山林王と呼ばれた実業家、二代諸戸清六の邸宅

お話をお伺いした桑名市役所の水谷さんお話をお伺いした桑名市役所の水谷さん

三重県桑名市に残る古き建物「六華苑(ろっかえん)」。ドラマや映画のロケ地としても多く使われており、見覚えがあるという方もいるのではないだろうか。ここは、二代諸戸清六の新居として1911(明治44)年に着工。1913(大正2)年にできあがった。

諸戸家は代々庄屋をつとめていたが、江戸末期に初代諸戸清六の父親が塩の売買に失敗し、多額の負債を抱えた。その後、初代は米穀業で成功をおさめ、負債を完済。事業を拡大して、田畑の開墾、山林の植林を行い、日本一の大地主と言われるまでになった。

初代には四男六女の子どもがいたが、長男と三男は早逝。初代が1906(明治39)年に死去すると、次男の精太が家屋敷を継承。当時18歳で早稲田大学に通っていた四男の清吾が二代目を襲名し、家業を引き継いだ。

六華苑は、初代が住んだ屋敷の隣地に立つ。1991(平成3)年に桑名市が土地を取得し、建物は諸戸家から寄贈された。整備工事のあと、“清六”の“六”、桑名の呼び名のひとつだった“九華”から、六華苑と名付けられ、1993(平成5)年に一般公開されるようになった。ちなみに、初代の屋敷につくられた庭は、「諸戸氏庭園」として春と秋に一般公開されている。

今回、桑名市役所 産業振興部 観光文化課の水谷芳春さんにご案内いただき、1997(平成9)年に国の重要文化財に指定された近代建築を見学してきた。

“日本近代建築の父”、ジョサイア・コンドルに設計を依頼した洋館

六華苑は洋館と和館があり、洋館の設計はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが担当した。

「初代と大隈重信が懇意にしており、二代清六は大隈邸から早稲田中学に通っていたそうです。さらに諸戸家は(三菱財閥を創業した)岩崎家とも懇意にしておりました。大隈とも関係がある岩崎家はコンドルを支援していました。そういったつながりで紹介してもらったのではないかといわれてます」と水谷さん。

1877(明治10)年に、近代化を図る日本政府の招聘で来日したコンドル。工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の教授として、多くの日本人建築家を育成した。その教え子には、東京駅の設計で知られる辰野金吾がいる。

コンドルは教職の一方で政府の要望で鹿鳴館などを手掛け、その後、官職を離れても日本に残り、建築事務所を開いた。岩崎家の第三代当主・久彌の本邸(現在の旧岩崎邸庭園)をはじめ、全国で70棟以上設計したが、現存しているのは8棟ほど。そのほとんどが関東地区にあり、六華苑はそれ以外に唯一残る住宅作品だ。

「洋館の特徴は、塔屋とサンルーム、ベランダです。コンドルの作品ではどの建物にもあります。ベランダのデザインはインドでよく使われていた様式で、植民地時代の様相があると考えられ、日本人はベランダやサンルームは好まない傾向にありました」

シンボルのひとつである塔屋は、住居部分の屋根より高い4層だが、実は設計段階は3層だった。初代が植えた桜並木によって揖斐川と長良川の眺めを見渡すことができなかったため、二代清六の要望で変えられた。曲面状のガラスも当時としては珍しいものだったという。

また、薄い青色が目を引く洋館の外壁は、2014(平成26)年に修理。「修理以前はグレーっぽい色でした。建てられた当時の色かは不明ですが、すりだしによる調査と戦後のこの建物を知る方にお伺いして再現した色です」

左上/入場口から続くゆるやかなカーブの道の先に現れる洋館の玄関。1945(昭和20)年7月24日にあった桑名空襲により爆弾が敷地内に落ち、玄関扉やガラスなどが被害を受けた。車寄せも倒壊してしまったが、残されていた台座の石を活用し、1992(平成4)年の一般公開前の整備工事で復元された。左下/日本で洋館建設が進められていくなか、日差しが遮られるベランダは明治の中頃から次第に好まれなくなったという。六華苑の2階はサンルームとしてガラス戸張りにすることで日差しが届くように工夫された。右上/応接間として使われていた塔屋の1階(左)と2階(右)。照明器具は戦争の時に供出したため、当時使われていたものに似たデザインのものを取り付けた。右下/2階のサンルーム。窓ガラスは2ミリほどの厚さしかなかったため温度差などで割れてしまい、数枚だけ当時のままのものが残る左上/入場口から続くゆるやかなカーブの道の先に現れる洋館の玄関。1945(昭和20)年7月24日にあった桑名空襲により爆弾が敷地内に落ち、玄関扉やガラスなどが被害を受けた。車寄せも倒壊してしまったが、残されていた台座の石を活用し、1992(平成4)年の一般公開前の整備工事で復元された。左下/日本で洋館建設が進められていくなか、日差しが遮られるベランダは明治の中頃から次第に好まれなくなったという。六華苑の2階はサンルームとしてガラス戸張りにすることで日差しが届くように工夫された。右上/応接間として使われていた塔屋の1階(左)と2階(右)。照明器具は戦争の時に供出したため、当時使われていたものに似たデザインのものを取り付けた。右下/2階のサンルーム。窓ガラスは2ミリほどの厚さしかなかったため温度差などで割れてしまい、数枚だけ当時のままのものが残る

