大阪のシンボル、大阪城

大阪のシンボルのひとつともいえる大阪城。外国からの観光客も年々増えており、道頓堀に次いで訪問客が多いという。

現在の大阪城の天守閣は昭和6年に建てられたもので、平成7年から9年にかけて平成の大改修が行われた。秀吉時代の天守閣に近づけるため、筑前福岡藩黒田家伝来(現在は大阪城天守閣所蔵)の『大坂夏の陣図屏風』を再現している。

しかし、秀吉の時代と同じものとは言えない。
たとえば、天守の場所も、豊臣時代は現在より東北方向にあったことがわかっているし、建てられている土台の高さも違う。大坂夏の陣の後、徳川の再築工事で、豊臣の城は地中深くに埋められ、その上に徳川の城が建てられたからだ。そしてその後1665年に、徳川の城も落雷で焼失。再建はされなかったため、江戸時代前期には、徳川の築いた天守もなくなってしまった。現在の大阪城は、豊臣時代のものに姿を近づけているが、徳川の城があった場所に再建されたのだ。

そして大坂夏の陣から400年の節目を迎えるにあたり、平成24年に、府と市が一緒になって大阪城公園を世界的な観光拠点にしようと、「大阪都市魅力創造戦略」が始まり、豊臣時代の石垣を見せるアイデアが生まれた。プロジェクト名は「太閤なにわの夢募金 豊臣石垣公開プロジェクト」。今回、大阪市経済戦略局観光部観光課の担当係長 村田麻依氏と、主任学芸員の森毅氏に、その概要を教えていただいた。

学術調査で発見された石垣

「大阪城は文化財としても重要な場所です。しかし、現在大阪城では、豊臣時代の遺構は一切見ることができません。豊臣時代の石垣を常時見ることができるようになるのは、プロジェクトで公開する部分だけです。じっくりといろいろな場所を観察し、さまざまなことを感じ取っていただきたいと思っています」と森氏は語る。

豊臣時代の石垣が発見されたのは、昭和34(1959)年に、大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社による「大坂城総合学術調査団」が組織され、大阪城にまつわる謎の解明に乗り出したのがきっかけ。そのときの発見の一つが、地下約9.3メートルの深さから見つかった花崗岩だ。これを中心に3メートル四方の範囲を掘り下げると、地下7.3メートルの位置に、高さ4メートル以上もある石垣が発見された。この石垣の上端には粘土が貼られており、火災の火を受けたこともわかった。
これが豊臣時代の石垣であると即座には断定できなかったが、その翌年、東京で豊臣氏の「大坂城本丸図」が発見され、両者を検討した結果、発見された石垣は豊臣氏大坂城本丸「中ノ段帯曲輪」の石垣であると考えられるようになった。
昭和59(1984)年にも、水道工事に伴う調査で、地下1.1メートルに高さ6メートルの石垣が発見され、石垣が築かれた面が「中ノ段帯曲輪」、上部が「詰の丸」であると考えられている。
「豊臣石垣公開プロジェクト」は、昭和59年に発見された石垣を掘り起こし、公開するものだ。

豊臣期と徳川期の本丸重ね合わせ図(大阪市提供)豊臣期と徳川期の本丸重ね合わせ図(大阪市提供)

豊臣時代と徳川時代の石垣の違いの特徴とは

プロジェクトで公開される石垣(大阪市提供)プロジェクトで公開される石垣(大阪市提供)

現在見ることができる石垣は江戸時代のもので、昭和34年の「大坂城総合学術調査」では、石に彫られた刻印も調査されている。しかしなんのための刻印なのだろうか。
「誰がどの範囲を積んだのかを誇示するためのものでしょう。調査の結果、西日本を中心とする64家の大名が分担して、石垣を築いたことがわかっています」と、森氏。大坂夏の陣で生き残った大名の刻印ばかりなので、江戸時代に築かれたと考えられるという。

大名たちは徳川への忠誠心を示すため、少しでも大きな石を、目立つ場所に積もうとしたらしい。もっとも大きな「蛸石」は、畳36畳分以上の大きさだ。また、石はすべて花崗岩で、切って整形されている。そのため、石垣として積みやすく、32メートルの高さまで一気に積み上げられた箇所もあるのだとか。

一方、豊臣時代の石垣は、自然のままの石が積み上げられており、大きなものでも2メートル程度。石の種類もさまざまで、隙間がたくさんできるため、間に細かい石を詰めて安定させている。この積み方を「野面積(のづらづみ)」と呼ぶが、まっすぐには高く積まずに、段々畑のように天守の建っている場所まで徐々に強度を上げて高くする手法が使われている。現在のところ、三段あることが、わかっているそうだ。地下から発掘された石垣には、刻印はない。このことから、石垣に刻印をするようになったのは、江戸時代ごろからだと考えられる。
しかし、江戸時代の遺構を壊さないように発掘するのは難しく、石垣の全貌は不明のままだ。

石垣から読み取れること

大阪城は特別史跡なので、何をするにも許可が必要で、大規模な発掘や調査は難しいが、公開にあたって、心がけていることもあるという。
「まずは豊臣時代の遺構の上に、江戸時代の大阪城があることを、多くの人に認識していただきたいです。この場所には、豊臣時代以前から石山本願寺があったほか、いろいろな時代の遺構があります。豊臣時代の石垣を見ていただくことで、歴史が積み重なっていることを感じていただければ」と、村田氏。

森氏も、「石垣には、時代が反映されています。公開される箇所は、本丸の中の、豊臣家の私的な空間ですから、この時代の最先端の技術で築かれたはず。しかし、古代のお寺の礎石が使われていたり、大きな石と石の間に石臼が詰められていたりします。大坂城築城には豊臣の財を費やしたにも関わらず、寄せ集めの石を使用せねばならなかったのは、その時代の築城技術を示すものでしょう。また、大坂城は、秀吉の天下統一の途中に築かれました。石垣の造営を急いだのは、戦にそなえるためかもしれません。江戸時代の石垣は、戦がなくなってから築かれたものですから、じっくり材料を集める体制があったのだと思います」と、語る。

豊臣の財を尽くした大阪城の姿を公開するには多くの資金がかかるため、現在寄付を募っている。税制上の優遇や特典があるうえ、大阪城の地層まで掘る途中、新たな遺構が発見されれば、事業規模の見直しが行われる可能性もあるというから、夢のある話しだ。
まずは、戦国武将の最高峰に立った豊臣秀吉のパトロンとなった気持ちで、募金に参加してみるのもよいのではないだろうか。

参考URL:http://www.toyotomi-ishigaki.com/index.html

施設内覧イメージ(大阪市提供)施設内覧イメージ(大阪市提供)

2017年 07月20日 11時06分