46代目当主が守る明治の旅館

島根半島の東端、三方を海に囲まれた美保関。実はここには、出雲大社にも引けを取らぬほど古来の祭事が残る。

出雲といえば国譲りの神話が有名だが、国譲りが決断された舞台はこの美保関なのだ。神話では、出雲大社のほど近く稲佐の浜に建御雷神(たけみかづちのかみ)が到着し、大国主神(おおくにぬしのかみ)に国譲りを迫る。しかし、大国主神は、「祭事は美保関に住む息子に任せているから、息子の意見を聞きたい」と美保関まで船で使いを出し意見を聞いた。その息子が事代主神(ことしろぬしのかみ)だ。海に出て魚釣りをしていた事代主神は、国譲りを進言すると海に青柴垣を作り、天逆手を拍って海中にお籠もりになった。これが国譲りの神話だ。

つまり、ここ美保関が国譲りを決定した舞台になる。そして、美保神社に残る「諸手船(もろたぶね)神事」、「青柴垣(あおふしがき)神事」をはじめとした数々の神事が、それらを語り継いでいるのだ。

かつては「両参り」といわれ、出雲大社の参詣をしたらこの美保神社にも参詣するのが通例だった。海上交通の要所であった美保関は賑わいを見せた港町だったが、現在では公共交通が少ないことからも、足を運ぶ人は少ない。

そんな美保関で「国登録文化財」の明治の建物が現役の旅館として営業をしている。その名も「美保館」だ。運営するのは、この地で古くから廻船問屋を営んできた「定秀家」。46代続く名家である。後継となる定秀陽介氏は、本館ばかりでなく、次々と残されていた古民家のリノベーションを手掛け、同地区で旅館やゲストハウス等6軒を展開する。その狙いは「街並みを残し、回遊できるまちを細くとも長く維持していきたい」そんな思いからだ。

今回は、そんな美保関の港町の存続を願う、美保館の古民家再生の取り組みを紹介しよう。

明治42年に建てられ、現在では国登録文化財に指定される「美保館本館」明治42年に建てられ、現在では国登録文化財に指定される「美保館本館」

建築に4年をかけた数寄屋造りの本館

昭和初期には中庭をガラス天井に改築してアトリウムに。ウエディングドレスを着ての撮影スポットとしても人気昭和初期には中庭をガラス天井に改築してアトリウムに。ウエディングドレスを着ての撮影スポットとしても人気

島根県美保関町、古くは、日鮮貿易の拠点として栄え、日本からは主に「たたら製鉄」による鉄の輸出港として繁栄した。室町時代には幕府の直轄領となるほど貿易量を誇り、江戸から明治にかけては北前船の寄港地として廻船問屋が軒を連ねていた。

美保館を建てた定秀家も有数の廻船問屋だ。「家系図を辿ると、源平合戦の折に、源氏軍の東の武将であった松田十郎藤原貞秀が祖となります。石橋山の戦いに敗れた彼は、美保関まで逃れ定住しました。41代目の定秀寛一・ナツ夫妻が美保関で初めての本格的な旅館を開いたのが美保館の始まりでした」(定秀氏)

羽振りの良かった廻船問屋から、なぜ41代目が本格的に旅館業に転身したか。それは先の時代を予見しての決断だ。明治35年に山陰初の鉄道が開通したことを契機に、海上交易の衰退を見てとったという。

現在の美保館本館は、明治38年に着工し、42年にお披露目となった。建築に4年もかけていることからも分かるが、選りすぐった銘木を複雑に組んだ数寄屋造りの豪奢なものだ。大工や職人の意匠が随所に込められている。

しかし、時代は高度成長期を迎える。昭和47年には、境水道大橋が開通、昭和49年には上水道が通ったことを契機に昭和54年に近代的な鉄筋コンクリートの新館を数軒先につくり、本館での営業を一旦休止したという。

