過疎地域指定から、地域文化を伝える観光施設の誕生へ

愛知県豊田市足助町。ここは古くから住民たちの大きな協力のもと、まちづくりの取り組みがいくつも行われてきた。過去に当サイトで取材させてもらった町並み保存のほか、今では全国から多くの観光客が訪れる紅葉の名所・香嵐渓(こうらんけい)は、飯盛山(いいもりやま)を森林公園として整備しようというところからはじまり、先人たちの植栽により形成されたものだという。
その香嵐渓のふもとに、“生きた民俗資料館”と謳う「三州足助屋敷」(以下、足助屋敷と称する)がある。開館したのは1980(昭和55)年だ。
構想がスタートしたのはその10年ほど前。1970(昭和45)年に足助町は過疎地域に指定された。人口流出や、生計を担う方法が山仕事や農業から都市部での企業勤めに移り変わっていくなかで、それまでの歴史ある山里での暮らしに誇りを持つこと、地域文化を見直すことに1人の町民が着目。その人は、当時の役場の職員であり、のちに足助屋敷初代館長となった小澤庄一さんだ。
小澤さんは町並み保存の活動からはじめ、そこから地域文化の保存、継承をする施設として足助屋敷を発案するにいたった。
折しも全国で郷土館や民俗博物館の建設がブームになっていた。そんな中で足助屋敷が基本としてこだわったのは「本物であること」。ただ民具などの展示物を並べただけではなく、必要なものは自分で作るという山里の“生きた”暮らしと技術を伝えるための資料館。“建物”も“展示物”も、本物を求めた。
茅葺きの建物を新築することで、技術伝承の場にも
「当時、高度経済成長期で、新しくて斬新な、かっこいい建物であるとか、近代的な建物といった方向に走りがちななかで、足助町では古いものに価値を見いだしました」と教えてくださったのは、現在、足助屋敷の管理・運営を行う株式会社 三州足助公社の統括事業部長・岡村達司さん。
足助屋敷の構想以前に、綾部地区の村人が共同で茅葺きの建物で民宿を始めていたほか、1964(昭和39)年には5人の町民が共同出資で開いた、廃屋となっていた茅葺き屋根の農家を移築・再利用した郷土料理店も観光客に喜ばれていたという。
そんな経緯もあり、足助屋敷は、木造の明治期の庄屋屋敷をイメージし、母屋や長屋門などは茅葺き屋根の建物とすることに決まった。
茅葺き屋根の建物は、移築したものは1つだけで、ほかの母屋などは新築したものだ。「設計を担当されたのは、もうお亡くなりになっていますが、倉敷の街並み保存も担当された浦辺鎮太郎さん」とのこと。昭和54年度農林水産省の山村振興法に基づく第2期山村地域特別対策事業の補助を受けながら、建設が進められた。
「建設のために集められた大工さんや左官さんなど、家の建築に関わる近隣の職人さんからは『一度でいいから、こういう建築に関わりたかった』という声も上がったとか。建築自体も手仕事、技術の伝承のひとつの場として貢献したのではないかということを聞きました」と岡村さんは語る。
手仕事の数々を間近で見られる
足助屋敷で見られる山里の暮らしは、わら細工、機織り、桶屋、かご屋、鍛冶屋、紙すきなど多種多様。その本物を見せるために、地元でそれらを生業としていたお年寄りたちに声が掛けられた。今まで自宅でやっていた作業を、足助屋敷で披露するというわけだ。これにより、高齢者雇用が実現した。
来館者は手仕事の様子を見たり体験したりしながら、実際に山里の暮らしの知恵や工夫なども聞く。この“語り”が来館者にとって感動の出来事となった。
そして、この足助屋敷を作る際に目指したのが独立採算だという。当初の運営は足助町がつくった任意の団体・足助町緑の村協会が行い、行政の施設のひとつではあったが、入館料のほかに、売店、飲食店、さらに紅葉の時期には屋台を臨時出店することで利益を出すことに成功した。
2005(平成17)年に足助町が豊田市に編入合併したため、その前年に足助町緑の村協会などが合併して設立された三州足助公社が、豊田市から指名された指定管理者として運営することになった。資料館としての収支と、飲食などでの利益は別で計上することになったが、現在も採算は取れているという。
開館から時を経て抱える課題
今後の課題としては、入館者減少による収支面もあるが、建物では茅葺きの屋根が大きな悩み。「葺き替えにかかるお金だけでなく、技術的なところも。かつては隣接した下山地区に屋根職人がいらっしゃって、その方に修繕などをお願いしていました。近いので、ふらりとやって来てくださっては、傷んでいるところを見つけてくださることも。そうすると、細かい補修ができるので、もちがよくなるんです。さらに、修繕のときには、足助屋敷のスタッフも手伝っていたので、技術を教えてもらうことができました。ですが、その職人さんが亡くなり、10年ほど経ちます。いまは豊田市が入札で募集した会社にお願いしています。茅そのものも少なくなっていますし…」と岡村さん。
茅葺きの屋根は自然素材だけに繊細な面があり、木の陰になったり、日の当たり方だったりで、同じ屋根でも場所ごとに傷み具合が異なってしまう。いまでは、やむなく茅葺き建物のうち2棟の屋根をトタンに変更し、葺き替えの費用を抑えている。
また、資料館としては、職人の世代交代。地元で生業としている後継者は少なく、現在は足助地区以外の出身者の採用が過半数を占めるようになったという。「そうすると、山里の暮らしを味わったことがない人が、暮らしについて語らなければならない。お客様からは、昔と違って迫力がなくなったとか、“味”がなくなったとかというご意見もいただきました。ただ、しょうがないことでもあるので、これから先どうするかを、何を見せるのかを含めて考えていくしかない。素材が良く、建物も良くて、いい施設だと思っているので」
建設から約40年が経った足助屋敷の母屋を見学させていただくと、柱などは黒みを帯び、美しい艶が出ていた。これは、囲炉裏を実際に使っていることと、働いている方々が掃除で丁寧に磨き上げていることで出てきたものとのこと。ここからも確かに“生きた”民俗資料館として続いていることが実感できた。
時代の流れでどうしても失われてしまうものはあるが、まちの魅力を高め、ひいては日本の歴史も知ることができ、地域文化を伝える施設から得られるものは多いと思う。今後の展開に大いに期待を寄せたい。
取材協力:株式会社 三州足助公社(三州足助屋敷 http://asukeyashiki.jp/)
2019年 09月27日 11時05分