なぜお正月にお雑煮を食べるのか
お雑煮は、本来「年神様に対するお供えのおさがり」を「若水」で煮込んだものだ。
「年神」とは、大晦日の夜に各家庭を訪れる神で、次の一年間、家を守護すると考えられた。本来の年神は、先祖の魂であったろうが、次第に年神の性質によって新年の吉兆が決まるという俗信も生まれる。福の神が来訪すれば来る一年は良いものになり、貧乏神が来訪すれば新年は苦労続きといった具合だ。また、「若水」とは、年の最初に汲んだ水のことで、飲めば寿命が延びると信じられた。
昔話で知られる笠地蔵が、大晦日の夜にたくさんの財宝を運んでくるのも、年神信仰と関係が深いようだ。だから人々は、少しでも良い食材や餅を年神に捧げた。そしてお正月が明ければ、その供物を調理し、年神と共に食べたのだ。それが、おせち料理やお雑煮の始まりのようだ。
日本には「神人共食」の観念があるとされる。宴席で仲間の親睦を深めるように、神と共に食事をして親密な関係を築き、安寧を得ようとしたのだろう。祭事の後に氏子や崇敬者が集まって供物を調理したものを食べる「直会(なおらい)」が開かれるのも、この観念による。
年神への供物のおさがりを、若水を使っただし汁で煮込み、味噌や醤油で味付けをしたお雑煮は、かつては人が食べる前に竃や井戸の神に捧げられたり、冷水で身を清めた家長が下ごしらえをしたりした。お雑煮が神聖なものと捉えられていたのがわかる。
お雑煮を食べる「祝い箸」の両端が削られているのは、片方で神が食事をし、他方で人が食べるからで、まさにお雑煮は「神人共食」なのだ。
室町時代から? お雑煮が食べられ始めた時期と歴史
いつごろからお雑煮が食べられ始めたのかは、はっきりしていない。
しかし、1497(明応6)年に成立し、室町時代の食膳の調え方を説明した『山内料理書』の「夏肴くみ之事」には、来客に最初に出す料理は“焼物と五種のけづり物、雑煮である”と書かれており、この時代には「雑煮」という呼称があったとわかる。
この時のお雑煮の具は餅と瓜、いりこ、丸鮑で、たれ味噌で煮込んだものだ。ただし、ここでのお雑煮は夏の来客に出す汁物として登場しており、我々が思うお雑煮とは違い、単に「雑多な具材を煮たもの」を意味したようだ。
しかし、京都にある相国寺の院主が残した日記にも、1488(長享2)年の元旦に餅と豆腐、芋、なずな、昆布を煮た雑羹(ぞうこう)を食べたと記されている。「羹」は「あつもの」と読み、具材を煮たお吸い物を意味する。つまり雑羹はお雑煮のことで、室町時代には、正月にお雑煮を食べる風習がすでにあったと考えられる。
庶民がお雑煮を食べるようになった時期も定かではないが、江戸時代後期に喜田川守貞が京都、大坂、江戸の風俗を記録した『守貞謾稿』には、「元日、二日、三日、諸国ともに雑煮を食ふ」と書かれており、すでにこの時期、正月三が日には、全国的にお雑煮が食べられていたことがわかる。
続いて「雑煮、本名を『ほうぞう』と云ふなり。五臓を保養するの意にて、保臓と書すなり」とあり、お雑煮の本名が保臓であるという説もあるが、その根拠はわからないものの、体に良いものと認識されていたようだ。京都、大坂、江戸それぞれのお雑煮についても具体的で、京都のお雑煮には「芋魁(かしらいも)」を加えると書かれている。芋魁とは里芋の親芋のことだ。大坂のお雑煮は味噌仕立てで、焼いた丸餅、小芋、焼き豆腐、大根、干し鮑が入っていたという。江戸は、鰹だしを醤油で味付けしたもので、具は小松菜が使われた。
儒教精神が重んじられた明治時代、お雑煮は「家のもの」と考えられ、「嫁は家の雑煮の味を引き継ぐべし」とされたという。しかし現代では家の味にはこだわらず、好みでアレンジも加えられている。お雑煮は正月に欠かせないものだけに、時代とともに変化するのだ。
