下町ではなく工場地帯

1919年には都市計画法が制定された。東京都市計画区域内の用途地域については、1923年8月に「山の手の住居地域」「下町の商業地域」「江東の工業地域」の指定案がまとまり、認可を受けるばかりとなっていた。
ところが、23年9月の関東大震災により市街地が壊滅的打撃を受けたうえ、街路・運河の新設計画等が新たに決定。そのため地域指定案を見直し、必要が生まれ、隅田川、荒川全域が工業用地と指定されて、内閣で認可された。

ここでいう下町は日本橋、京橋、神田、浅草、下谷区を指し、本所、深川などは下町と呼ばれていない。あくまで隅田川の東という意味での「江東」である。下町ではないということは、人が住む場所という位置づけではないとも言える。

東京都市計画地域並地区指定ノ件 2(1925年)東京都市計画地域並地区指定ノ件 2(1925年)

『女工哀史』の時代

本所区の工場数は、1932年には従業員5人以上の工場だけで1564箇所となり、東京市内最大であった。第2位は京橋区で656、3位が品川区で627であるから、本所区の工場の多さは群を抜いていた。

その急速な発展は大きな社会問題をはらんでいた。たとえば、ある紡績工場の所定労働時間は12時間、そのうえ夜の残業があったが、残業代はなし。残業は希望する労働者だけが行っていると会社は主張したという。仕事が終われば寝るだけであり、外出も禁止された。そもそも外出する時間も娯楽の時間もなかった。

そうした過酷な労働の中から生まれたのが労働文学の古典『女工哀史』である。刊行は1925年。著者の細井和喜蔵は自身が東京モスリンという紡績工場で働き、労働争議に参加。11年同じ工場の女工、高井としをと結婚。当時の繊維産業女子労働者の悲惨な実態を詳細に描いたのだった。

高井は10歳からいろいろな工場で働いたが、社会の矛盾への意識が強く、読書もよくした。女のくせに、女工のくせに本を読むとは頭がおかしいとからかわれたり、本を取り上げられたりする時代だった。
彼女が読んだ本の中に東大教授の政治学者、吉野作造があった。人間はだれでもみな平等で、個性と人格、人権があり、個性にあった仕事や学問をして、社会も自分もしあわせになる、といった思想を彼女は吉野から学んだという(高井としを『わたしの「女工哀史」』岩波文庫)。

1915年の大日本帝国陸地測量部地図。赤が工場。上半分が本所、下半分が深川。1915年の大日本帝国陸地測量部地図。赤が工場。上半分が本所、下半分が深川。

「細民」の郊外化

『女工哀史』刊行と同じ1925年、建築家で考現学者の今和次郎は「本所深川貧民窟付近風俗採集」をしていた。
うかつだったが私はこの二つの著作が同じ年のものだとはつい最近まで気づかなかった。社会問題と都市研究とでは分野がちがうし、女工と言えば製糸工場、だから明治時代だと、何となく記憶してしまっていたからだ。
それに、今和次郎の風俗採集の絵があまりに面白いので、ついつい今和次郎の仕事を好事家的なものとして長らく軽く見てきてしまっていたからである。

日清戦争(1894〜95)から日露戦争(1904〜05)にかけて、東京市には「細民」と呼ばれる貧困層が集中する地区が形成され始めたが、東京市内の近代都市化により細民地区は市外の郡部に押し出されていた。

中川清の研究によれば1911年、細民の人口は浅草区で7万人弱、下谷区で3万6千人、本所区で3万5千人、深川区で3万人強だった。
これが1922年になると、細民の人口は本所区、深川区、浅草区、下谷区、小石川区の順となり、32〜33年は、荒川区、深川区、本所区、城東区、向島区、浅草区、足立区の順となる。時代を経るごとに都市周縁へと重心が移動していることがわかる。

たしかに、戦前についての史料を見ても、墨田区、江東区に住宅地がつくられた形跡はない。せいぜい長屋であり、女工たちは狭い宿舎に住んでいる。まともなのは同潤会や東京府による住宅だけである。
しかし、昔の地図を見ていて、ひとつだけ発見があった。鐘淵紡績の近くに同社の住宅地が2箇所あるのだ。ネットで調べると「多くの女工も暮していて、付近の酒屋、八百屋などと結婚した人も多数いたという。鐘紡を中心に一種独特の一族意識があり、社宅の電気・ガス・水道は鐘紡が供給した。商店の顧客も鐘紡の従業員など工場労働者が中心で、さながら『鐘紡城下町』の様相を呈していた」という。他の史料を見ても、紡績会社の中でも鐘淵紡績は比較的労働者の人権を重視する会社だったようだ。

鐘淵紡績の社宅が2箇所あった。『帝都地形図』より鐘淵紡績の社宅が2箇所あった。『帝都地形図』より

賀川豊彦、吉野作造、今和次郎のつながり

賛育会病院賛育会病院

都市の貧困問題の拡大に対応して、職業紹介、失業対策などさまざまな政策が打たれ、慈善事業も行われた。1925年になると東京府が不良住宅地区(細民地区をこう言い換えた)を調査。社会事業家の賀川豊彦は震災の被害状況を調べ、本所に拠点を置いて無料診療、妊婦や幼児の保護といった活動を始めた。

あの吉野作造も賀川に協力した。東大医学部寄宿舎OBによる夜間無料診療所を本所・柳島植森町(現・墨田区太平3丁目)に開設し、そこから発展して18年に「賛育会妊婦乳児相談所」を開設し託児所も設けた。賛育会は30年に「賛育会病院」を建設し、今も同じ場所にある。設計者は、帝国ホテルの設計でフランク・ロイド・ライトの下で働いた遠藤新である。
同潤会柳島アパートや中ノ郷アパートができ、柳島アパートの近くには東京大学学生によるセツルメントがつくられた(セツルメントとは、その地域に住み込んで住民の支援を行う場所のこと)。そしてセツルメントの設計をしたのが今和次郎だったのである。ただの好事家ではなかったのだ。

現在、本所は深川(清澄白河)などと同様、再開発が進み、新しいタワーマンションやオフィスビルが増えている。そうなると過去の歴史が消えてわからなくなる。だが、これらの街は、災害、労働、貧困、民衆を支援した社会事業といった側面を見なければ十分に語れないのである。
深川の原稿でも書いたが、私が文学散歩でも建築散歩でもない、人々の汗と涙の歴史をたどる「社会散歩」を勧める理由がそこにある。

■参考文献
墨田区役所編『墨田区史 前史』墨田区役所、1978
吉野作造記念館『賀川豊彦と吉野作造』賀川豊彦記念松沢資料館、2015
宮田親平『だれが風を見たでしょう〜ボランティアの原点・東大セツルメント物語』文藝春秋、1995
中川清『日本の都市下層』勁草書房、1985
黒石いづみ『「建築外」の思考―今和次郎論 』ドメス出版、2000

2019年 03月16日 11時00分