下水道分野では初めての国の重要文化財指定
東京都荒川区、隅田川中流に位置する三河島水再生センター。東京都内に20ヶ所ある水再生センターのひとつで、荒川区と台東区の全域、文京区と豊島区の大部分、千代田区・新宿区・北区の一部を処理区域とする下水処理施設だ。日本初の近代下水処理場「三河島汚水処分場」として、1922(大正11)年に運転を開始。当時の最新技術を導入し、1日あたり約40万人分の下水処理機能をもっていたという。そんな創設期の構造をとどめる「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」が、三河島水再生センターの敷地内に残る。運用当初の状態をほぼ保ったまま、1999年に休止されるまでの77年間、稼働し続けていた。
日本の下水道における黎明期の遺構として、また関東大震災以前の鉄骨・鉄筋コンクリート造の建物として、歴史的な価値から、2007(平成19)年、下水道分野では初めての国の重要文化財(建造物)に指定された。
この旧三河島汚水処分場喞筒場施設(以下、旧ポンプ場施設)は一般公開されており、事前に予約を入れれば見学できる(無料)。そこで重要文化財を通して下水道の知識を深めるべく、取材に出向いた。
※本記事は、2020年11月に実施した取材内容に基づく。
※新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、施設見学の受け入れを中止する場合があるため、施設の開館状況および見学予約については、施設のホームページで確認いただきたい。
明治維新を迎え、コレラ対策、東京の発展には下水道整備が急務に
まずは、見学担当職員によるレクチャー。旧三河島汚水処分場の歴史や概要について、話を聞いたり、ビデオを見て学んだ。
下水を効率よく集めて浄化するという近代的な下水処理施設ができる以前の日本では、し尿はため置いた後、農地で肥料として利用し、家庭から出る生活排水や雨水は川などに流していた。しかし、幕末から明治期にかけ、日本ではコレラが猛威をふるい、公衆衛生を向上させるべく、下水道施設の整備が必要となった。
加えて、首都・東京では近代化が進み、人口が増加。し尿や生活排水も増え、汚れた水がたまりやすい状態になった。また、外国から安価な化学肥料が入ってきて、農作物の肥料としてのし尿の需要が減少。その結果、川などにし尿が廃棄され、まちの環境は不衛生になってしまった。そこで、下水道整備が急務となった東京でまず造られたのが「神田下水」である。現在のJR神田駅付近の地下に約4kmにわたって敷設された下水道管で、1885(明治18)年に完成した(神田下水の一部は、今も現役で稼働)。
そして1889(明治22)年、東京府の都市計画の一環として「東京市下水設計第一報告書」が作成され、汚水処分場候補地として挙げられたのが三河島だった。財政難でその計画は実行されなかったが、1907(明治40)年、東京帝国大学教授の中島鋭治が「東京市下水設計調査報告書」を提出。1908年、国の認可を得て「東京市下水道設計」が告示され、三河島汚水処分場の建設が決定した。
三河島汚水処分場は、事業計画のなかの第二区(現在の台東区のほぼ全域と千代田区の一部)の汚水と雨水を処理し、荒川(現・隅田川)に放流する施設として計画された。1914(大正3年)に建設開始。当時、広大な水田地帯だった三河島に、8年の歳月をかけて日本初となる下水処理場が誕生したのである。稼働を開始した翌1923年に関東大震災が起きたが、大きな被害を出さずに済んだという。
この旧三河島汚水処分場の設計を担当したのは、中島鋭治の教え子で東京市技師の米元晋一だ。日本で前例のない下水処理施設を築くにあたり、東京市では米元を欧米に派遣。1911(明治44)年に欧米6ヶ国48都市を9ヶ月かけて視察した米元は、そこで得た知見を活かし、帰国後、三河島汚水処分場を含む第一期下水道改良事業を主導した。ちなみに米元は、日本橋川に架かる『日本橋』の設計を担当したことでも後世に名を残す。