「時は高度経済成長期。近代的な建物がもてはやされた時代です。全国的に多くの旅館が鉄筋コンクリートの建物へと姿を変えた時代でした。ただ、廻船問屋・船宿をやっていた時代の物件を多く所有していたこと、また父である先代が大屋根の葺き替えなど本館の手入れを怠らず建物を維持していたことで、今日につながったと思います。祖父母の代から歴史ある本館を残して、またいつかは営業したいと言っていました。」(定秀氏)

平成に入り、東京の大手IT企業で働いていた陽介さんが跡継ぎとして美保館に戻ると、自らの結婚式を本館を舞台に開催。美保館から美保神社までは数分。左右に古民家が並び趣ある石畳が続く青石畳通りを抜けての花嫁行列。美保館は昭和の初めにそれまで中庭だった空間をガラス天井にしてアトリウムに改築されているため、そのフォトジェニックな空間でのフォトサービスにも人気が集まった。そこから、本館の再利用が活発化していく。

アトリウムもあり、和洋折衷の不思議な魅力

ではここで、平成16年に国の登録有形文化財に指定された美保館本館を見ていこう。前出したように、明治期に建てられた際の全体のつくりは純和風の数寄屋造り。青石畳通りから入る玄関の間口は広く、当時のまま番頭部屋が残る。江戸時代には北前船の風待ち港として賑わった美保湾は、一日千隻もの船が出入りしたといわれる。本格旅館として開業したが、番頭部屋が残るのは、宿屋を兼ねた廻船問屋の名残りかもしれない。

玄関を進むと、前出したアトリウムのロビーが出現する、もとは中庭だった空間にガラス天井をかけて改装しているだけに、和洋折衷的な独特な空間が広がる。吹き抜けの2階を見れば純和風の茶室や回廊、そこにガラス天井の不思議な感覚が魅力だ。この空間でウエディングドレスを着て撮影をするカップルも多いそうだ。

その奥に進むと広間で、宿泊客の朝食会場となる。目に飛び込んでくるのが海を一望できる開口部からの景色。水面に反射する朝日のきらめきがまぶしい。実は昭和の時代になるまで美保関は陸路がなく、船で往来していた。現在ではこの窓辺の向こうに車道があるものの、この建物が建てられた頃はまだ海だった。窓から釣り糸を垂らして、釣りができそうな雰囲気だ。

細部の意匠も見事。1階広間の欄間は、組子の「麻の葉文様」。2階の大広間の長押(なげし)は節のない見事な一枚の木材が使われている。長押というのは、本来構造の強度にはさほど影響しない化粧材。江戸時代には権威の象徴として幕府から長押をつくることを禁止された時期もある。贅沢品ともいわれる長押にこれほどこだわれる建造物というのは今ではなかなか見ることができないだろう。

青石畳通りに表玄関を持つ美保館(左)。広間の開口部は懐かしい歪みが目立つ手作りのガラス戸。その向こうには美保湾が広がる(右:上)。広間の長押は節のない見事な木材が使われている(右:下)青石畳通りに表玄関を持つ美保館(左)。広間の開口部は懐かしい歪みが目立つ手作りのガラス戸。その向こうには美保湾が広がる(右:上)。広間の長押は節のない見事な木材が使われている(右:下)

朽ち果てる前に……。6棟の古民家再生宿を実現

現在本館は基本宿泊は受け付けていない。その代わり、青石畳通りを挟んで向かい側にある、本館より少し遅れて作られたこちらも見事な数寄屋造りの建屋を「別邸離れ」として1日1組の貸し切り宿として再生した。こちらも同じく国登録有形文化財に指定されており、細部の意匠は本館に引けを取らず見事だ。

ほかにも、大正元年建造、築100年の古民家を島根大学建築デザイン科がリノベーションした「別邸 柘榴(べっていざくろ)」、そして同じく青石畳通りに大正初期に旅館として建てられた一軒家をリノベーションした「別邸 月奈離宮」、さらには、明治期に建てられた船宿をリノベーションした4室のゲストハウス「ゲストハウス神邑(かみむら)」と時代を感じさせる建物の再生を行っている。

「正直言って、採算が取れるかどうかを考えていてはできないほど古い建物を残すことは大変です。ですが、一度朽ちてしまったらもう再生することはできない。今が古いものを残すにはギリギリの時期かと思います。以前、所有する歴史ある建物が老朽化してどうにもならなくなり解体となったことがありました。その時に、朽ち果ててしまってはどうにもできないと痛感したのです」(定秀氏)

