悪縁を断つことによって、良縁を呼び込む。縁切り祈願の根本は「祓」の思想にあり

「縁切り神社」が、密かに人気を集めているという。
試しにGoogleで「縁切り神社」を検索してみると、ヒット件数はなんと67万件超(2018年8月20日現在)。この方面における、世の関心の高さを物語っている。
だが、百聞は一見に如かず。実際に「縁切り神社」を訪れると、そこには、世間から隔絶された非日常の世界が広がっている。その独特の「空気」の発信源となっているのが、縁切り絵馬の奉納所だ。

奉納絵馬の文言を見ると、「誰々との縁を切りたい」という内容のものが多い。他にも、酒やタバコ・賭け事などの悪習と縁を切りたい、「ダメな自分」と縁を切りたいなどバリエーションは豊富だが、やはり人間関係の縁切り祈願が他を圧している。
なかでも目を引くのが、「人の恋路を邪魔する輩をとにかく駆逐したい」という“怨敵退散”型。なかには実名入りで、「〇〇が交通事故で死にますように」と恋敵の死を願うような、呪詛めいたものも少なくない。負の感情が祈り籠められた、縁切り絵馬の奉納所――それは、「人間の業」というものを感じさせる場所でもある。

こうした縁切り社寺は全国各地にあり、いわば知る人ぞ知る存在だ。なかでも“横綱級”の知名度を誇るのが、京都の安井金比羅宮である。
境内にはおびただしい数の縁切り絵馬が奉納され、約600点の貴重な奉納絵馬や史料を展示する「金比羅絵馬館」も併設されている。だが、この神社に異界めいた雰囲気をもたらしているのは、境内の真ん中に鎮座するオブジェの存在だ。
その名も「縁切り縁結び碑」。願いを書いた形代を握りしめ、中央の穴をくぐって往復しながら、縁切りと縁結びを願うご利益スポットだ。往路は悪縁切りを、復路は縁結びを願うことによって、晴れて縁切り祈願が成就するという。
筆者が訪れたときも、形代を持ってこの石碑をくぐる女性の姿が絶えなかった。碑全体が無数の形代でびっしりと覆われ、今にも動き出しそうである。この異様ともいえる光景が、安井金比羅宮の縁切りパワーを人々に強く印象付けたであろうことは、想像にかたくない。

そもそも、「縁切り祈願」とは何か。それは、人間関係の苦しみ、酒・薬・ギャンブル中毒など、自力では断ち切りがたい悪縁を、神仏の力を借りて断とうとする行為である。安井金比羅宮の鳥居肇宮司は語る。
「神道の中心的な考えの1つに、祓(はらえ)があります。人間生きていると、知らず知らずのうちに罪穢(けが)れが身に付いてしまう。そこで祓をし、常に身を清めることによって、力の再生を目指すのです。伊勢神宮の式年遷宮では、20年ごとにお宮を建て替えることによって神様のお力を新しくするわけですが、その根本にも祓という意味合いがある。縁切りもまた祓につながるもの。悪縁を断ち切ることによって良縁を結ぶことができる、悪縁を断ってこそ次の段階に進める……それが縁切り祈願の意味だと考えています」

神前に奉納された、おびただしい数の縁切り絵馬神前に奉納された、おびただしい数の縁切り絵馬

人生の最期に全ての欲を断ち切り、崇徳上皇は「縁切りの神様」となった

安井金比羅宮のそばにある崇徳院御廟安井金比羅宮のそばにある崇徳院御廟

なぜ、安井金比羅宮は、縁切りのご利益で知られるようになったのか。それは、この神社の主祭神である崇徳天皇と深いかかわりがあるという。
第75代崇徳天皇は、父・鳥羽法皇から疎まれ、20代の若さで譲位させられた。同母弟である後白河天皇が即位したことで、わが子を皇位につけて院政をとる道も断たれ、さらに鳥羽法皇が崩御するに及んで事態は急展開を迎える。
保元元(1156)年、保元の乱が勃発。朝廷は、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれ、血で血を洗う争いを繰り広げた。
だが、時利あらずして上皇方は敗れ、崇徳上皇は讃岐に配流。上皇は深く悔い、戦死者の供養のため、五部大乗経を写経して朝廷に送った。だが、呪詛を疑った朝廷は受け取りを拒否。崇徳上皇はこの世のすべてに絶望し、全ての欲を断ち切って金刀比羅宮に籠もった。そして、爪も髪も伸ばし放題にし、夜叉のような姿となって憤死したという。

