保谷を開発した高橋家

旧高橋邸は保谷住民の誇り旧高橋邸は保谷住民の誇り

西武池袋線保谷駅の南側に東町という町がある。東町の1丁目と3丁目は、戦前は下保谷字北新田といったが、その地の有力地主で保谷駅周辺を所有するのが高橋家だった。高橋文平、源太郎の父子は、商才があり、金融業にも参入して莫大な資産を形成、武蔵野鉄道の株主にもなっていた。そして関東大震災(1923年)以前から武蔵野鉄道(現・西武池袋線)と共同で自分の地所を借地、借家として開発していた。

特に源太郎は保谷(保谷市は、2001年 旧・田無市と合併し現・西東京市となっている)のまちづくりに情熱を傾けた。保谷駅を設置し、駅間を走る道路を軸として商工地区と住宅地区を分けるなど、関東大震災後の衛星都市の先駆となる開発を行い、鉄道沿線開発のモデルケースとして注目されたという(日本史学者の荒井貢次郎の言)。

実際、高橋家は、住宅地に良い住民、文化人を増やしたいと考えた。震災前の22年には、日本女子大学校教授の渡辺英一が小石川区(現・文京区)から転居してきたが、これは保谷に住む、小石川区で小学校の校長だった神蔵幾太郎という人物が、武蔵野鉄道の専務とも懇意であったようで、高橋家の意向を知り、かつて自分が校長として勤めていた学校にいた渡辺にまず目を付け、保谷に転居するように勧めたのである。渡辺氏はまた自分の知人のうち第一水産講習所(現・東京水産大学)の教授であった妹尾秀美に保谷に住むことを勧め、実際妹尾氏も転居してきたという。

フランク・ロイド・ライト設計の家

東町の住宅地東町の住宅地

渡辺氏は親友の建築家佐藤組の佐藤吉三郎に自宅の設計を相談した。佐藤吉三郎は、福島県の出身。明治37(1904)年に東京高等工業学校(現東京工大)の建築科を卒業し、陸軍省委託の技師を務めた後、大正3年に東京において自身の建築事務所を設立した人物。函館市に1923年(大正12)建築の丸井今井函館支店は市の景観形成指定建築物となり「まちづくりセンター」となっている。

その佐藤氏は自分の建築の理想を実現してみたいと大いに乗り気になり、神蔵氏の家の隣のツツジ林の中に家を建てることとなった。床の間はなし、ふすまを少なくして、東西南北に窓を設けてできるだけたくさん日光と風を取り入れ、天井、壁を明るくし、気持ちの良い仕事部屋のある静かな2階建てを建てたというから、和風というより洋風のモダンなものだったのだろう。

震災後には資生堂の社長の福原信三の私設秘書であった安成三郎が、資生堂の社員の勧めでこの地に転居してきた。安成は趣味で建築写真を撮っていたが、フランク・ロイド・ライトと懇意だったので、なんと自宅の設計をライトに頼んだという。設計図を高橋父子に見せたところ、あまりに変わった家だったので、これは住宅地の宣伝になる、というので、もともと奥まった土地を借りる予定だったのに、もっと目立つところに敷地を変えて建てたという。

また、安成は吉田松陰の研究でも有名な海軍大佐であった広瀬豊をこの地に転居させただけでなく、資生堂の福原が社員の健康のために運動場を探していたので、今の文理台公園のあるあたりに資生堂の野球場をつくらせるため尽力したという。その野球場はその後東京文理大学(後の東京高等師範学校、東京教育大学、現・筑波大学)の運動場となったため、文理大の大と台をもじって文理台公園と名付られたらしい。隣接して農場があったが、これは今も筑波大学付属小学校の保谷田園教場として残っている。

こうして良い住民、文化的な住民が増えていくが、東京の郊外に急増していた住宅地と競争していくには健康な暮らしを実現できる住宅地にしなければならないと高橋家は考え、東京帝国大学医学部医局員の山川保城氏をこの地に招き、診療所をつくっている。保谷村自体が当時は無医村だったので、住民によろこばれた。高橋家はまたテニスコートを二面つくり、そこで住民がテニスをするだけでなくお互いに交流する場として人気だったという。

また源太郎もその長男の文太郎も芸術文化が好きで、東京芸術大学講師の洋画家、加山四郎が無名時代に文太郎所有の貸家に住まわせ、家賃が払えないときは油絵を家賃代わりに与って、加山のパトロンとなった。
このようにして東町一帯はいつしか「文化住宅地」とも言われるようになったという。

日本初の民族学博物館があった!

