耕地整理事業により震災前後の人口増を吸収

荒川区を歩くのは楽しい。それはなぜだろうか。
明治から大正にかけて東京では耕地整理事業が各地で行われた。地域ごとに協同組合をつくり、道が細く曲がっていて形のふぞろいな田んぼや畑などを区画整理して、道を広くまっすぐにし、灌漑用水を整備し、田んぼや畑の生産性を高めると同時に住宅地や工場に転用できるようにするのである。

荒川区でも、まず1899年に三河島で耕地整理が開始。1902年には日暮里でも耕地整理が始まった。
結果、水田や湿地帯は畑となり、1920年ごろには畑を住宅地にする動きが激しくなり、関東大震災前後における荒川区内への人口流入を受け入れることができたのである。

だが現在の東日暮里方面の金杉字井戸田では、1923年の関東大震災で焦土と化し、区画整理を行ったところが、整理完了直後の1925年に2100戸以上が消失する大火事があったために、さらに区画整理が行われたという。

東日暮里には、区画整理された地域や、東京府社会事業局や同潤会による住宅建設がされた地域が多い東日暮里には、区画整理された地域や、東京府社会事業局や同潤会による住宅建設がされた地域が多い

汐入は「下町化」したが、従来の下町とは少し違っていた

今は再開発されてマンションが林立する南千住駅東側、隅田川沿いの一帯は、かつては汐入(しおいり)と呼ばれた。長屋などがたち並ぶ庶民的なまちで、このまちが再開発でなくなることに対しては多くの人々が哀惜の念を抱いたらしい。

もともとは江戸時代からの農村で、農家が30戸ほどあった。しかし「荒川区①」で述べたように、大正時代に多くの工場が南千住にでき、その工員たちのために借家を経営する地主が現れた。特に大震災後は人口が増えたので、家賃は高かったらしい。だから耕地を借りて宅地化し、借家を建てる人もいたという。
借家は30m2以下の小規模なものが大半であり、10m2台のものもあった。平屋と2階建て、独立型と二軒長屋、四軒長屋、専用住居と店舗併用住居など、いろいろなタイプがあった。それらが混在し、密集し、「下町」的なコミュニティを形成したのである。
各戸に庭はないので、住民は玄関先に植木を置いたが、当時の写真を見ると、けっこう背の高い木も植わっている。

街路は農村時代の土地割りを反映しており、地図では左下を中心に同心円を描くように左上から右下に道がある(これは隅田川が氾濫したときの水流に沿っているという説がある)。第1下町や月島のように格子状ではない(月島は1892年につくられたが現在残っている長屋は関東大震災後に2階建てに建て替えたものなので時代的には汐入と同じ)。
それらの道と直交するも直線ではなく、互い違いのようになっている。従来の下町とはちがっていたのだ。結果として中世ヨーロッパの街のように、是非一度歩いてみたい、歩いたら楽しかろうと思わせるような街路ができあがっていたのである。それを農村的だという人もいるが、それはまさに中世的ということでもあろう。あるいは中世の街並みに学んだ田園都市的なものを感じさせるとも言えるのである。
考えてみれば、荒川区の区画整理されていない地域の街路は多くはこうしたものであり、それが荒川区を歩くのを楽しくさせているのだと思われる。

再開発前の汐入(住宅地図)再開発前の汐入(住宅地図)

文化的住宅地づくり

冠新道商店街冠新道商店街

日暮里では1916年に渡辺保全会社が開成中学付近の旧・日暮里7丁目の自己所有地を住宅地化し、いわゆる「渡辺町」をつくった。
同年、新堀村の名主の冠権四郎が旧・日暮里8丁目の自己所有地を開発し、冠1〜3丁目と命名。今、西日暮里6丁目から三河島までを結ぶ冠新道(かんむりしんどう)はその名残である(新堀村は日暮里の元の名称)。

渡辺町は、田端、駒込、千駄木、谷中に隣接する地だから、文化的な暮らしが実現できたことはいうまでもない。ところが今、この渡辺町に道路を通そうという計画があり、住民が反対運動を起こしている。歴史的な意義のある町に道路を通すなどという計画がいまだに進められることに憤りを感じる。

また尾久では、芝区三田綱町の富豪・富岡俊治郎(としじろう)が計画し、尾久村長三橋周之助が賛同して建設した住宅地が、尾久小学校の隣接地1万坪の土地に1923年にできた。当時まだ珍しい下水道完備の文化的住宅地であり「富岡町」と命名された。
富岡俊次郎は東京商船学校卒業、1902年に渋沢栄一の浦賀船渠(株) 取締役に、1916年に同じく渋沢栄一の東京機械製作所の社長になるなど経済界で活躍した人物らしい。1923年といえば渋沢栄一による田園調布完成の年でもあるから、富岡としても荒川区に文化的住宅地をつくろうとしたのかもしれない。

各種の住環境改良事業

東京府社会事業協会による日暮里小住宅東京府社会事業協会による日暮里小住宅

他方、急激な人口増加は住環境の悪化をもたらし、衛生・通風・保安の上で深刻な状況を生んだ。そのため、これらの地域で住宅環境の改善、失業者や貧困者に仕事を与えるさまざまな社会事業が始まった。

住宅については、1927年に「不良住宅改良法」が公布され、東京府は32年に鉄筋アパート「三河島共同住宅」を竣工。日暮里では同潤会による不良住宅改良事業が行われ、近代的な2階建ての木造住宅地が建設された。同潤会によるアパートも現在の東日暮里に2箇所、および普通住宅という2階建て長屋形式の住宅地が尾久に建設された。

授産事業としては、愛隣団、上宮教会、仁風会などによる授産所や共同作業所ができ、裁縫などの各種の製造加工などの仕事を与え、内職の斡旋、講習会の開催などを行った。
また上智大学のセツルメントが町屋に、看護婦セツルメントが尾久にできるなど多くの宗教関連の社会事業施設がつくられた。

さらに東京府社会事業協会は、荒川区内の各所に日用品廉売供給所、共同浴場、幼児保育所などを設置し、1919年に「日暮里小住宅」を建設。そこに託児所、公益質屋、共同の浴場と洗濯場をつくった。
浴場については、民間ではなく慈善団体が設置した公益浴場というものが当時はあり、日暮里の共同浴場も公益浴場のひとつである。
その後、東京市の社会局が設置した公設浴場が、まず月島2号地の公設住宅に付設してつくられ、次に深川の古石場の東京市営住宅に附設してつくられた(※川端美季『近代日本の公衆浴場運動』法政大学出版局による)。

このように荒川区には貧しい労働者階級も多く住んだために、先進的な社会事業、住宅事業が行われたのだった。荒川区を歩くと、そういう人々の慈善の心のようなものが感じられる気が私にはするのである。

2019年 04月06日 11時00分