そんな崇徳上皇にも、幸せな日々がなかったわけではない。
上皇は東山の安井に御殿(後の観勝寺)を建て、寵妃・阿波内侍(あわのないし)を住まわせた。愛する女性と仲睦まじく過ごした時間は、その苦悩多き人生に束の間の安らぎを与えたことだろう。
上皇の崩御後も、阿波内侍は上皇の御影をまつり、菩提を弔いながらひっそりと暮らしていた。ところが、その後、皇族の死や動乱が続発したことから、状況は一変する。崇徳上皇の祟りを恐れた後白河法皇は、荒廃していた観勝寺を再建。上皇の御霊(みたま)を手厚く供養することで、その祟りを鎮めようとしたのである。
その後、観勝寺は応仁の乱で灰燼に帰したが、江戸時代に入ると、太秦安井にあった蓮華光院がこの地に移り、「安井観勝寺蓮華光院」として再興を果たす。その鎮守神として祀られたのが、崇徳上皇(崇徳天皇)と源頼政、そして、讃岐の金刀比羅宮から勧請された金比羅大権現(大物主神)であった。これが、安井金比羅宮の起こりとされる。

「崇徳上皇は、全ての欲を断ち切って金刀比羅宮にこもったことから、“断ち物”、つまり縁切りのご利益で知られるようになりました。明治22年には、愛人が増えすぎて困った女性が、“男断ち”を祈願した大絵馬を当社に奉納しています。崇徳上皇は、『この世で王になれなければ魔界の王になる』と言って、自分の血で書いた経典を海に投げ入れ、朝廷を激しく呪いながら怨霊になられた。それだけの強い思いを持って、世俗をすべて断ち切ってしまわれたところから、断ち物のご利益に対する信仰も生まれたのでしょう」(鳥居宮司)

古都の郷社を「縁切りの聖地」へと変えた、先代宮司のアイデア

だが、安井金比羅宮が縁切り神社として脚光を浴びたのは、崇徳院の威光だけが理由ではない。
そのきっかけとなったのは、約35年前の「縁切り縁結び碑」建立だった。
時代はバブル前夜。京都でも地上げ屋が暗躍し、氏子や檀家、拝観料収入が少ない市内の社寺が次々に狙い撃ちされた。広大な郊外の境内地と引き換えに、由緒ある境内地の売却を持ちかけられ、だまし討ち同然に市内から郊外へと移転していった神社仏閣も少なくなかったという。

参拝者が伸び悩んでいたのは、安井金比羅宮も例外ではない。世の中がバブルに踊る中、観光名所でもない神社を訪れる人は少なく、境内には閑古鳥が鳴いていた。
もっと参拝者を増やし、境内をにぎやかにするためには、どうしたらいいのか――。
先代宮司は一計を案じた。安井金比羅宮は崇徳上皇とゆかりが深く、古くから縁切りのご利益で知られた神社である。ならば、断ち物のご利益を体現したものを新たに造り、「縁切り神社」としての色を鮮明に打ち出せば、もっと参拝者を呼び込むことができるのではないか――。

その狙いは見事に的中した。「縁切り縁結び碑」の建立が呼び水となって、マスコミの取材も急増。悪縁断ちを願う人々の群れが、全国から安井金比羅宮を目指すようになった。
2000年代の神社ブームと右肩上がりの京都観光も追い風となり、安井金比羅宮は一躍、「縁切りの聖地」として名を馳せることとなる。

「縁切り」とどう向き合うかは、社寺にとって難しい問題である。若者離れにつながりかねない「縁切り」の風評を嫌い、あえて「縁結び」のご利益を強調する社寺も少なくない。
しかしながら、名神大社がひしめく京都にあって、参拝者を誘致するためには、他の神社にない魅力を打ち出す必要がある。安井金比羅宮は、「縁切り神社」としての輪郭をくっきりと浮かび上がらせることによって、人間関係や男女関係に苦しむ女性たちの心を鷲づかみにした。
「悪縁を断ち、良縁を結ぶ」祈りの場にふさわしいのは、絶大な縁切りパワーを持つ崇徳上皇が、生涯変わらぬ愛を育んだ場所をおいて他にはない。安井金比羅宮は、いわば古来の由緒を活かしたオンリーワン戦略によって希少価値を獲得し、新たな参拝者を獲得することに成功したのである。

安井金比羅宮のシンボル、「縁切り縁結び碑」。縁切り祈願の形代がびっしりと貼り付けられ、独特の奇観を呈する安井金比羅宮のシンボル、「縁切り縁結び碑」。縁切り祈願の形代がびっしりと貼り付けられ、独特の奇観を呈する