上左)施設を見て回る前に、見学担当職員の野崎正伸さんからレクチャーを受けた。1922(大正11)年に「三河島汚水処分場」としてスタートした「三河島水再生センター」の概要についても教えていただいた上右)汚水処分場の建設工事が始まる前の三河島の一帯は水田地帯だった下左)汚水処分場完成前の1921年の写真。手前が濾格室上屋、奥がポンプ室下右)1925年に東京市下水課が発行した下水道事業概要に添付されていたという「三河島汚水処分場一般図」。当時の施設の配置や断面が記されており、その時代の下水処理工程を知ることができる※古写真、図面は「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」で公開している映像、展示資料より転載レンガタイル貼りの建物では、今では希少な「覆輪目地」も
下水処理にはいくつかの段階があるが、旧ポンプ場施設で行っていたのは、最初の第1段階の過程だ。どんなことを行っていたのか、概要を整理すると、次のようになる。
各地からの下水はこの汚水処分場に集まり、まず、入口阻水扉室(いりぐちそすいひしつ)を通って沈砂池(ちんさち)へ。ここで土砂を取り除き、さらに濾格機(ろかくき)で下水中のゴミをスクリーニングして除去する。その後、ベンチュリ管という量水器を経て、地下水路へ。沈砂池で取り除いた土砂やゴミはトロッコに積まれ、坂の上まで引き上げる。
一方、量水器を通過した下水は、ポンプ井(ポンプせい)という貯水槽を通り、ポンプで地上に吸い上げられ、第2段階である水処理の施設へと送り込まれた。
そんな旧ポンプ場施設の役割がわかるように、過程を追って見学コースが設定されている。見学担当職員の野崎正伸さんに案内していただき、見て回った。
【下水は入口阻水扉室から沈砂池へ流入】
最初に1925(大正14)年に表玄関として建設された門衛所を見て、旧ポンプ場施設の区域へ。入口にある一対のレンガタイル貼りの建物は「入口阻水扉室上屋(いりぐちそすいひしつうわや)」。地下にはメンテナンスなどの際、一時的に下水を止める扉(阻水扉)があり、上屋には、阻水扉を開閉する油圧装置が格納されている。
【沈砂池で土砂や大きなゴミなどを取り除く】
先へ進むと2基の沈砂池。かつては下水が流入し、沈殿させた土砂を揚泥機(ようでいき)でかき揚げて取り除いていた。土砂を沈殿させるために、ゆっくりした速さで下水を流す設計になっていたという。
沈砂池に浮遊する大きなゴミ類を取り除いたのは、濾格機という機器。濾格機を設置し、操作をするための施設が、沈砂池の奥の濾格室上屋(ろかくしつうわや)だ。この建物も外壁はレンガタイル貼りで、レンガとレンガの間の継ぎ目(目地)に覆輪目地がほどこされている部分がある。覆輪目地は、レンガの駅舎として知られる東京駅の外壁にも用いられている技術。目地の断面が半円形で、かまぼこのように盛り上げることで目地を際立たせ、レンガの美しさを強調するという、高度な左官技術だ。今ではこの技術をもつ職人は少ないのだが、そんな希少な職人技を、日本初の下水処理施設で見ることができたのは新鮮な驚きだった。
かつて下水が流れていた地下で、曲線美や陶板タイルの工夫を見る
【下水は地下のポンプ井で流れを整え、地上のポンプ室へとくみ上げられる】
旧ポンプ場施設では、沈砂池を通った下水は、地下の下水道管に取り付けられたベンチュリ管という量水器を経て、地下水路へと送られた。この量水器で測定した流量によって、ポンプ室で稼働させるポンプの台数などを決めていたという。
見学の順路も、地下へ。中間阻水扉室から階段を下りて地下へ進むと、地下の回廊といった趣のポンプ室暗渠の空間だ。その昔、下水が流入していた導水渠(どうすいきょ)はアーチ型で、なめらかな曲線美が印象的。底盤の曲面に敷き詰められているのは陶板タイルで、1枚1枚に直径2~3㎝ほどの穴が数個、あいている。これは陶板を固着させるための、空気抜きの穴と教わった。下水が流れる勢いによって陶板が剥がれることのないよう、穴をあけて防止したという。