20代の若き依頼主に合わせたシンプルな内装

洋館の1階はホール、客間、食堂など、2階は居間と書斎、寝室、女中室などがある。

食堂と隣り合う客間は「コンドルの設計にしては、ものすごくシンプルです。23歳と若い施主の要望だったのではないかと思われます。ほかのコンドル作品では、ゴシック様式やイスラム様式とさまざまなものがありますが、ここでは天井の漆喰の彫刻も最低限のものになっています」

シンプルななかでも、天井のシャンデリアの付け根部分はコンドルが好んだバラのレリーフだったり、アールヌーボー様式を取り入れた暖炉だったりと、美しい装飾が施されている。

階段もコンドルの建築の特徴が現れており、下に柱を作らない、螺旋階段のようなスタイル。手すりの透かし彫りなど、当時流行していたアーツアンドクラフツの影響がみられるという。

また、トイレは当時から水洗だった。初代清六が1904(明治37)に上水道を完成させ、周辺地区に無償で供給しており、その水道を使っていたそうだ。

家具はアンティークを購入して再現したものが多いが、床板やタイル、ドアノブ、鍵隠しなど当時のままの素材も多い。このようにきれいな状態で残っているのも珍しいと思うが…。「実は、洋館はあまり使われていなかったんです。洋館の居室である2階では数年暮らしただけで、和館が主な生活の場に移りました。その後、大正末期ぐらいになると、別荘や別邸で住まわれるようになりました」。若き当主とはいえ、西洋の生活スタイルにはなじみにくかったようだ。

左上/1階の客間。暖炉周りは当時のままだが、イスやテーブルといった家具はアンティークで再現したもの。左下/客間と隣接する食堂の間はドアではなく、引き戸になっており、和洋折衷の建物であることが分かる。引き戸は、客間側は白、食堂側は茶色と、それぞれの部屋に合わせて塗り分けられている。右上/ピアノが置かれて演奏会も開かれていたというホール。右下/2階の居間。壁面には衣装ダンスが設えてある左上/1階の客間。暖炉周りは当時のままだが、イスやテーブルといった家具はアンティークで再現したもの。左下/客間と隣接する食堂の間はドアではなく、引き戸になっており、和洋折衷の建物であることが分かる。引き戸は、客間側は白、食堂側は茶色と、それぞれの部屋に合わせて塗り分けられている。右上/ピアノが置かれて演奏会も開かれていたというホール。右下/2階の居間。壁面には衣装ダンスが設えてある

洋館に接して建てられた和館

洋館の玄関から中を覗くと、ホールの先に畳の廊下が続いているのが分かる。「六華苑の最大の特徴は、洋館と和館が直線でつながっていることです。全国では、廊下で雁行させて和館があるという建物などがありますが、こういったスタイルは珍しいです」と水谷さん。

当時、洋の文化が流れ込み、洋風建物も造られるようになったが、純粋な洋式を受け入れるにはまだ抵抗があり、座敷が加えられたと考えられる。1階に2つの座敷と蔵、2階に1つの座敷を備えた本格的な和館が接続されている例は少ないそうだ。

和館で見学客が足を踏み入れることができるのは1階部分のみ。洋館寄りにあるのが二の間で、主人一家が日常生活を送った部屋だ。その隣にメインの客座敷として使われていた一の間がある。それぞれ控えの間となる次の間が設えてある伝統的な和室の造りとなっている。

その一方、通常の和室よりも、天井が高く、柱間が広い。水谷さんは「屋根が洋組みのトラス構造になっているからです。こういった様式を近代和風建築といいます」と教えてくださった。

