子どものための施設を日本にも
京浜急行の花月園駅というと、競輪場があった。
競輪場になる前は、その名の通り「鶴見花月園」という遊園地だった。花月園をつくったのは新橋の料亭花月楼の主人、平岡廣高(1860〜1934)。妻で元新橋の美人芸者だった静子(トップ写真)と、できたばかりの東京駅でレストランを開業するための準備で、1911年に欧州を旅行。しかしその途中、パリ郊外の児童遊園地を見て、すべてが児童本位にできていることに驚き、日本にも児童のための遊園地が必要だと痛感した。客にぺこぺこするレストランよりよさそうだとも思った。
帰国後鶴見東福寺の境内3万坪を借り、14年に花月園を開園した。当初は、ブランコ、シーソー、木馬、動物園、噴水、花壇、菖蒲園、相撲場、大滝、野外劇場だけだったが、第一次世界大戦の景気に乗って繁盛した。
そこで追加投資として、豆汽車、電気自動車、登山電車。お化け屋敷、釣り堀、子どもプール、アイススケート場、観覧車、飛行機塔などを整備。子どもたちはスリル満点の遊具に狂喜したという。
シマウマ、ラクダ、ヒョウ、シロクマ、ゾウ、カメレオン、孔雀などのいる動物園もつくった。ピラミッドやスフィンクス、キリンの模型が置かれたアフリカゾーンもあった。また16年からは静子が中心となって「日本全国児童絵画展」を開催したという。
大人も楽しめる娯楽の殿堂
子ども向けだけではない。大人向けに茶屋も数軒あった。というより、実は大人のための施設をつくることが狙いで、子どものためにもちゃんとつくろうというくらいが本音だったという説もある。
とにかく、貸席、貸別荘などが敷地内に離れ座敷のように配置され、野外劇場、ダンスホール、ホテルもつくられた。
1914年には小山内薫演出、市川猿之介主演の野外劇が上演され、15年にはドイツ留学から帰国したばかりの作曲家・山田耕筰が野外演奏会を開いた。18年には近代舞踊の父と言われる石井漠が野外舞踏会を開き、鈴木三重吉、恩地孝四郎らが少女歌劇にかかわったという。
またテニスコートもあり、テニストーナメントが開かれ、アイスホッケーの試合もあり、また歌会、句会、はたまた企業の運動会や総会も開かれた。戦後で言えば船橋ヘルスセンターのような相当総合的な娯楽・文化施設だったらしいのだ。
客としては、与謝野晶子、森鷗外、谷崎潤一郎などの文人から、若槻礼次郎首相、外国の公使や大使、横浜に来た海外の海軍将校らも訪れたという。
武士出身の料亭一族から銀ブラが生まれた
ところで平岡廣高は本来唐津の武士であった多賀家の次男だが、母方の平岡家に男子がいなかったために、養子に入った。
廣高の父、多賀右金治の父は江戸家老だったが、右金治は明治に入り料理屋を開き、長崎丸山の有名料理店「花月」にあやかり、店名を「花月」とした。
また廣高の母親ヒロも家老の家の出で、大変な美人だったが、酒もたしなみ、紅茶にブランデーを入れて飲むようなハイカラな女性だったという。
彼女は花月楼のほかに料亭湖月楼も経営したが、49歳で死没。母の死で、それまで海軍士官学校を目指していた廣高も花月楼の経営に入る。京都の「都おどり」に対抗して有名な「東おどり」を創設したのが廣高だというから花柳界でも重要人物である。
廣高の弟半蔵も料亭を経営。その息子の平岡権八郎は廣高の養子となり、跡を継いで料亭花月の3代目経営者となった。彼は洋画家で、洋画の師匠は黒田清輝であり、黒田の主宰する白馬会にも岸田劉生らとともに所属した。
彼はまた新橋芸妓らが1923年に設立した新橋演舞場の取締役にも就いた実業家であり、芸術家として帝国劇場の舞台装置も手がけた。永井荷風とは清元仲間であり、荷風の随筆に権八郎はいくどか登場するという。
さらに銀座にカフェプランタンを開業したのも権八郎だった。権八郎は仲間といつも銀座をぶらぶらしていたので、そこから「銀ブラ」という言葉が生まれたというから驚きだ。
廣高は最初の妻の蝶と番頭に料亭経営をまかせ、妾の元日本橋芸者のおとわと向島・寺島にも経営していた「花月花壇」(花月楼の支店)に住んでいた。
ところが花月花壇は洪水で破壊され、莫大な借金をかかえることになった。愛想を尽かした蝶は番頭と家を出てしまった。そして別の料亭「山月」を開業し、花月、湖月と並ぶ有名料亭に発展させた。
廣高は蝶と同様横浜の料亭富貴楼の女将の倉が育て新橋に送り込んだ芸者である静子と再婚。それから必死に働き借金を返し、権八郎が経営をしてくれるようになると、廣高は40代で目黒に別邸を建てて隠居に入ったのだった。
だが友人に隠居などしてはならぬと言われ、考えたのが東京駅でのレストランだったのだ。
映画のように華やかだった花月園物語の終わり
廣高の妻、静子も冒頭に書いたように新橋の美人芸者である。
ヒロの死後、右金治が再婚したのが湖月楼の座敷に出ていたフミ。このフミの妹分が静子だった。
静子は若い頃からフミと共に伊藤博文らの政治家と政治談義、経済談義をするほどであったというから、実業家廣高の妻にふさわしかったのだろう。
しかも静子は美人で着物の着こなしが素晴らしかったので、ブロマイド写真が発売されて当時の女性の憧れの的だったほどである。また静子は美容や化粧に関するアドバイスをする本も出版した。まさにカリスマ主婦モデルである。
ところが静子は1928年に廣高と離婚。花月園のダンスホールで流行ったダンスをもっと発展させようと、赤坂溜池にダンスホール「フロリダ」を開業。フロリダの名付け親は勝海舟の孫だったという。
しかしフロリダの経営はうまくいかず、静子は経営から手を引き、その後の消息は不明。共同経営者だった日本ダンス界の草分けの一人津田叉太郎は、32年に火事で全焼したフロリダをコルビュジエ風のものに建て替え、成功させたという。
こういうふうに、まるで京マチ子と山本富士子と若尾文子と市川雷蔵を主演に据えた昔の大映の正月映画のように、豪華でめくるめく人生を歩んだ新橋の料亭と花柳界の出身者たちがつくった遊園地なのだから、花月園が子ども本位とはいえ大人こそが楽しめる娯楽の総合施設になったのは当然であった。
しかし1920年代に入ると、東京の私鉄沿線には多摩川園、京王閣など、多くの遊園地が開業する。また31年に開店した百貨店の松屋浅草店は日本で初めて屋上に遊園地を設置した。
こうして競合が増えるなか、花月園の経営は悪化し、多くの負債を抱えることになった。そのため33年、経営は平岡から京浜電鉄(現・京浜急行)と大日本麦酒などを大株主とする株式会社花月園に移行。翌34年、平岡廣高は世を去ったのだった。競輪場も今は廃止され、防災公園と住宅地として整備される。行ってみるとすでに工事中であるが、花月園は駅からかなり高い丘の上の緑の中ににあったことがわかる。高い丘をやっと登ると別世界が広がったのであろう。
■参考文献
齋藤美枝『鶴見花月園秘話』鶴見区文化協会.2007
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