「縁切りパワースポット」としての希少性が、人の流れを変えた

安井金比羅宮の縁切りパワーは、観光客の流れも変えつつある。

「私が子供の頃は、京都市内の観光ルートはそれほど多くはありませんでした。清水寺から二寧坂(二年坂)経由で八坂神社に行き、平安神宮を経て京都御苑に抜けるルートか、四条通から八坂神社、円山公園を抜けて、清水寺か平安神宮に向かうルート、清水寺から五条坂を下りて三十三間堂に行くルート。せいぜい、それぐらいのものでした」(鳥居宮司)

安井金比羅宮もまた、こうした観光ルートからは外れた場所にあった。当時、神社北側の祇園には、一見さんお断りの茶屋や置屋が軒を連ね、西に隣接する古刹・建仁寺の境内も閑散としていた。いずれにせよ、この界隈は、観光客が足を踏み入れるような場所ではなかったのである。

だが、日本人の旅のスタイルが団体旅行から個人旅行へとシフトするにつれ、京都観光の多様化が進み、花街や社寺の観光化も進んだ。祇園の花見小路から建仁寺、安井金比羅宮を経由して清水寺方面に抜ける観光ルートや、東山の高台寺から石塀小路を下りて祇園界隈を抜け、安井金比羅宮と建仁寺を経由して四条河原町方面に抜ける回遊ルートが新たに生まれた。

その中で、安井金比羅宮もまた、新たな観光スポットとして特異な存在感を放つこととなった。
境内から祇園に抜けるルートは、裏道探索の楽しみが味わえる、”通好み”の散策路。東大路通りからやや奥まった場所にあることも、人目をはばかる縁切り祈願には逆に都合がよかった。
無名の郷社は、「縁切りパワースポット」としての希少性を帯びることによって、人々を吸い寄せる強力な磁場を形成するに至ったのである。

観光客向けの店が増えた祇園・花見小路。祇園散策のついでに安井金比羅宮を訪れる人も多い観光客向けの店が増えた祇園・花見小路。祇園散策のついでに安井金比羅宮を訪れる人も多い

縁切り祈願によって神様のお力をいただき、一歩踏み出すきっかけとしてほしい

安井金比羅宮宮司の鳥居肇さん。日々、縁切り祈願に訪れる参拝者に向き合い続ける安井金比羅宮宮司の鳥居肇さん。日々、縁切り祈願に訪れる参拝者に向き合い続ける

縁切り神社の取材をしていて、1つだけ気になることがあった。冒頭でも触れたが、奉納絵馬に書かれた祈願内容のことである。恋敵や天敵との縁切りを願うだけならまだしも、相手の実名を挙げて、その不幸や死を願う……呪詛にも似た祈願が神前で行われていることについて、神社としてはどう考えているのか。

「他の方が見て不快に思われるような祈願は避けていただきたい、というのが正直な気持ちです。そういう絵馬を書いたからといって、別に相手に呪いが行くわけではない。奉納された方の気が晴れて、『神さんにお任せしたんやから、あいつのことはもう、ほっとこう』と、前向きになってもらえればいいのですが…」

とはいえ、人間関係の悩みは一筋縄ではいかないのが世の常。「そうせざるを得ないほどの闇を抱えている人もいる」と、鳥居宮司は理解を示す。
「人との悪縁というのは、自ら作っているようなところもある。縁切り祈願をすることで、自分ではどうにもならないと思い込んでいる状況から、一歩踏み出せるということもあるでしょう。お参りして神様の力をいただき、一歩前に踏み出そう……そういう気持ちになってもらえたら、と思いますね」

それにしても、日々、他人の負の感情と向き合うのは、さぞかしストレスの溜まる仕事に違いない。そう問いかけると、鳥居宮司はこう答えた。
「ストレスを溜めないコツは、“気にしないこと”です。邪気だの呪いだの、目に見えないものは一切、気にしない。元々、あまり物事にこだわらない性格ですのでね」

なるほど、とすっかり感心してしまった。私たちは他人とのささやかな感情の齟齬に苦しめられ、「目に見えないもの」に怯えて生きている。人の気持ちを慮ることも大切だが、負の感情に浸食されれば、心身の健康を損なう。時には「目に見えないものは、気にしない」と割り切ることのできる、いい意味での”鈍感さ”も必要なのかもしれない……。
鳥居宮司の言葉を胸に、晴れやかな気持ちで安井金比羅宮を辞した。

2018年 09月07日 11時05分