上天草「シークルーズ」と人吉「球磨川くだり」の社長を兼任
令和2年7月豪雨で甚大な被害に遭った「球磨川くだり」の発船場を、わずか1年で観光拠点「HASSENBA」に生まれ変わらせた瀬﨑公介さん。瀬﨑さんが取り組むのは、川下り事業にとどまらず、地域全体の復興をリードする“まちづくり”だ。“船の会社”が手掛ける“まちづくり”とは? 瀬﨑さんに話を聞いた。
瀬﨑さんは、人吉市で「球磨川くだり株式会社」を、同じ熊本県の上天草市で「株式会社シークルーズ」を率いている。海と川の両方で遊覧船を手掛ける経営者は、日本でもひとりだけだそうだ。
上天草で生まれ育った瀬﨑さんは、高校から大学までを京都で過ごした。シークルーズは父が興した会社で、ボートの教習所から始めて、遊覧船やマリーナなどに事業を拡げている。それでも、瀬﨑さんが引き継いだ当時は、まだ従業員10人にも満たない規模だった。
大学在学中に母が病に倒れ、瀬﨑さんは卒業前から家業を手伝うようになる。しかし、京都から上天草を見る視点を持ったこと、京都と上天草の間をたびたび行き来したことは、上天草のまちの課題を見極めるうえで、重要な経験だった。
JR接続の定期航路を天草に。新幹線開通後は観光列車と連携
大小の島々で構成される天草には、鉄道がない。最寄りの駅は、隣の宇城市にある三角駅だ。道路もルートが限られていて、観光シーズンには必ず大渋滞が起きる。瀬﨑さんも、帰省のたびに悩まされてきた。しかも、渋滞を避ける唯一の手段、天草市と熊本港を結ぶ高速船が、2008年に廃止されてしまう。瀬﨑さんが上天草に戻って7年目のことだった。
当時の九州は、2011年3月に控えた九州新幹線の全線開通を待ちわびていた。それなのに、鉄道のない天草では、新幹線の恩恵が期待できない。そこで、瀬﨑さんはひらめいた。「線路がないから、航路でつなげばいいじゃないか」。周囲の大反対を押し切って、三角港と上天草の前島を結ぶ定期航路「天草宝島ライン」を開業する。三角駅までのJR線と接続してもらおうと、JR九州にもお願いに通った。当時瀬﨑さんは弱冠31歳、なかなか相手にしてもらえなかったが、くじけない熱意が突破口を開く。2009年4月、国内でも珍しい、鉄道接続の定期航路が誕生した。
「天草宝島ライン」の開業後しばらくして、当時のJR九州社長が現地を視察に訪れる。このとき「九州新幹線が開通したら、三角駅まで観光列車を走らせる」という夢のような約束をもらった。
この約束を胸に3年間の大赤字を耐え忍び、2011年10月、ついに、観光特急「A列車で行こう」と「天草宝島ライン」のコラボレーションが実現する。特急車両とクルーズ船、三角駅の駅舎までを、インダストリアル・デザイナー水戸岡鋭治さんのデザインで統一。移動そのものを楽しむ旅の提案が、大きな話題を呼んだ。このことが、地域全体に少しずつ波及効果をもたらしていく。
淋しかった上天草・前島が、10年で人気観光スポットに成長
「A列車」開業に合わせて、まず上天草市が、「天草宝島ライン」が発着する松島(前島)港周辺の整備に着手。閉鎖されたままだった国民宿舎を解体し、植栽などを整えた。次いで2015年には、カフェやレストラン、お土産売り場などを備えた複合施設「リゾラテラス天草」がオープンし、一帯は一気にリゾートらしい雰囲気になる。加えて、JR三角線×天草宝島ラインの取り組みを熊本県知事が評価し、2016年に県営の三角港をリニューアル。さらに、2019年には上天草市が新しい観光拠点「mio camio AMAKUSA」を開設し、シークルーズも運営に加わった。
「10年前はほんとうに淋しい場所だった前島に、一本の定期航路を引き、線路とつないだことで、次から次へと投資を呼び込むことができました。付近では今、老朽化した大型観光施設の建て替えや高級ホテルの建設が進んでいます。2021年8月にはシークルーズも、島内に『シークルーズグランピング熊本天草』をオープンしました」(瀬﨑さん)
人吉のシンボル「球磨川くだり」を守りたい。経営立て直しを決意
人吉の「球磨川くだり」は明治時代から100年以上の歴史を持つ。かつては複数の船会社が競い合っていたが、今から約60年前に、人吉市が出資する第三セクターとして再編成された。しかし近年、経営状況は右肩下がりで、債務超過が続いていた。