東西に分かれて沈砂池を通過した下水は、ポンプ室の手前で合流し、阻水扉を通過してポンプ井に送られる。ポンプ井とは、ポンプでくみ上げるための吸い込み管を配置した貯水槽。そうしてポンプ井に入った下水は、地上のポンプ室にあるポンプでくみ上げられていく。
1933(昭和8)年から10台目のポンプ用に使用されたという10号ポンプ井の吸い込み管の前で、野崎さんはこう解説してくれた。
「昔は停電や故障が頻繁にあったようです。そうしたときに逆流するのを防ぐための逆止弁(ぎゃくしべん)が、10号ポンプの吸い込み管の途中に取り付けられています。また、吸い込み管の下に富士山のような形をしたコンクリートの造型がありますが、整流用の設備で、すべてのポンプ井に設けられています。下水の流れを整え、流れやすくすることで、効率よく吸い上げることができるのです」
昭和初期にして故障時を想定していたり、作業効率を考えた構造物が使われていたことに、先人の創意工夫と高い技術力を感じた。
セセッション様式のポンプ室
【ポンプ室にあるポンプで下水をくみ上げ、水処理施設へと送る】
地上へ戻り、ポンプ室へ。この建物も赤いレンガタイル貼りの美しい佇まいで、旧ポンプ場施設のシンボルとなっている。東京駅と同じく、品川白煉瓦(現・品川リフラクトリーズ)のレンガタイルを使用。建築様式は、当時日本で流行していたというセセッション様式を取り入れ、東西に両翼をもち、垂直線と水平線が多用されたシンプルでモダンな建物だ。
内部は天井が高くて開放的。天井の屋根は、トラス構造(部材を三角形に組み合わせ、各部材に重力を分散させるようにした骨組)の一種で、変形キングポストトラス鉄骨で支えられている。下部がアーチ型なのが特徴で、天井クレーンを通すためのもの。天井クレーンは、ポンプや変圧器といった重量のある機器類の搬出・搬入や、天井の照明ランプの交換などに使われた。
ポンプ室には10台のポンプが並ぶ(創設当初は9台)。現在目にするのは1964(昭和39)年~1973(昭和48)年に取り替えられたポンプで、創設期から数えて2代目~4代目になる。創設当初に設置されていたのは「ゐのくち式渦巻ポンプ」。東京帝国大学の井口存屋(いのくちありや)博士が1905(明治38)年に発表した論文「渦巻ポンプの理論」に基づいて製造されたもので、世界からも評価された技術という。東京市の下水道以外にも水道、水力、鉱山などさまざまな産業で導入された機械設備だと知った。
ポンプ室の2階の一角では、東京の下水道事業史や三河島汚水処分場の水処理技術の変遷などを伝える写真や設計図などが展示されていた。
ポンプ室を出てからも、1922年から1999年まで77年間使用されたという馬蹄形レンガ敷きの下水道管などを見学。締めくくりは、東側の高台にある「土運車引揚装置(インクライン)用電動機室」で、インクラインを動かす電動巻上機を設置し、操作していた場所。沈砂池で取り除かれた土砂やゴミがトロッコに積まれ、インクラインで坂の上まで引き上げられたという。
こうして所要約90分の見学は終了。欧米の下水処理施設に匹敵するものをつくろうとした技術者、職人の気概が伝わってきた時間だった。
普段はあまり意識していない下水道だが、手を洗ったり、調理や洗濯、水洗トイレなど、使ったあとの水を衛生的に処理し、私たちの暮らしを支えるインフラであると実感した。
参考資料
・『ニュース 東京の下水道』(東京都下水道局)
・『下水道東京100年史』(東京都下水道局)
・『三河島と日本初下水処理施設』(荒川区教育委員会 荒川区立荒川ふるさと文化館)
☆取材協力
旧三河島汚水処分場喞筒場施設
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