さらに高橋文太郎は我が国における最初の民族学博物館の建設にも尽力した。保谷駅の南東にある東町1丁目11番地に「民族学博物館」ができたのである。
渋沢栄一の孫である日銀総裁・渋沢敬三が、民俗学者でもあり、収集した民具等を港区三田の自邸の屋根裏の「アチック(屋根裏)ミューゼアム」に保管していたのだが、これを、アチックの一員で民俗学者だった文太郎が約30,000㎡の土地と民家の寄付し、博物館となったのである。

文太郎は明治大学政経学部卒業後、立教大学文学部哲学科に入り、その後武蔵野鉄道に入社した。大学時代に山岳部だったことから山の民俗に関心を持ちアチックミューゼアムからは『武蔵保谷郷土資料』『秋田マタギ資料』などの研究書を上梓しているのである。

保谷市の東伏見に住んでいた民家研究者・考現学者の今和次郎も、博物館の全体構想図を描くとともに民家の移築などに尽力した。

1939年に開館した博物館は民家などの建物を野外に配置する一方、民具等を屋内に陳列し、戦中戦後は一時中断したものの、一般市民に公開された。かつてこの地に宮本常一らが足しげく通った。
しかしその後維持経営に行き詰まり、1962年閉館。民具等の標本約47,000点は国に寄贈され、文部省史料館を経て現在の国立民族学博物館(吹田市)に引き継がれた。また野外展示物の一つである高倉は小金井の江戸東京たてもの園に移築された。

「民族学博物館」があった場所には今も看板が立っている「民族学博物館」があった場所には今も看板が立っている

東伏見の長者園

保谷市の西武新宿線の沿線にも長者園文化住宅地と呼ばれる一帯があった。上保谷駅(現・東伏見駅)の南側(保谷村大字上保谷字下柳沢)の土地を西武鉄道が早稲田大学に寄付し、総合運動場として整備、西武鉄道は駅南口から道路を国立のように放射状に整備した(空襲に遭い、町が破壊されたため、今は放射状ではない)。
そして京都の伏見稲荷神社の関東出張所として東伏見稲荷神社を開設し、駅名を東伏見と変えたのである。そして駅の南東部(保谷村大字上保谷字千駄山)を「長者園」という名の住宅地として開発分譲したのである。
分譲地は100坪から300坪であり、道を広く取り、住宅もモダンなものが多く、垢抜けていたという。

住民にも早稲田関係者が多かったのか先述の今和次郎や、同じ建築学科教授で建築音響学の権威・佐藤武夫が住んだ。面白いことに佐藤が今の家を冗談めかしてディスっている。
曰く、今和次郎は「早稲田一の変人」と言われていたのに家は常識的な郊外住宅である。数千冊の書籍が積んである18畳の書斎が白壁の洋館として独立しているほかは、大工任せの安っぽいものだ。今先生はおそらくあの器用なフリーハンドで方眼紙に書いて大工さんに渡してしまったのだろう。コールテンの洋服を新宿の夜店で買ってこられる態度でこの家ができたものらしい。そのへんは先生らしくて面白い。もっとも、先生にコールテン理論があるように、この家にも相当の理論があるかも知れぬ。今度聞いてみよう。といった調子で、かなりからかっている。

ところが一方の佐藤の家は、「自分としては随分神経を働かせたつもりだが、人に言わせると平凡だという。負け惜しみに平凡に見せるところに苦労があるのだと言ってやる。」という具合。建築家というのは面倒な人種である。
家族中心主義で、客間に重きを置かず、静かな部分とそうでない部分とを判然と分け、洋風を取り入れ、採光、通風に重きを置いた、というのは佐藤吉三郎の考えと近いから時代の流行の一種であろう。

佐藤武夫設計と思われる家がまだあった佐藤武夫設計と思われる家がまだあった

最新建築の展示場

佐藤は、早稲田の営繕課に勤めていた江口義雄邸も紹介しており、「これはなんとウルトラモダンだ。バウハウスの新工芸、コルビュジエの新建築美学、それらが燦然として保谷村に咲き出している光景である。白と黒の階調、赤、緑、銀の室内交響楽、真鍮パイプとガラスとベトンのジャズ、素晴らしい新興建築だ。モダンボーイたちよ。建築の最先端はこの村にありますぞ」と鼻息が荒い。
相当アバンギャルドな家が建ったようだが、いまはないだろう。一度見たかった。他にも派手な家が多かったらしく、最新建築の展示場のようだったらしい。挿絵画家の中原淳一と宝塚女優芦原邦子の夫妻も住んだ。芦原はこのあたりは「赤い屋根の多い文化村」と呼ばれたと述懐している。

ただし佐藤武夫の家にその後住んだ主婦はこの家を「住みづらいの一言です」と一刀両断している。押し入れがない、応接間は天井が高くて暖房費がかさむ、ベランダに行くのに応接間を廊下として使わないと行けない。玄関と広間の天井が低く、装飾品が置きづらい。屋根の勾配が急で冬は雪が瓦と一緒になってずりおちる。無駄が多くて快適にはほど遠く、男性、建築家の頭の中で考えついたものだとこき下ろしている。
また町には商店も病院も幼稚園もなく生活は不便。夫たちは仕事の帰りに新宿の三越や高田馬場で買い物を言いつかって帰宅したという。

■参考文献 
『保谷市史』
丸山泰明『渋沢敬三と今和次郎』
横浜歴史博物館『屋根裏の博物館 : 実業家渋沢敬三が育てた民の学問』 

江口義雄邸江口義雄邸

2018年 10月14日 11時00分