観光名所はかつて高速道路。その前はどぶ川だった

韓国の首都ソウルの観光案内では夜景の名所として紹介されることも多い清渓川(チョンゲチョン)。実際に訪れてみると、オフィスビルの立ち並ぶソウル中心部、光化門のすぐ近くにある清渓広場から流れ出すせせらぎは想像していたよりはるかに清らかで自然。川辺をそぞろ歩くカップル、水遊びする子どもたち、水に足を入れて涼みながら新聞を読むおじさんたち、水辺で弁当を広げる家族連れと実に様々な人たちがおり、観光名所である以上にまちの人たちに愛されている場であることが分かる。

もちろん、ガイドブックにあるとおり、夜景を楽しみながらの散歩も楽しい。川を望むように大きく窓を取ったカフェなどもあり、川はまちの大きな資源になっているようだ。

目をこらすと水中には魚が泳いでおり、それを求めて鷺などの鳥の姿も。両岸の植栽は場所によっては放置し過ぎと思えるほど自然で、両側に護岸、頭上に建物、そして車や人が行き交う音がしなければ都心のど真ん中にある川とは思えない。韓国の庭園は自然をそのまま利用し、あまり造りこまない点が特徴だが、ここでも同様の手法が使われているのだろう。

現在の姿だけを見ていると、ここに10数年前までは高速道路が走っていたこと、それ以前は悪臭を放つ厄介者のどぶ川であり、川沿いには無許可のバラックが密集していたことなどは想像もできない。だが、清渓川はソウルが首都とされたときからこの地を流れ、時代によって姿を変えてきた変遷の川なのである。

左上から時計回りに、上流の光化門近くの清渓広場を望んだところ。中央にある赤い巻貝状のオブジェ「スプリング」は川の始まりを示している。石伝いに対岸に渡れるような仕掛けが何ヶ所にも用意されている。子ども連れはもちろん、カップルの姿も多数。鷺や鴨の姿も。夜はライトアップされる
左上から時計回りに、上流の光化門近くの清渓広場を望んだところ。中央にある赤い巻貝状のオブジェ「スプリング」は川の始まりを示している。石伝いに対岸に渡れるような仕掛けが何ヶ所にも用意されている。子ども連れはもちろん、カップルの姿も多数。鷺や鴨の姿も。夜はライトアップされる

風水上、重要だったのは川の存在、だったはずなのに……

復元された広通橋(左側部分)。歩道上にあるため、橋脚、橋桁に施された装飾、文字などが見られるようになっている復元された広通橋(左側部分)。歩道上にあるため、橋脚、橋桁に施された装飾、文字などが見られるようになっている

そもそも、朝鮮王朝が1394年にソウル(首都という意味)を首都として定め、遷都するにあたっては、清渓川の存在は大きかった。当時の都市は風水思想をベースに計画されており、山と川の有無、位置がポイントとなった。ソウルは城内に清渓川、城外に漢江が流れていることが周囲の山々の存在と合わせ、風水上、理想の地とされたのである。

だが、都市内を流れる、下水道施設のない時代の川である。人口が増えるにつれ川の水は汚れ、川底には廃棄物が溜まり、川は浅くなる。その結果、頻繁に洪水が起きるようになり、朝鮮王朝時代には何度か大掛かりな浚渫が行われている。

1406年、朝鮮の太宗は清渓川整備を命じた。自然な状態の河川の底を浚渫し、川の幅を広げた。両岸には堤防も築いた。1411年には河川整備機構「小川図鑑」を設置して本格的に工事に乗り出した。 1412年にはおよそ5万2,800人の労働者を動員して整備をしており、このとき、建築された橋が清渓川復元工事で姿を現した広通橋 (クァントンギョ)、惠政橋(へジョンギョ)である。また、1441年には馬塵橋(マチョンギョ)のたもとに水位を測定する刻みの入った標石が建てられ、 当時の工事によって清渓川の本来の名まえである「開渠(ゲチョン。一般名詞)」が生まれた。 清渓川という名称は日本が韓国を占領していた時代につけられた固有の名称なのである。

さらに17世紀後半以降、ソウルに人口が集中するようになると周辺の山林が燃料として伐採されて山が荒廃。鉄砲水が砂や石を運んできて川底があっという間に浅くなり、しばしば氾濫が起きることに。鉄道が敷設された1900年頃からは20数本あったといわれる支流の暗渠化も進んでいる。

そんな厄介者だった清渓川にもうひとつの問題が起きるのは1953年の朝鮮戦争終結後。戦争中から無許可で建てられ続けてきたバラックが急増して川沿いに密集、環境悪化に拍車をかけたのである。そこで取られた手段は川に蓋をし、バラックを撤去してしまうこと。1958年から約4年間をかけ、中心部での覆蓋工事が行われ、問題は消えてなくなったかのように思われた。そのため、それ以降、韓国内では釜山や大邱、光州、仁川など多くの都市で覆蓋工事が行われ、多くの河川が消えている。

蓋をした川の上に高速道路。だが、環境は改善されず

川沿いには様々なオブジェ、モニュメントや川の歴史を伝える掲示などがあり、これはかつての川の様子を伝える写真。上は洗濯、水遊びなどに川が使われていた頃の様子。下は渋滞が常態だった高速道路時代川沿いには様々なオブジェ、モニュメントや川の歴史を伝える掲示などがあり、これはかつての川の様子を伝える写真。上は洗濯、水遊びなどに川が使われていた頃の様子。下は渋滞が常態だった高速道路時代

