関東大震災や第2次世界大戦の戦災をくぐりぬけてきた商家建築
東京・谷中(台東区)は、1923(大正12)年の関東大震災や1945(昭和20)年の第2次世界大戦の空襲による被害が比較的少なかったこともあり、明治、大正、昭和の戦前期の建物が点在するまちとなっている。そんなエリアの一角でみられる商家建築が旧吉田屋酒店だ。切妻屋根・木造2階建ての建物で、1910(明治43)年に建てられたものだ。
1987(昭和62)年より台東区立下町風俗資料館付設展示場「旧吉田屋酒店」として一般公開され、1989(平成元)年には1階店舗部分と2階、道具・文書類が台東区の有形民俗文化財に指定された。
建物の歴史的な価値もさることながら、館内には吉田屋酒店として営まれていたころに使用されていた道具のほか、台東区内外から寄贈された資料が展示され、その昔の下町の生活文化を学ぶことができる。入館無料で気軽に見学できるということで、早速、取材に出向いた。
江戸時代に創業し、昭和末期まで酒屋を営んでいた「吉田屋酒店」を移築保存
吉田屋酒店は、江戸時代に谷中地域で創業したと伝えられている酒屋。1910(明治43)年に谷中茶屋町(現・谷中6丁目)で店舗などを新築し、1935(昭和10)年に階段の付け替えや正面入口にガラス戸を新設するなど、一部を改築した。
第二次世界大戦中には、吉田屋酒店は地域社会のなかで重要な役割を果たしていた。政府が定めた配給制度のもと、人々は割り当てられた量の範囲内でお金を払って配給を受けるといった暮らしを送っていたが、吉田屋酒店は1942(昭和17)年から酒、味噌、醤油、塩などの配給物資の取次ぎを行っていたという。
そんな吉田屋酒店が、長い歴史の幕を閉じたのは1986(昭和61)年のこと。それに際し、店舗・住宅を取り壊して新しくビルを建設する計画がもちあがったが、地域住民から建物保存を望む声がわき起こったという。吉田屋酒店は地域の原風景として愛着をもたれていた存在だったのだろう。そうした気運が高まるなか、台東区が建物の寄贈を受け、およそ100m先、都有地である現在地(台東区上野桜木2丁目)に移築保存されることになった。
移築以前の吉田屋酒店は店舗と2階(店員の居室など)に加え、奥に住宅と倉庫が設けられていたというが、移築にあたっては、明治から昭和初期にかけての酒屋店舗の姿を後世に伝えることを目的とし、店舗と2階の保存に注力した。倉庫は1910(明治43)年の写真をもとに外観のみを復原。そして、1階店舗部分を構造的に補強するために、店舗の後方に8畳の和室(2室)などを増設している(※)。
そうして1987(昭和62)年、台東区立下町風俗資料館付設展示場として公開され、今に至っている。
(※)増設された和室は一般公開していない。
1階、2階の軒下の構造は「出桁造り」
台東区立下町風俗資料館付設展示場「旧吉田屋酒店」では、江戸時代から伝わる伝統的な商家建築の様式を見ることができる。その典型的な様式が出桁(だしげた)造りと呼ばれるもの。建物正面、1階と2階の軒下を見ると、桁が柱より前に張り出している様子がわかるが、これが出桁造り。基本、構造材として外壁の内側におさめるべき桁を外壁の外に張り出すことで、より大きな荷重に耐えられるようにしたものだ。
出桁造りにすることで大屋根をのせたり、大看板を掲げたりすることができ、より立派な外見の建物をつくることができる。また、庇を伸ばして、庇下の空間を雨よけ、雪よけなどの機能をもたせることができる。
つまり、出桁造りは、軒の部分を広く、深くとり、その強度を保つことができるという機能性とともに、建物正面から見たときに存在感のある腕木(うでぎ)や桁が目に入り、それらが整然と並んでいるという装飾性を兼ね備えている。
「出桁造りは、もともとは、屋根に積もった雪に耐えられるようにと、雪の多い地域で多く用いられた様式といわれています。それが重厚で立派な建物外観にもなるということで、江戸時代の商家で盛んに取り入れられるようになったと伝えられています」と、台東区立下町風俗資料館の専門員、近藤剛司さんが教えてくれた。
シャッターの原型ともいうべき「揚戸」
もうひとつ、特徴的なのは、出入り口に揚戸(あげど)を設けていることだ。出入り口の左右の柱に溝をつけ、その間にはさんだ板戸と格子戸の上下2枚ずつを溝に沿うようにして上げ下げすることで、開閉するという仕組み。今でいうところのシャッターだ。昼は揚戸を上に揚げ、壁の内側に格納しておき、夜、閉店時刻がくると、下に下げる。揚戸は、引き戸と違って戸袋が間口を狭めることがないので、客の出入りや、酒樽など大きくて重い商品の搬入・搬出に適していた。
