも言われた。
駅周辺、高松町、曙町、富士見町、錦町、柴崎町などに、洋娼のためのハウスが300軒以上、ホテルが約60軒、ビヤホール、バー、キャバレーが100軒以上でき、立川は「基地の街」となったのだ。

その余波を受けて、お隣の国立ですら、昭和25〜26年には学生向けの下宿屋が一夜にしてホテルに変わり、それに対する反対運動から国立が文教都市になったというのだから、当時の立川のその種の需要の大きさが想像される。
こういう悲しい歴史ではあるが、今、当時のキャバレーを写真で見ると、全盛期のアメリカの文化が感じられて、正直言ってかっこいい。お気楽な言い方で失礼かもしれないが、ひとつの歴史現象としては、タイムマシンに乗って見に行きたい気がする。

立川にいてこんな楽しい青春はなかったです

また、立川駅の北口の東側、かつて夜店通りと呼ばれて米軍相手のカフェやビヤホールも多かったという通りの近くに「立川屋台村 パラダイス」(通称「タチパラ」)という横丁がある。軍都、そして「基地の街」としての歴史がこれくらい濃厚な立川では、再開発しても街が完全には脱臭、脱色されないのだなと感心する。

それもそのはず、この屋台村は、フロム中武の元社長で、立川市教育振興会理事長だった中野隆右氏がつくったのだそうだ。先ほど書いた中野家の中野氏である(「中武」という名称は中野と武蔵野から取ったもの)。
その中野家に養子に来た中野喜介氏(昭和28年に設立された立川商工会議所の設立発起人代表・初代会頭)が「基地の街」時代に「立川パラダイス」という米軍相手のキャバレーを経営していた。その時代を、ある意味懐かしむ意味があって、この屋台村はつくられたらしいのだ。

立川パラダイスは、現在、栄町から曙町にかけてある自衛隊の場所にあった旧陸軍の獣医資材廠倉庫跡地につくられた。パラダイスは数年で幕を閉じたが、その後、喜介氏はキャバレーだった建物をそのまま使って立川専門学校(後の立川短大)を設立したという(建物は現存せず)。

中野隆右氏は、喜介氏らを中心とする「基地の街」時代の立川の歴史を著した本の「まえがき」に「私は彼らが活躍した時代こそが、本当の立川の生き生きとした時代であると思っている」と書いている(『立川〜昭和二十年から三十年代』)。

また同書の中で、米兵相手にバーを経営していた男性も語っている。「私は若い人に昔の話を聞かれる時、私らなんかの若い頃、立川にいてこんな楽しい青春はなかったですよと答えます。法という枠がきちっと決まってしまうと、その枠の中で行動することになります。<中略>私らの戦後は、その枠がまだ決まっていなかった。<中略>今ではちょっと外れたりしたら、世間からみんなに嫌な目で見られて、人が相手にしなくなるでしょう」

生きるのに必死な時代であり、無法地帯のようであったが、戦争の恐怖から解放され、法の枠すらない自由さの中で生きていた、その時代のエネルギーが二人ともたまらなく懐かしいのであろう。それが立川の個性なら、それを残していくことは重要だと思う。

参考文献
東京都『東京百年史』第6巻
立川市教育委員会『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達』
中野隆右『立川〜昭和二十年から三十年代』
鈴木二郎『都市と農村の社会学的研究』

終戦後の立川パラダイスの流れを汲む屋台村終戦後の立川パラダイスの流れを汲む屋台村

2017年 11月20日 11時05分