「青石畳通りにある、歴史ある建物が朽ちていき空き家から空き地となり、街並みが歯抜けになるのは避けたかった」と定秀氏は言う。

青石畳通りには、昔ながらの干物屋があり、コンビニなどはなく居酒屋などもない。酒屋に地元の人たちが集まって一杯ひっかけて集う。そんな青石畳通りの景観を残し、回遊させたくてこれだけの建物をリノベーションし、再生させたのだ。

本館2階の廊下はちょっとしたギャラリー、まだ美保館への往来が船で行われていた頃の貴重な写真などが並ぶ(左)。本館2階の茶室(右:上)。本館に1階のBarスペース。週末Barやコンサートなどイベントも行われる(右:下)本館2階の廊下はちょっとしたギャラリー、まだ美保館への往来が船で行われていた頃の貴重な写真などが並ぶ(左)。本館2階の茶室(右:上)。本館に1階のBarスペース。週末Barやコンサートなどイベントも行われる(右:下)

青石畳通りを基点に回遊できるまちへ

だから、別邸やゲストハウスは基本宿泊のみで、夕食はほかの食堂などを紹介する。まちをぶらりと散策して回遊を促し、まち全体にお金を落としてもらう仕組みだ。

「まちの人口は減少がつづいています。日本全体に少子高齢化が顕著な中、地域の人口を維持するのは困難な状況です。でも、日々の観光客・宿泊客が増え、街中を散策すれば、流入人口による地域の活性化は可能です。この展開がひいては新しい産業を生み、UIターンの増加も見込めるのではないかと考えています。」(定秀氏)

コンビニのない場所で、観光化されていない良さをそのままに、細く長くまちが続いていけばいいと、定秀氏は言う。そのための今しかできない古民家再生だったのだ。定秀氏は、現在、建物を再生するだけでなく、ソフトの面でもいろいろなアイデアを絞りながら、人を呼ぶイベントを企画している。

例えば、本館の1階には週末だけ開催されるbarスペースがある。そこではJAZZなどのコンサートを度々開くなどイベントの企画や誘致を続けている。また「美保館」では、大手IT企業やスタートアップの研修会のプラン行っているという。本館や古民家を一部開放し、海を眼下に開発を行ったり、経営戦略を練ったりするそうだ。これには、「都会では出てこないアイデアが溢れてくる」、「旅先の解放感から、意外な発見や前向きな本音が出る」と評判が高いという。

最近では、出雲大社との両参りで縁結びが叶うというプロモーションがじわじわと広がってきたことから、若い女性客がまちを訪れることも増えてきた。定秀氏は「新しい客層が生まれてきているのを感じる。慌てて急激に観光化するのではなく、美保関ならでは良さを保ちながら取り組みを続けていきたい」という。

この地に残る「青柴垣神事」では、毎前に「当屋(とうや)」を決め、一年間の精進潔斎の後神事に望む。その一年間は、365日続く厳しい掟があり、まちの人々は粛々と数百年も、その伝統を守り続けている。

日々の生活に古来の神事が残るまち、それが美保関だ。急激な観光化はまちを別のものへと変えてしまう。そのバランスというのが難しいのだが、定秀氏の言うように細く長く続いていくことを願いたい。

お話を伺った美保館のオーナー 定秀陽介氏(左)。40歳から地元の観光協会長を務め、さまざまな施策を打ちながら5年が経過したという。さまざまな施策を。車道が通る前は、海から切り出した青石を敷き詰めた石畳がメインストリート。宿屋を兼ねた廻船問屋が軒を連ねた(右)お話を伺った美保館のオーナー 定秀陽介氏(左)。40歳から地元の観光協会長を務め、さまざまな施策を打ちながら5年が経過したという。さまざまな施策を。車道が通る前は、海から切り出した青石を敷き詰めた石畳がメインストリート。宿屋を兼ねた廻船問屋が軒を連ねた(右)

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