上天草で、“船から始めるまちづくり”に手応えを得た瀬﨑さんの目に、人吉の窮状はもどかしく見えた。
「3年前、初めて川下りを体験してみたら、とても良かったんですよ。クルーズ船と違って燃料はいらないし、立地環境もいい。もったいないなと思いました」と瀬﨑さん。そのことを、球磨川くだりのメインバンクの支店長に話したところ、すぐ本店に伝わって、人吉市長をはじめとした市の幹部と面談することになる。このとき瀬﨑さんは、乗船時に感じた課題をレポートにまとめて提出。「たった一度乗っただけなのに、なぜ関係者しか知らないような課題までお見通しなんですか」と驚かれたという。
さっそく経営再建を依頼されたものの、即答はできなかった。「何しろ財政状況が悪すぎましたから」と振り返る瀬﨑さん。背中を押してくれたのは、シークルーズの幹部たちだった。「我が社の存在意義は地域貢献じゃないですか。この案件は、社長以外にできる人はいませんよ。熊本県の、そして人吉のために頑張りましょう、と励まされました」。何よりも、地域のシンボルである球磨川くだりをなくしてはいけない、という思いが強かった。
リブランディングや料金設定見直しでファミリー層を呼び込む
2019年1月、瀬﨑さんは球磨川くだり株式会社の社長に就任する。入れ替わるように、船頭を除く全社員が退職していった。「よそ者に乗っ取られたように感じた人もいたのでしょう。結果的には、私と一緒に働きたいという人たちが新たに入社してくれたので、かえって良かったと思うことにしています」。
残った船頭さんたちも、すんなり受け入れてくれたわけではない。有料だった乳児料金をタダにし、最少催行人数を6人から2人に減らしたときは「それでは我々の給料が出ない」と猛反発をくらったそうだ。瀬﨑さんは「もし足りなくなったら私が自腹で払う」と応酬した。さらに、船頭さんたちをうならせたのは、本業で積み上げてきた、操船・整備・法律などの、船に関する広範な知識だ。「船のことをよく分かっていると感心されて、それで一目置かれるようになりました」。
ホームページを刷新し、オンライン予約を開始、さらに、シークルーズでもお世話になった水戸岡鋭治さんに、ロゴと新船のデザインをお願いし、球磨川くだりのブランドイメージをがらりと変えた。接客や電話対応のスキルアップにも取り組む。矢継ぎ早の改革が功を奏し、着任後1年足らずで、過去10年で冬季の最多乗客数を記録するまでに至った。
乗客数だけでなく、客層にも変化がみられた。かつては50歳代以上の中高年層や団体客がほとんどだったのに対し、瀬﨑さんの改革後は、20〜30歳代の家族連れやカップル、外国からの個人客も訪れるようになったのだ。
コロナ禍と洪水被害を乗り越えて、人吉球磨の復興を牽引する
経営再建が軌道に乗りかけた2020年始めにコロナ禍が巻き起こり、7月には豪雨と洪水による壊滅的な被害に見舞われる。浸水した「発船場」を 「HASSENBA」にリニューアルした経緯は、前回の記事で紹介した。
被災からの再建は、結果的に、人吉での事業を“川下り&ラフティング”から“まちづくり”に拡げていくきっかけとなった。新たにサイクリングツアーを立ち上げ、人吉市内の観光地をつなぎ、ほかの施設や店舗とも連携する。リニューアル後の「HASSENBA」は地元客を意識し、地域産品のブランド化にも取り組んでいる。
被災後わずか1年でリニューアルオープンを成し遂げた「HASSENBA」は、復興のシンボルを目指している。
「HASSENBAが繁盛すれば、近隣の宿泊施設や交通機関、一次産業にも波及効果が生まれるはずです」と瀬﨑さんは意欲を語る。「さらに、HASSENBAの繁盛を見て、周囲にほかのいろんな商業施設が進出してくれるといい。この球磨川の景観はまたとないものだし、復興が本格化するこれからは商機です。もっともっと賑わっていくだろうと期待しています」。
シークルーズ https://www.seacruise.jp/
球磨川くだり https://www.kumagawa.co.jp/
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