創立90年以上の宝塚ホテル

洋風ホテルとして90年以上の歴史を誇る宝塚ホテルは、地元の人のみならず、日本中から愛されている。
しかし、経年による老朽化のため、2020年春の開業を目指し、移転新築が決定された。今回は、開業当時の宝塚ホテルについて、宝塚ホテル 接遇支配人の清水総一郎氏、営業企画統括マネージャーの神崎良之氏、広域事業本部 営業推進部 営業企画チーフの山野敬太氏、同じく営業企画の藤原愛実氏からお話を聞くことができた。

清水氏は、宝塚ホテルに入社して30数年経つというが、それでも同ホテルを知っているのは昭和50年代ごろから。
「建築当時のことについては、語り継がれていることしかわからないのですが……」と前置きをし、記憶を巡らせながら、お話しを聞かせてくださった。
宝塚ホテルが建築されたのは大正15(1926)年のこと。宝塚には天然温泉が湧き、宝塚歌劇団の前身である宝塚少女歌劇団や、宝塚ファミリーランド(当時の名称は宝塚新温泉)もあって、行楽地としてすでによく知られていた。
近隣の神戸には外国人居留地もあり、宝塚にも正司家などの洋風邸宅があったから、欧米文化を受け入れる素地をもつ土地柄でもあっただろう。

そこに電鉄(現在の阪急電鉄)を敷き、宝塚ホテルを開業したのが、阪急阪神東宝グループの創業者であり、宝塚歌劇団の生みの親でもある小林一三氏だ。当時の宝塚ホテル周辺にはまだ住宅地もなく、田園の中にぽつんと建っている状態だったが、歌劇の街として、また関西有数の住宅都市として、後に栄えていく。

開業当時の宝塚ホテル。樹木の後ろで見づらいが、1階右側の窓は珍しい台形だ開業当時の宝塚ホテル。樹木の後ろで見づらいが、1階右側の窓は珍しい台形だ

洋風文化を味わい尽くせるホテル

神戸、大阪から30分前後という交通の便の良さもあり、宿泊のみならず、食事やテニスなど多目的に利用されていたようで、夏期休暇をまるまる宝塚ホテルで過ごす長期滞在の客も多かったそうだ。
当時、ダンスが1つのブームとなっていた中、ホテル内でダンスパーティも催されていたようだ。現在ティーラウンジとなっている2階のホールが当時は板張りで、ダンスホールにうってつけだった。当時の記録がはっきり残っているわけではないが、大阪朝日新聞の昭和3年1月20日の記事にも、宝塚ホテルのダンスパーティが紹介されている。
食事ももちろん洋食。当時のメニューを見ると、コンソメスープやサラダ、ソテー、チーズなどが提供されていたことがわかる。
そして、宝塚少女歌劇団の公演を楽しみにして来訪する客も多かった。つまり、当時の宝塚ホテルは、洋風文化を味わいつくせる場所だったのだ。
昭和13年には「武庫川倶楽部」も発足。会社役員や弁護士、医師、大学教授といった錚々たるメンバーがホテルの倶楽部室に集まり、ゴルフやテニス、撞球といったスポーツを楽しんだのだとか。

しかし太平洋戦争は、宝塚ホテルの歴史にも暗い影を落とす。終戦直後の昭和20年に全館がアメリカ軍に接収され、将校の宿舎となった。昭和30年の接収解除でホテルは再開されるが、アメリカ風の塗装がペンキで施されていた部屋もあり、補修が大変だったらしい。
その後、西宮、花屋敷、池田のゴルフ場の食堂運営の受託や、大宴会場の増設に取り組み、事業を広げる。「当時のゴルフ場は、洋食が中心でした。洋食堂として受託できる規模の店舗が、他にはなかったのではないでしょうか」と清水氏は推測する。

ダンスパーティも行われたホール。結婚式の披露宴も行われたダンスパーティも行われたホール。結婚式の披露宴も行われた

随所に光るヨーロッパ風のデザイン

宝塚ホテルの建築の見所は、なんといっても正面部分だという。切妻屋根は当時珍しく、施された植物のレリーフも美しい。窓も当時にしては大きいうえ、台形のデザインは非常に珍しかったのだという。また、ダンスホールに隣接した廊下には、アーチ状の柱が現存しており、往時の面影を残している。
また、エントランスの階段の段が高めなのは、洋装してホテルを訪れてほしいと、スカートにハイヒールを履いて登りやすい高さにしたからだという。

設計したのは、早くからヨーロッパの技法を取り入れていた古塚正治氏。阪神間のモダニズムを代表する建築家の一人で、正司家住宅や西宮市庁舎なども手がけているが、近年の調査によれば、現存するものは数少ないようだ。

当時の面影を残す廊下。天井が高く、アーチ状の柱が洋館らしい雰囲気当時の面影を残す廊下。天井が高く、アーチ状の柱が洋館らしい雰囲気

文化を継承して移転&新築へ

しかし、経年による基幹設備や躯体の老朽化が進み、現行法の耐震基準を満たしていないことから、2017年の秋から移転と建て替えに着手。新ホテルの客室は現在の129室から200室に増える。中宴会場は7室から1室、小宴会場も5室から2室に減るほか、料飲施設も数を減らす。ただし、大宴会場は宝塚歌劇のディナーショーが開催できるようなしっかりとした設備を備えたものになるのだという。

しかし、最初から移転ありきだったわけではなく、現在のものを補強して使い続ける案や、同じ場所で建て替える案もあった。しかし、補強すると、窓をふさがなくてはならないなど、快適な空間を提供できなくなってしまうことがわかった。そして、同じ場所に建て替えれば、試算上約3年の営業停止が見込まれたという。幸い、宝塚大劇場横には広い駐車場があり、ここに新ホテルを建築すれば、営業準備期間の数ヶ月しか休業せずに済む。そこで移転して営業することになったのだ。

「90年の歴史があるホテルです。祖父母、両親、そしてご本人と、三代で結婚式を挙げてくださったお客様もいらっしゃり、寂しいという声も聞きます」と、清水氏は語る。
しかし、山野氏が「地域に根付き、親しまれてきた建物なので、地域の方たちも、まったく別のものに変えてしまうことを望んでおられないでしょう。文化や雰囲気を引き継いでいくという、大前提の思いがあります」と語るように、新ホテルも切妻屋根やレリーフをそのまま継承しており、色使いも含めて、宝塚ホテルのイメージを保っている。
完成予定イメージを見たファンからも、「デザインを継承してくれて良かった」「宝塚ホテルらしい建物で安心した」という声があるという。

藤原氏は、「歴史のある建物なので、変わるのは寂しいという思いもあります。しかしグループとして、よりよくしていくための、前向きの改革だと考えています」と、教えてくれた。
神崎氏も、「子供のころから阪神間に住んでおり、ホテルといえば宝塚ホテルでしたから、寂しい気持ちはあります。でも、新ホテルのデザインは、旧来とイメージが変わらない、納得できるものですし、うれしい気持ちの方が強いのが正直なところでしょうか」と、寂しい気持ちもありながら、建て替えに前向きなよう。
次の世代にも親しまれ続けるホテルであり続けたいと、従業員が一丸となって取り組んでいく。

移転後の完成予定イメージ移転後の完成予定イメージ

2017年 07月29日 11時00分