揚戸の内側にはガラス戸がほどこされているが、1935(昭和10)年の改築時に新たに設けられたものとされている。
帳場と掛売り…戦前の商家の商い
さて、1階の店舗中央奥、一段高くなったところに畳敷きのスペースがある。ここは金銭の計算や、商品・金銭の出し入れを帳簿に記録する帳場。今でいうレジのような役割を担っている場所なのだが、帳場に座れるのは店員なら誰でもいいというわけではなく、ベテラン店員の中から選ばれた「番頭」でなければ座ることはできなかったという。
「旧吉田屋酒店に限らず、昭和前期ごろまでの商家では、掛売りという方法で商いをするのが一般的でした。商品の代金はその場で現金で支払ってもらうのではなく、帳簿に売買の記録をし、期日がきたらまとめて集金していたのです」と、近藤さん。
現在、旧吉田屋酒店で置かれている帳場机は1935(昭和10)年から使われていたものという。帳簿机のまわりには、お客と帳場との間を仕切るために置かれた帳場格子、金銭の計算をするそろばん、金銭を入れるのに用いる銭箱(ぜにばこ)、硯(当時は筆記用具として筆を用いていた)などが備えられている。
帳場の右側には、2階へと続く階段がある。この階段を上がって2階を見学することはできないが、2階には1910(明治43)年建築という3畳半と8畳の和室が残されている。商家の2階は、江戸時代から使用人の居室に使われることが多かったといい、この旧吉田屋酒店も2階は店員の居室となっており、常時6人くらいの店員が住み込みで働いていたそうだ。
明治、大正、昭和初期に使われていた道具類
旧吉田屋酒店は、前述のように戦時中は生活物資の配給の取次ぎを行っていた店という歴史をもち、酒のほか、砂糖や塩、醤油などの販売もしていた。
そうした歴史を物語るかのように、こも樽や陶製の酒樽、徳利など日本酒関連の道具のほか、砂糖を陳列するケースや製糖会社のポスター、塩用のへらなどが並ぶ。
量り売りで酒を購入していた時代の「貧乏徳利」
台はかり、さお秤、枡、漏斗(じょうご)など、大正期から昭和の初期ごろに使われていた計量道具類の展示も目を引く。その昔は、今のように瓶詰めや袋詰めでの販売ではなく、量り売りが一般的だったのだ。
昭和の初期ごろまで、日本酒の量り売りは、お客が自分用の容器を持参し、希望する量だけ酒を販売するというスタイルだったが、その容器として庶民が主に用いていたのは徳利だったという。マイ徳利を持参して酒を買いにいっていたということになるが、旧吉田屋酒店の棚に並ぶ徳利を眺めていると、「貧乏徳利」と名付けられた徳利があることに気づく。明治から昭和の初期に使われていたという貧乏徳利。なぜ貧乏と呼ばれていたのか明らかではないようだが、そのころまで、酒は販売する店が徳利を貸し出し、お客がそれを持参して購入していたという。そのレンタル徳利を携えて酒屋と家の間を往復することから、通い徳利とも呼ばれていた。店から貸し出された徳利なので、お客はその店に通う固定客ということになり、酒屋としても安定した売り上げを見込めたわけだ。また、徳利には酒屋の屋号や所在地などが書かれているので、お客がそれを携えて外出すれば、店の宣伝にもつながっただろう。
令和の今、ワインやビール、ノンアルコール飲料、ソフトドリンクなど、さまざまな飲料があるので、単純に比較はできないが、昭和初期までは、日本酒は人々の暮らしに身近な存在だったように思う。
このように昭和の初期ごろまでの人々の暮らしや、商家の商いをかいま見ることができる旧吉田酒店。谷中散策を楽しみがてら、訪ねてみてはどうだろう。
この下町風俗資料館付設展示場旧吉田屋酒店から徒歩20分~30分、上野公園の不忍池の畔にあるのが下町風俗資料館。この資料館も取材させていただいたので、稿をあらためてレポートしたい。
☆参考資料
『台東区の文化財保護第1集』(台東区教育委員会)
『台東区立下町風俗資料館 図録』(公益財団法人台東区芸術文化財団 台東区立下町風俗資料館)
☆取材協力
台東区立下町風俗資料館付設展示場「旧吉田屋酒店」
https://www.taitocity.net/zaidan/shitamachi/shitamachi_annex/
台東区立下町風俗資料館
https://www.taitocity.net/zaidan/shitamachi/
公開日:

