蓋をした川の上には幅50mの、当時のソウルではここだけという広い道路が造られた。その上に高速道路を造ろうという計画が発表されたのは1967年。その少し前、1964年には前回の東京五輪が行われているのだが、そのために整備された首都高速道路が高度経済成長のシンボルのように見えたのだろう。ソウルでも高速道路網を、という声が挙がったのだ。当初は複数路線の案があったが、最終的に造られたのは1976年に完成した清渓川上の5.8キロ余の1本のみである。

蓋をした上にさらに高速道路を造ったことで川の姿は見えないものになったが、それで問題が終わったわけではない。早くも1980年代初めから様々な問題が指摘されている。最初に指摘されたのは暗渠内を流れる下水から発生するメタンガス爆発の危険性。実際、爆発騒動もあった。さらに想像以上の利用があったことから空気汚染が問題になり、通行量の多さは道路の劣化を早めもした。

同時に清渓川のある旧市街地の衰退も問題になり始めていた。老朽化した建物が多い中心部では商業地域としての機能が失われつつあったのである。一方で新たに開発された漢江の対岸、江南(カンナム)と呼ばれる、碁盤の目状に整備され、近代的な高層ビル、マンションが並ぶ地域に移り住む人が増え始めた。ソウル観光ガイドでいえば狎鴎亭洞、カロスキルなどという高級レストラン、ブティックなどが並ぶエリアだ。ちなみにこのエリアの人気は今も留まるところを知らず、江南のタワーマンションといえば憧れの住まいである。

清渓川復元がソウル市長選の争点に

こうした数々の問題を抱えた清渓川が復元へ舵を切ることになったのは2002年。ソウル市長選の争点として取り上げられたからである。このとき、清渓川復元を政策に掲げたのが後に大統領となる李明博氏。氏はアメリカのジョージワシントン大学で客員研究員をしていた時期にボストンの高架高速道路地下化プロジェクト「ビッグディッグ」を知り、清渓川でも同じことができないかと考えたのである。

着工は李明博氏の市長就任からちょうど1年後の2003年7月1日。着工までの1年間は工事期間中の交通の不便さをどうするか、高速道路周辺で店を開いている商人たちの営業場所をどうするか、この2つの問題への対策に追われた。特に道路を占拠し、露店を開いている人たちの反対は激しかったそうだが、市は駐車場として使われていた東大門運動場を提供することで問題を収束させ、着工にこぎつけている。

完成したのは2005年10月1日。高架道路・覆蓋を撤去、洪水や下水対策を施し、周囲の道路、歩道、橋を整備し……と考えると目が回るほど検討すべき点があったはずだが、これだけのことをわずか2年余りで完成させたのは驚くべきこと。市民も同様に思ったようで、完成イベントには3日間で約15万人が集まり、身動きができないほどの賑わいだったと聞いた。市を挙げて祝ったと言ってもよい。現在も川の美化には多くの市民がボランティアで参加しており、川は愛されている。

川辺にあるオブジェ、1つずつデザインの異なる橋、周辺に見える建物などを眺めながらの散策をお勧めしたい川辺にあるオブジェ、1つずつデザインの異なる橋、周辺に見える建物などを眺めながらの散策をお勧めしたい

プラスも多いが、マイナスも出始めている

川の中に取り残されたかつての高速道路の橋脚。このエリアは元々は低層建築物が多かったそうだが、高層へと建替えが進んでいる川の中に取り残されたかつての高速道路の橋脚。このエリアは元々は低層建築物が多かったそうだが、高層へと建替えが進んでいる

復元された清渓川は約6キロ。上流から順に歴史・文化、遊び・教育、自然・生態をテーマにブロック分けがされており、それぞれにふさわしいモニュメントなどが用意されている。分かりやすいのは最上流の歴史・文化エリア。ここにはかつて王様が通るときに使われたという広通橋がコンクリートの下から救出(!)され、歴史を伝えている。

印象的なのは最下流の、自然・生態をテーマにしたエリアの、湿原のようにも見える草地の中にそびえ立つ存置橋脚だ。時間の経過とともに劣化する人工物と繁茂する自然。その対比を見ていると自然と人間の共存はどうあるべきか、考えさせられる。

橋は歩道橋、車道橋合わせて22ヶ所に設けられており、デザインはそれぞれに異なる。土木好きなら橋を眺めて歩くだけでも楽しいだろう。また、川沿いには東大門広場、平和市場などの市場街も続いており、川を起点に市場巡りもできる。

川の再生で生まれた都心の自然は新たな観光名所の創出のみならず、低利用地が多かった下流の再開発にも繋がっており、清渓川再生はまちの価値向上に大きく寄与している。ただ、良いことばかりではないと、ランドスケープの専門家である太陽環境開発の李赫宰氏。

「短い期間で完成させたことなど評価すべき点もありますが、問題点もたくさんあります。かつてのように支流から水が流れ込むわけではないため、現在は漢江の水を浄水してポンプアップして流していますが、その巨額な財政負担が問題です。また、一度他のエリアに分散した露天商などがまた清渓川沿いに戻ってくる動きも。川沿いの再開発ではかつて住んでいた人たちがそこに住み続けられなくなるという問題があります」

自然の再生とはいえ、あらゆる変化にはプラスとマイナスが付いてくる。単純にせせらぎ再生を喜ぶわけにはいかない部分もあるにはせよ、日本でも高速道路地下化を考えるなら、これくらいの思い切ったことをやって欲しいと思うのは望み過ぎだろうか。

2018年 11月05日 11時05分