角餅・丸餅、お雑煮の餅の形や具材。地域によるさまざまな違いとその意味
江戸時代後期の守貞謾稿でも大坂は味噌仕立てで江戸はすまし汁と違いがあるが、現代においてもお雑煮の具や汁には地域色がある。
大きな違いは餅の形と汁の味付けだろう。『日本の食文化2 米と餅』からの孫引きだが、1986年に農山漁村文化協会が出版した『日本食生活全集』によれば、石川県東部、岐阜、三重県、和歌山県南部から東は角餅、それより西部は丸餅が主体のようだ。
しかし、高知県や鹿児島県南部では、主に角餅が用いられるなど例外もある。また、汁は全国的にすまし汁が多く、味噌仕立ては京阪神を中心とし、福井県、香川県、徳島県、岡山県などに多いようだ。だが、大阪から東京に転勤した家族は味噌仕立てで丸餅の雑煮を食べるだろうし、関東の女性が大阪の男性と結婚して引っ越せばすまし汁と角餅のお雑煮を作るかもしれない。同じ地域でも、各家庭のお雑煮が微妙に違うこともあり、一概に分布を作るのは難しい。
お雑煮はお正月に食べられるものだから、その具材にも縁起の良い意味づけがされるようにもなった。
おせち料理の海老を食べれば腰が曲がるまで健康でいられる、蓮根を食べれば見通しがよくなるといった願いが籠められるのと同じだ。お雑煮に餅を入れるのは、本来餅がハレの食べ物で、神祭りに欠かせないものだったからだが、丸餅を食べれば家庭円満、蔵の形に似ている角餅を食べれば家が栄えると意味づけられた。また、子芋をたくさんつける里芋は子孫繁栄の縁起物で、赤い人参は魔除けになるといわれる。
「きなこ餅雑煮」「あんこ餅雑煮」……各地の少し変わったお雑煮
変わったお雑煮といえば奈良県のきなこ餅雑煮や、香川県のあんこ餅雑煮が有名だろう。きなこ餅雑煮は白味噌仕立てのお雑煮に入っている餅を、別皿のきな粉につけて食べるもの。きな粉の黄色が米の豊作や家族の健康、子孫繁栄を意味するのだとされる。
あんこ餅雑煮も白味噌仕立てのお雑煮だが、入っているのがあんこ餅だ。讃岐藩第5代藩主の松平頼恭公によりサトウキビ作りが奨励されて砂糖が作られるようになり、「お正月くらいは贅沢をしよう」とあんこ餅が入れられるようになったという。
文化庁文化財部伝統文化課が主催した『全国から集めた伝統の味 お雑煮100選』は、平成16年12月22日から平成17年1月12日にかけて募集され、平成17年の旧正月(2月9日)に公表されたもので、全国の特徴的なお雑煮が集められている。いくつか紹介しよう。
鳥取県山間部では、とち餅を入れたお雑煮が食べられている。味噌仕立てで具はなく、とち餅を使うのは餅米を節約するため。農地が少ない山間部地域の工夫が偲ばれる。
岩手県の三陸沿岸地域では、摺り下ろしたくるみに調味料を加えて味を調え、餅につけて食べる。岩手県では庭に鬼ぐるみを植える家も多く、「くるみの味がする」といえば「おいしい」という意味になるとか。それほどに馴染みが深い食材なのだろう。
山陰地方の鳥取県や島根県では岩のりとかつおぶし、するめなどが餅に乗せられる。広島県や岡山では牡蠣や海老、はまぐりなどが入った豪華なお雑煮を食べる家庭も多いようだ。
お正月の暮らしで身近に伝えられてきたお雑煮だからこそ、地域色も豊かで、家庭ごとに味が違うのだろう。家に伝わるお雑煮の具や餅の形をみると、家系の歴史も想像できるのかもしれない。
■参考図書
柏書房株式会社『現代こよみ読み解き事典』岡田芳朗 阿久根末忠編著 1993年3月10日初版発行
株式会社吉川弘文館『日本の食文化2 米と餅』関沢まゆみ編 2019年6月20日第一版発行
女子栄養大学出版部『全国から集めた伝統の味 お雑煮100選』文化庁文化財部伝統文化課
■孫引き
農山漁村文化協会『日本食生活全集』全50巻 日本の食生活全集編集委員会編 1986年4月発行
公開日:








