歌に詠まれる橋

水都大阪は川の水運により発展し、「八百八橋」と呼ばれるように大小さまざまな橋がかけられた。だから大阪の町民たちにとって橋は身近で、さまざまな物語にも登場する。落語で橋の上は庶民が夕涼みする場所として登場するし、橋が舞台となった怪談もある。そこで、物語を通して、人々のくらしの中で橋がどのような存在だったのか見ていこう。

そもそも「はし」には物と物を結ぶものとの概念があり、「間」の漢字があてられることも多かった。「間」には両端があるから、「はし」をも表現するようになったのではないかという。床と天井を結ぶ建具を「柱(はしら)」と呼ぶことを考えても、この概念は一般的だったのではないだろうか。
それだからか、戦では橋を挟んで対峙することも多い。天智天皇の息子・大友の皇子と、弟の大海人皇子が天下を争った壬申の乱では、瀬田の唐橋を挟んで戦ったことが『日本書紀』にあるし、大坂の役では城へ攻め込むための要所として、本町橋が重要視された。

万葉集では、恋しい人が会いに来るときに、あるいは恋しい人に会いにいくために、なくてはならないものとして橋が盛んに詠まれている。そして歌枕として「橋」が多用されるようになり、小野小町も「しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし ゐかひ津の橋」(秘密にしていたのに世間にはそれと知られてしまった。御津浦の猪甘津の橋を渡ったことを)」と、詠んだ。猪甘津の橋は記録にある日本最古の橋で、現在の大阪市生野区あたりにあったとされるもの。大阪の橋は、平安時代から知られていたようだ。

水都大阪の風景水都大阪の風景

人身御供の伝説

長柄橋の人柱となった巌氏を顕彰する石碑長柄橋の人柱となった巌氏を顕彰する石碑

橋には不気味な印象もある。特に古い橋には人柱伝説もつきものだ。築城や豊作祈願などに際して、朝一番に橋を渡った人を人柱としたとする伝説が各地にあるだけでなく、架橋の難工事を前に人柱を立てた伝説も少なくない。

大阪で有名なのは奈良時代に築造された長柄橋だ。長柄橋を知らなくても、「雉も鳴かずば撃たれまい」の物語をご存知の方はおられるだろう。推古天皇の時代、長柄橋の工事が進められていたが、なにしろ川幅の広い大川に架ける橋だから難事業であり、架けるたびに流されてしまう。誰ともなく「人柱を立ててはどうか」と言い出しはしたが、誰を人柱に立てるかという議論になると、話は滞っていた。そんなとき、垂水の長者、巌氏(いわじ)が「袴に横つぎのあたっている者を人柱にすればよい」と進言。みなが袴に横つぎのある人を探すと、巌氏その人だった。覚悟の上で進言した巌氏ではあったが、娘の照日(てるひ)は悲しみのあまり一言も口を利かなくなる。その後、嫁入りの駕籠の前を雉が鳴きながら通ったので、夫が弓矢でそれを射ると、「ものいわじ 父は長柄の橋柱 鳴かずば雉も射られざらまじ」と泣いたという。

この話は伝説であり、史実ではないだろう。しかし長柄橋はもちろん、照日の駕籠が通った道や、雉が飛び出した「雉子畷」などが伝わっており、架橋にあたってなにかしらの人身御供があった信憑性は高いだろう。
傍証として、長柄橋と同じく、奈良時代に僧の道登によって作られた宇治橋に伝わる「橋姫」伝説もある。源氏物語では、橋姫は清らかで無垢な女神として描かれているが、能の「鉄輪」などでは、醜く嫉妬深く、自分を捨てた男を丑の刻参りで呪い殺した女性とされる。この橋姫もまた、人柱となった女性の化身だと考えられており、往時の架橋工事に人柱がつきものであったと想像できるのだ。

橋は、彼岸と此岸を結ぶ魔の入り口とも考えられた。たとえば『今昔物語』では、安倍晴明が式神を一条大橋の下に棲まわせている。定住せず、芸能を披露しながら各地を転々とした流浪の民がたむろするのが河原だったのも、橋の下を異界たらしめていたに違いないが、「橋」の持つ神秘性ゆえもあっただろう。
平安時代、大川にかかる渡辺橋を造営した渡辺党は、渡辺津を本拠地とする地域武士集団だが、魔に関係の深い人たちでもあった。渡辺の津は大阪天満宮の夏祭りで流される、穢れ祓いの人形(ひとがた)が漂着する場所。渡辺党はそれを拾い集め、炎で焚き上げて始末をしていたとされる。つまりは清め祓いが生業であり、いわゆる「町民」ではない。
渡辺党の党首である渡辺綱は、源頼光の四天王ともされる勇猛な武将でもあるが、酒呑童子などの鬼や土蜘蛛退治をする「異能の人」でもあった。他の四天王のひとり坂田金時も、幼名を「金太郎」といい、山姥に育てられた異端児だ。

夕涼みの場としての橋

大阪の夜景大阪の夜景

近世になると、大阪の町人は橋の上を集会場のように使ったらしい。落語「遊山船」では、夏の夜に町人達が橋の上に繰り出して、眼下を流れる船を観察して楽しむ光景が語られている。
しかしそれでも、「異界と結ぶ装置」の印象は消えていなかったらしい。明治18(1885)年に、八軒屋から伏見へ渡る汽船が沈没して80名が亡くなると、お化けお多福が天神橋に現れ、騒ぎになっている。「ほうねんじゃ、ほうねんじゃ」とか細い声で歌いながら杓子を振るお多福は、たちまち大評判となり、集まった見物客目当ての屋台が出るほどだったという。しかし、警察が張り込んで捕まえてみると、お多福は屋台が雇ったアルバイトだと判明。その夜は警察に留置された。しかし不思議なのは、その夜にもお化けお多福が出たこと。本物の化け物なのか、他の屋台が別のアルバイトを雇っていたのか……。大阪人の気質を考えれば、後者である気はする。

長堀川などが埋め立てられると、橋も撤去されたが、現代にも残る有名な橋として、まず筆頭に上げられるのが淀屋橋だろう。デザインが公募され、昭和10(1935)年に鉄筋コンクリートの淀屋橋が完成した。
堂島川にかかる大江橋も、大阪市の第一次都市計画事業でデザイン公募されたものだ。江戸時代の堂島には諸藩の蔵屋敷が建ち並び、松江藩なら出雲大社、高松藩なら金比羅社などと、諸藩を代表する神社の分社が鎮守として祀られていた。毎月の縁日には一般公開されたので、大阪の町人たちは、全国各地の神社に参拝できると、大江橋を盛んに渡ったのだそうだ。

橋にはさまざまなイメージがつきまとっており、大阪の文化と深い関わりがある。これからの季節は、橋にまつわる物語を思い出しながら、川風に吹かれて夕涼みしてみるのも良いかもしれない。

■参考
株式会社松籟社『八百八橋物語』松村博著 1984年1月10日発行
財団法人大阪市土木技術協会『大阪の橋 大阪市における橋梁技術のあゆみ』平成9年3月20日発行
清文堂出版株式会社『大阪史蹟辞典』三善貞司編 昭和61年6月20日発行

2018年 08月15日 11時05分