大阪になくてはならない淀川

大阪は水運により発展したまちだ。
中心地を流れるのは淀川水系の河川で、さまざまな物資が随時京都に運ばれていた。淀川は、滋賀県、京都府、三重県、奈良県、大阪府、兵庫県の2府4県に広がる、流域面積8240kmの一級河川で、琵琶湖から流出する瀬田川が京都に入って宇治川となり、大阪府に入る直前の八幡市で、木津川や桂川と合流して淀川となっている。

古来、淀川は水運を栄えさせ、幾度も改修工事や築堤が行われてきた。もっとも古い記録は、なんと仁徳天皇の御代(4世紀)までさかのぼる。淀川の洪水を防ぐために堤を築こうとしたが、どうしても2カ所が破れてしまう。そこで、人身御供を2人出そうとしたが、そのうち一人の茨田連衫子は川の神に挑戦して勝ったため、死ななくて済んだという記事が日本書紀にある。

文禄年間には、豊臣秀吉が枚方から長柄まで連続する文禄堤を築造。大阪平野を氾濫から守るだけでなく、堤上は伏見城と大阪城をつなぐ街道としても機能した。濠川が宇治川に注ぐ位置には伏見港が設けられ、大阪と伏見を行き来する三十石船がたくさんの人を運んだという。

江戸時代になると、主な街道の要所に宿場町が整備される。中でも伏見と大阪の中心にある枚方宿は旅籠も多く、多くの人が集まる歓楽街となった。三十石船に乗った旅人に酒や食べ物を商い、「酒くらわんか、飯くらわんか」と大声で客を引く、たくさんの「くらわんか船」も淀川上に浮かび、賑わっていたそうだ。

その枚方に、淀川に棲む魚や鳥の生態のほか、主に明治以降の淀川改修の歴史を学べる淀川資料館がある。
2月28日まで、1917(大正6)年の大水害を機に建設された三栖洗堰と三栖閘門展が開催されているので、明治以降の淀川の歴史と合わせてお話を聞いてきた。

往時の三栖洗堰。三連の水通には、頑丈な扉が備えられている往時の三栖洗堰。三連の水通には、頑丈な扉が備えられている

淀川の水害の歴史

広大な流域を持つ淀川は、古来水害に悩まされてきた。
1885(明治18)年の大洪水では枚方市にある堤防が壊れたため、淀川沿いにある現在の摂津市や守口市、寝屋川市はもちろん、門真市、大東市、東大阪市、大阪市まで水につかり、淀屋橋も流されたという。そこで、「淀川改良工事」が行われる。守口から大阪湾まで約16kmを「新淀川」として川の幅を広げ、川底を掘削して深くしたほか、琵琶湖のすぐ下流には瀬田川洗堰、大阪市に入る直前には毛馬洗堰が作られて、水流量が調節できるようになった。完成は1910(明治43)年で、当時は「今後100年は大丈夫」と喜ばれたとか。

しかし、皮肉にもそれからたった7年後の1917(大正6)年、またしても大雨により大塚の堤防が切れ、大洪水が起こる。雨の降り始めは9月29日。激しい雨に河川は急激に増水し、10月1日の午前5時には支流芥川の堤防が決壊する。その後淀川右岸にある大塚堤防も8時40分には200mにわたって決壊してしまったというから、どれほど激しい雨だったか想像がつくだろう。この際は、高槻市から茨木市、吹田市、摂津市と大阪市を濁流が飲み込んで、浸水区域は24kmにも及び、被災戸数は1万5千戸、被災者数は6万5千人という甚大な被害を出した。決壊箇所の西成郡福(現在の西淀川区福町)等の4カ所は濁水の放出口がなく、放っておくと稲が腐ってしまうので、浸水被害を最小限にするために淀川の堤防をわざと切り、濁流を淀川に戻したそうだ。

往時の三栖閘門。閘門内の水位を調整することで、水位の違う二つの河川を連絡していた往時の三栖閘門。閘門内の水位を調整することで、水位の違う二つの河川を連絡していた

大正の淀川改修増補工事と三栖洗堰・三栖閘門

大正の大水害により、淀川の再改修が必要であるとわかり、1918(大正7)年に「淀川改修増補工事」が着工する。「淀川改良工事」での考え方を踏まえて、強度が不十分なところの補強・改修のため、京都市伏見の観月橋から海に至るまでの全川を改修。水防の主要区域である枚方市や高槻市方面から堤防を拡築したほか掘削工事も行い、木津川・宇治川・桂川の合流部を下流に移すなど、全長46kmに及ぶ大工事だった。
また、京都の玄関口として重要な拠点となっていた伏見港も、たびたび洪水に見舞われていたため、観月橋から三栖に至る1.3kmにおよぶ右岸に、伏見新堤が築造されている。

その後1924(大正13)年に着工されたのが径間5.45m、高さ3mの水通三連を持ち、全長は36.4mで、各水通に一枚の鉄扉が備えられたコンクリート構造の三栖洗堰。1928(昭和3)年3月に完成している。洗堰により、伏見市内運河の水面勾配が緩和され、舟航が容易になったという。しかし良いことばかりではなかった。伏見港が堤内に引き入れられることになり、宇治川と伏見港の通航できなくなったのだ。
そこで、1929(昭和4)年には、三栖閘門が完成した。

三栖洗堰と三栖閘門の位置がわかる。左側に三栖洗堰、右側に三栖閘門三栖洗堰と三栖閘門の位置がわかる。左側に三栖洗堰、右側に三栖閘門

現代にもその姿を残す三栖閘門

閘門とは、水位の違う二つの河川を通航するため、門扉を使って水位を調整するもので、たとえば水位の低い川から高い川へ移動する場合は、船が閘室(閘門の内部で、前後に門扉がある)に入ると、門扉を閉めて密室にする。そして閘室内に水位の高い川と同じ高さになるまで水を入れ、水位を合わせたら進路側の門扉を開き、船は閘室を出る。このようにして、水位差のある川を通航できるようにしているのだ。
三栖閘門は、伏見市内運河と京都市疎水運河、そして宇治川との舟運を連絡するもので、三栖洗堰の下流に建設されたもの。門扉は引き上げ式で、閘室の幅は11mで閘門有効長が83m。門扉室は鉄筋コンクリート壁体の閘門だった。

三栖洗堰は現役で、台風の季節になる前には点検が行われ、随時保守工事が行われているが、三栖閘門は1962(昭和37)年にその役割を終えた。陸上輸送の発達にともない淀川舟運が衰退し、ついには途絶えたためだ。しかしその遺構は残されており、往時の面影を偲ぶファンもいるという。
今も貴重な姿を残す三栖閘門、伏見を訪れた際は、ぜひ見てみてはいかがだろうか。

■取材協力:淀川資料館 http://www.yodo-museum.go.jp/

現在の京都宇治川の三栖閘門現在の京都宇治川の三栖閘門

2018年 03月07日 11時06分