銭湯の建造物として初めて登録された源ケ橋温泉

国の登録有形文化財は、1996年の文化財保護法改正で創設された、貴重な文化財を保護するもの。日本基督教団大阪教会や、学校の建造物として東京大学安田講堂などが登録されている。

そして銭湯の建造物としては初めて、1998年に登録されたのが、大阪市生野区にある源ケ橋温泉である。「入浴」と「ニューヨーク」をかけた自由の女神の外装など、ユニークな外観も注目を浴びている。しかし家庭風呂が一般的となり、銭湯の常連客は減少している。そこで、源ケ橋温泉では今後の経営をどのように模索されているのか、お話を聞いてきた。

対応してくださったのは店主の中島弘さん。「ここで生まれ、20歳のころからずっとこの銭湯に関わってきています。だからきっと、ここで死んでいくのだろうと思っています」と、穏やかに微笑みながら語る。銭湯を建てたのはこの辺り一帯の地主で、完成は昭和12年。しかし建築から5年間、一切営業されていなかったところを、先代であり、弘さんの父でもある貞次さんが借り受け、創業したのだという。

なぜこのようなユニークな銭湯を建てたのか、そしてなぜまったく営業されなかったのはわからないが、「戦時中なので燃料もないですし、本来地主が商売をする必要はありません。もしかしたら、相続対策だったのかもしれないなと想像しています」

貞次さんが創業したころは、まだ太平洋戦争の真最中だったから、あちらこちらの焼け野原で焼け残った材木を拾って燃料にしていた。もちろん毎日必要なだけの材木が拾えるわけではないから、燃料の集まったときだけ商売をしていたという。

終戦後は客足も増え、吉野から木くずやおがくずを取り寄せるようになった。ボイラーマンも2人おり、幼い中島さんもよく手伝いをしたそうだ。その後、燃料は石炭になり、油へと変わっていく。重油では採算が合わないので、建物を解体した廃材をのこぎりで刻んで、焚いていた時代もある。

「2トン車で運ばれた廃材に対して1万円払っていましたから、考えてみれば重油と変わらないコストがかかっていました。釘を踏んだり、重い廃材の下敷きになったりして、命を落としかけたこともあり、採算が良かったとは言えないですね」と、中島さんは語った。
今は、自動車のエンジンオイルや機械油の廃油を精製したものを使っている。

一日1000人から2000人もの入浴客があったという源ケ橋温泉一日1000人から2000人もの入浴客があったという源ケ橋温泉

人気の時代から比べ、減少し続ける入浴客と経営の大変さ

昭和20年代から30年は、毎日1000人から2000人の入浴客があり、銭湯の前に行列ができるほどの人気だった。

「広い銭湯だということで、人気を呼んだのだと思います。特にプロレス全盛時代は、テレビがある喫茶店や銭湯に人が集まりました。うちの銭湯には十分なスペースがありましたから、入浴しない人にも無料で見てもらっていましたが、プロレスが流行した時代はもう、高度成長期に入っていましたし、近所が助け合う雰囲気は薄れており、銭湯が集会場になったなんてことはありません」と中島さん。

「銭湯は裸のつきあいができる場所というイメージは、マスコミが作り上げたところが大きいんちゃいますか。仕事で疲れた人たちの多くは、風呂に入ったら早く家に帰って寝てしまいたい。近所の人と顔を合わせて、おじぎのひとつもするのは煩わしいと感じるんでしょう。だからむしろ、脱衣場を見渡して、顔見知りが多ければ、他の銭湯へ行ってしまうお客さんもいらっしゃいましたよ」。この感覚は、複合型温泉のようなレジャー施設ではなく、生活に密接した銭湯だからこそのものかもしれない。

日本人の全世帯の38%が銭湯を利用していた創業当時と比べると、現在は5~8%。常連客は高齢になり、入浴客は確実に減少している。ウェブで人気のある源ケ橋温泉には、北海道から九州まで、出張や観光がてらの入浴客が訪れるが、再訪はまれ。落語会やカラオケの会を開催したこともあるが、入浴客の定着につながった実感はない。

修繕はほぼ手作業だが、それでも毎年200万円以上必要で、「毎日2時半に寝て、朝10時から働いていますが、給料は夫婦で10万円です。子供たちが跡を継ぐと申し出てくれたこともありますが、"大変だからやめておけ"と断りました」と、将来的な展望は決して明るくない。

創業当時、大阪で一番広かった源ケ橋温泉。洗い場も広々している創業当時、大阪で一番広かった源ケ橋温泉。洗い場も広々している

銭湯の意義をつなぐための模索

脱衣場に本が置いてあるのは、2階に自習室やミニ図書館を作る夢があるから脱衣場に本が置いてあるのは、2階に自習室やミニ図書館を作る夢があるから

出費が多いうえ、油の値段は年々上昇している。さらに大阪市では月に2回、高齢者の入浴料割引を行っており、助成金は出るものの、業者の負担が大きい。「銭湯は本来サービス業なのに、市や府は、福祉産業だと思っているようです」と、弱ったような表情を見せながらも踏ん張ってきたのは、若い人たちの芸術的な活動の場や、憩いの場として機能できないかと考えているからだ。

「江戸時代は、刀を差したお侍さんも一般庶民と一緒に風呂に入りました。そして昭和の始めごろまでのお客さんたちは、風呂から上がってもすぐに帰らず、お茶を飲んだりお酒を飲んだりして時間を過ごしていたのです。そういう場にできないか、と。また、20歳になる孫はピアノが大好きで、この銭湯にある携帯用のピアノを楽しんで弾くんです。それを見ていると、孫だけでなく、同世代の若い人たちが知識や技術の教え合いをする場を提供できないかなと思います」。

脱衣場に本棚があるのは、その思いの表れだ。2階に自習室やミニ図書館を作り、子どもたちを集めて、何か新しいものを作り出すきっかけにならないかと考えているのだ。
2階は広間になっており、往時は叔父がダンスホールや大衆食堂、ビリヤード場を経営していた。ただ、今は使われておらず、修繕や掃除が必要で、夫婦2人ですべてを切り盛りしている現状では、なかなか手をつけられない。

しかし中島さんは、夢をなんとか実現するため、燃料をガスに代替できないかなど、模索を続けている。
日本のユニークな文化である銭湯が、このまま消えてしまっては寂しい。また、大阪北部で起きた震災では、ガスが止まって入浴困難な人のために無料開放する銭湯もあり、まだまだ必要な施設であると実感させられた。

毎日銭湯に通うのは難しいが、機会を見つけて、地域の銭湯を訪ねてみてはいかがだろうか。

2018年 08月01日 11時05分