大阪から来た佃の人々

中央区は戦前は日本橋区と京橋区に分かれていた。京橋区の一部だが、また別の存在だったのが佃島、月島である。

佃島は、徳川家康に本能寺の変の時に加勢した摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の名主森孫右衛門が、家康の命を受け、1590年に33人の漁師を連れて江戸にきて、石川島南の干潟に築いたものだという。佃大橋の北側の200メートル四方くらいの土地がそれである。

漁民は江戸で白魚漁に従事し、将軍家に白魚を献上し、献上した残りを市販するために開いたのが日本橋魚市場の起こりといわれる。

石川島造船所があった当時の佃(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』1994より)石川島造船所があった当時の佃(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』1994より)

世界一の造船業

佃島は現在の佃一丁目に当たるが、二丁目はかつての石川島である。寛永初年(1624)に御船手頭の石川八左衛門正次がこの地を拝領して住んだので石川島と呼ばれたのである。
だが台風による冠水被害を受けたのと、石川島の南に人足寄場がつくられたことを理由に石川家はこの地を去った。
人足寄場とはドラマの鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵の建議によりつくられたもので、江戸市中の無宿人を集めて授産事業(職業訓練)を行う施設である。当時は油搾りの仕事に重点が置かれ、無宿人たちが搾った油が「寄場油」の名で安い値段で売られたという。
しかし1820年からは刑罰執行場的な性格が強まり、明治時代になると監獄となり、85年に巣鴨に監獄ができるまで存続した。

監獄の跡地には共同石油タンク、三井建設倉庫ができ、石川邸跡には軍艦建造のための官営の造船所ができ、それが横須賀に移転した後、1876年には石川島平野造船所となった(長崎の平野富二が設立したもの)。

同社は戦後、1960年には播磨造船所と合併し石川島播磨重工となり、世界の造船業のトップ企業となった。

佃島の商店佃島の商店

工場街として商店街も賑わった

佃の南側の月島はすべて明治以降埋め立てられた土地である。
東京を近代都市に生まれ変わらせるため、隅田川河口を大改造し大東京港を建設することとなり、埋め立てをしてつくったのが月島である。明治25年(1882)から昭和12年(1937)にかけて1号地から4号地ができた。港の建設は頓挫したが、鉄鋼関連の工場地帯として発展し、商店街も繁栄した。大正時代の月島西仲通商店街には、おでん、寿司、中華そば、焼鳥の夜店が出て、月島名物となり、川を越してわざわざ見物に来る人もいた。
また月島の夏の名物としては水泳場があり1900年代初頭には20数軒の水泳場があって、子どもに人気だったという。
佃や月島の発展にとって重要だったのは、北側の深川(越中島、門前仲町)とつながる相生橋の完成(1903年)である。それまでは労働者は舟で月島にわたっていたが、橋ができると深川側から歩いて通えるようになった。
また日露戦争が起こるとますます工業は発展し、京橋側からも労働者が通えるように1905年、勝どきに渡しがつくられた。

明治〜大正期月島の商店街地図(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』1994より)明治〜大正期月島の商店街地図(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』1994より)

長屋の建設

ところが1913年7月に大津波が押し寄せ、月島は大打撃をこうむった。

そこから復興しかかったところで1917年10月にも暴風雨と大津波があり、そこからまた復興した頃、1920年2月から労働者向けの小住宅(現在まで残る長屋)を建設することになった。だが1923年9月1日に関東大震災があり計画が頓挫。

震災から復興し、小住宅が建設されて月島がまた発展するのは1930年以降となる。33年には勝鬨橋が着工し、40年に完成する過程で月島は大発展する。

月島小住宅ができた1935年ごろ(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』1994より)月島小住宅ができた1935年ごろ(中央区立京橋図書館『中央区沿革図集〔月島篇〕』1994より)

月島に東京都庁(当時、市庁舎)の計画

1932年10月1日、東京市の15区と周辺郡部が合併し35区となると、東京市庁舎を月島(現在の晴海。当時市庁は東京府庁舎に間借りしていた)に移転する計画が浮上した。東京を発展させるには東京湾を埋め立てて15区分の土地をつくるのがよいという考えがあり、そのためには庁舎が月島にあるのがよいというのだった。

新庁舎の設計コンペも行われ、1等賞は宮地二郎、3等賞には前川國男、選外佳作に関根要太郎、矢部金太郎が入選していた。

だがまたしても計画は頓挫する。戦時色が濃厚になったことと、先述の大津波の危険が中止の理由だった。市庁舎の予定地だった場所はその後、前川國男設計の晴海アパートができ、今はトリトンスクエアが立つ。

今年は東京五輪が新型コロナウイルスにより延期となった。1940年にも万博と同時開催の東京五輪が中止になったのだ。それが開催されるような国際情勢であれば、市庁舎移転も実現したかもしれない。
だが当時の技術では大津波を防ぎきれなかっただろうから、やはり実現はしなかったかもしれない。東京は、自然による災禍が大きな影響を与える都市のようである。

参考文献
中央区『中央区三十年史』1980

1940年の万博・五輪会場(左)と新都庁(当時は、市庁)舎(下)1940年の万博・五輪会場(左)と新都庁(当時は、市庁)舎(下)

2020年 05月07日 11時00分