また、「これだけの大きな建物となると柱が太いことが多いですが、ここは華奢で清楚な感じがします。諸戸さんが豪華に見えるものを好まれなかったのではないかと思われます。ただ、ヒノキが使われているので素材はとてもいいものです」とのこと。

左上/和館の1階部分は、座敷と座敷に入る前の畳廊下、そして和館の周囲をぐるりと巡る板張りの廊下という造り。畳廊下は主人や家族、客人の動線で、使用人は板張り廊下を使った。左下/12畳半の座敷と10畳の次の間からなる二の間。桧板の棹縁(さおぶち)天井、桧の一枚板でつくられた欄間、黒漆喰の建具と良質の素材が使われている。右上/18畳の座敷と15畳の次の間、6畳の鞘の間からなる一の間。客をもてなす部屋として、もとは豪華な昇降式のシャンデリアが付いていたという。棹縁天井は桐板張、欄間も桐の一枚板と、二の間よりも一段といい素材。右下/釘の頭を隠すための装飾具、釘隠しは、桐と菊の模様。どのような客を迎えてもいいように格式あるものとした左上/和館の1階部分は、座敷と座敷に入る前の畳廊下、そして和館の周囲をぐるりと巡る板張りの廊下という造り。畳廊下は主人や家族、客人の動線で、使用人は板張り廊下を使った。左下/12畳半の座敷と10畳の次の間からなる二の間。桧板の棹縁(さおぶち)天井、桧の一枚板でつくられた欄間、黒漆喰の建具と良質の素材が使われている。右上/18畳の座敷と15畳の次の間、6畳の鞘の間からなる一の間。客をもてなす部屋として、もとは豪華な昇降式のシャンデリアが付いていたという。棹縁天井は桐板張、欄間も桐の一枚板と、二の間よりも一段といい素材。右下/釘の頭を隠すための装飾具、釘隠しは、桐と菊の模様。どのような客を迎えてもいいように格式あるものとした

国の名勝に指定された庭

和館の一の間を見学し、座敷で座ってみたとき、開かれた障子から見える日本庭園の風景に魅了された。すると、「洋館の前の庭は、イスに座って見る高さで整備され、和館のほうは座敷に座って見ると美しいようになっているんです」と水谷さん。

確かに、立っているときよりも、すぐ近くに植えられたマツの見事な枝ぶりをすべて見ることができるし、庭の奥のほうまで広がりを感じられた。暮らしを豊かにする細やかな配慮がすばらしい。

この庭園は、洋館や和館、蔵などと同時期に築造。洋館と和館の前に広がる芝生広場、そして池泉式日本庭園で構成される。池に突き出た形の出島は築庭からしばらくして造られたもので、滝は1992(平成4)年の整備工事で新設されたものだという。

洋館の車寄せが倒壊してしまった桑名空襲の時に、池のなかにも爆弾が落ちて被害もあったが、2001(平成13)年に国の名勝に指定された。洋館、和館と共に、訪れる人の目を楽しませている。

「建物だけを移築保存する話もありましたが、この庭とセットで、さらにこの土地にあってこそ意味があるということで残りました」。国の重要文化財である洋館、和館のほかの9棟の建物は三重県の有形文化財に、中庭にある離れ屋は桑名市の有形文化財で、ほぼすべてが文化財の貴重な遺構である。

2014(平成26)年に修復した洋館の外壁は、今後も定期的な塗り替えが必要となる。当時に近いペンキを使うが、国内では1社しか作っていないという現状も。昔ながらのペンキは乾くまでの時間がかかるが、塗膜がやわらかいので木材に優しいのだそう。庭も常に庭師と相談しながら手入れし、全体の保存に努めている。

年間約5万人が訪れている六華苑。「文化財としても貴重ですが、桑名市にとって観光資源でもあります」

見学のほかにも、ドラマや映画のロケ地、結婚式の前撮りなどでも活用され、イベントや講座も開催されている。貴重な建物に歴史を感じつつ、人々の賑わいがまちの活性化へとつながっていく。

取材協力:桑名市役所観光文化課
     六華苑 https://www.rokkaen.com/

左上/和館の一の間から見た庭。左下/洋館1階の居間からの庭の眺め。右上/洋館2階から見た庭。右下/番蔵棟は、内側に壁を新たに造り、ギャラリーとして使えるようにした左上/和館の一の間から見た庭。左下/洋館1階の居間からの庭の眺め。右上/洋館2階から見た庭。右下/番蔵棟は、内側に壁を新たに造り、ギャラリーとして使えるようにした

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