ひしめき合って暮らす下町と多発する火事

世界有数の過密人口都市であり続ける東京は「防災都市づくり」という課題を常に抱えており、特に火事対策は重要な問題である。今回は「火事と喧嘩は江戸の華」とさえ言われた江戸時代にさかのぼり、消防博物館を参考に、防災や都市づくりについてひも解いてみたい。

東京に人口が集中したのは、徳川家康が全国統一支配の拠点とした天正18年(1590年)からで、1600年代はじめに15万人ほどだった江戸の人口は全国から流れ込む人々で急速に増え、1700年代の初めには100万人を超えていたと考えられる。

そして当時の人口の半分を占める町人は、物資の流通がしやすいという利点から、いわゆる下町(日本橋、京橋、神田付近)に集中していた。江戸の面積でみると、全体の約6割が武家地、2割が寺と神社であり、残りのわずか2割の地にひしめき合って町人が暮らしていたことになる。こうした江戸の町で火事は日常的と言ってもよいほど頻繁に起きていた。

消防博物館 / 江戸中期の町並みと消火風景。表通りには商店が並び、路地裏には長屋がびっしりと建っている消防博物館 / 江戸中期の町並みと消火風景。表通りには商店が並び、路地裏には長屋がびっしりと建っている

江戸の町を焼き尽くした三大大火

江戸時代に発生した火事のうち、特に被害が大きかった3つの大火事がある。江戸の三大大火と呼ばれる、「明暦の大火」(1657年)、「目黒行人坂の大火」(1772年)、「丙寅(ひのえとら)の大火」(1806年)である。

中でも明暦3年に発生した「明暦の大火」は、本郷5丁目(現在の文京区本郷)の本妙寺から出火し、二日間燃えつづけ、江戸のほとんどを焼き尽くす大火事であった。3つの大火の中でも死者の数が最も多く、10万人以上が火事で亡くなったと言われている。火事の原因は、亡き娘の供養にと燃やした振袖が風に舞い上がって寺に燃え移ったという説があり、まさか当人も振袖を燃やしたことで、ここまで歴史的な大火事になるとは想像だにしなかったことだろう。

江戸の町は木造の建物が密集し、一旦火事になると火はたちまち燃え広がっていた。目黒の大円寺から出火し、神田・千住方面まで燃え広がった「目黒行人坂の大火」、芝・車町(現在の港区高輪付近)の材木屋付近から出火し、激しい南風によって神田・浅草まで燃え広がり、江戸の下町530町を焼く大火となった「丙寅の大火」。いずれも空気が乾燥する冬の時期に発生しており、風も強いため延焼が拡大したという。

消防博物館に展示されている目黒行人坂火事絵(複製)消防博物館に展示されている目黒行人坂火事絵(複製)

組織的な消防の始まり。江戸を守る火消の誕生

(上)火事装束に身を固め、家臣を従えて火事場に出動する大名火消(下)町火消の各組をあらわす纏(まとい)。左端の纏はケシの実と升をモチーフにして「ケシ・マス」と語呂合わせしているそうだ(上)火事装束に身を固め、家臣を従えて火事場に出動する大名火消(下)町火消の各組をあらわす纏(まとい)。左端の纏はケシの実と升をモチーフにして「ケシ・マス」と語呂合わせしているそうだ

組織だった消防の制度は、寛永6年(1629年)に三代将軍家光によってつくられた「奉書火消(ほうしょびけし)」にはじまる。火消とは消防組織とその構成員を指す言葉で、奉書火消は火事が発生した際に幕府が大名に対し書状により火消役を命じるというものであった。
しかし、火事が発生してから命令が下るこの制度は迅速さに欠けるものであり、度重なる火事に幕府はさらなる強化策を検討。寛永20年(1643年)には、十数家の大名家を指名し、主に江戸城や武士の家を火事から守る「大名火消」を組織した。

その後、江戸の町を焼け野原にした明暦の大火が発生すると、被害の大きさを教訓に消防組織も新しく考えられた。それが1658年に作られた「定火消(じょうびけし)」である。定火消は、江戸城の防火などを目的に幕府直属の常設消防隊として、四家の旗本に命じた消防組織で、専用の火消屋敷が作られた。火消役はそこで寝泊まりし、火事が起きたらすぐ出動できるように準備していた。これが現在の消防署のルーツだ。

「大名火消」や「定火消」といった武家火消に対し、町人地区を守るための本格的な火消制度は、1718年に町奉行大岡越前守忠相がつくった「町火消」にはじまる。隅田川以西の江戸市街をいろは47組(のちに48組)に、隅田川以東の本所・深川(墨田区・江東区)を16組に分け、江戸の町を火災から守った。その数は総勢1万人以上となり、町人のうち5人に1人は火消だったというから驚きである。

周りの家を壊して火を消す!破壊消火と火事場の道具

江戸時代の消火方法は、現在のように水をかけて鎮火させるのではなく、火がこれ以上燃え広がらないように周りの家を取り壊す「破壊消火」であった。龍が口から水を吐くように見えたという「龍吐水(りゅうどすい)」という手押しポンプはあったが、現在の消防ホースほどに水を飛ばせるわけではなく、消火能力は無いに等しかった。そのため、消火のために使う道具は、家の柱を倒す時に使う大刺股(おおさすまた)や、天井や屋根を壊す時に使う鳶口(とびぐち)をはじめとする壊し道具であった。

一方で、火事の現場で一番の花形とされるのが纏(まとい)持ちである。纏は火消の組を示す旗印で、身体が強健で豪勇の者が務めるものとされていた。いち早く現場に駆けつけ、火事場に近い家の屋根で纏をあげる。つまり、纏持ちは火を消すためではなく、己の組の活躍を誇示するヒーローの役割なのである。

(左上)大刺股で柱を倒す火消たち。Y字の刃は現在の消防署の地図記号に表されている(右上)屋根の上の纏持ち。花形だけあってイケメンが多かったそう(左下)火消たちが安全に作業できるよう龍吐水を使って水をかけた(右下)大きく木槌を振る火消たち(左上)大刺股で柱を倒す火消たち。Y字の刃は現在の消防署の地図記号に表されている(右上)屋根の上の纏持ち。花形だけあってイケメンが多かったそう(左下)火消たちが安全に作業できるよう龍吐水を使って水をかけた(右下)大きく木槌を振る火消たち

幕府や町人による防災都市づくり

多発する火事を防ぎ、被害を最小化するため、消火組織だけでなく防火対策も進められた。幕府は延焼を防ぐために、道路を拡幅して延焼防止線・避難路として活用する「広小路」や、空き地で延焼や飛び火を防ぐ「火除地」、市街地で火焔を遮断するための長土手「防火堤」などの防火地帯を配置するなどして、防火都市づくりを行っている。

さらに町人の中でも自分たちの町の安全を見守る体制が整っていった。町には、町内会の事務所と交番と消防署を兼ねた「自身番」が設けられ、防火・防犯などの警備にあたった。自身番の屋根には火の見梯子(はしご)と半鐘が設けられていることが多く、火消道具も揃えてあったという。

また、それぞれの町には消防についての規則があり、出火の方角と距離によって半鐘の鳴らし方が決まっていたり、冬と春の風が強い日には、町内を回って火の元の注意や消火用水の準備などを呼びかけるよう説いていた。今とは暮らしぶりが異なるが、いざというときに適切に行動するために「何をすべきか」のルールを事前に決め、皆でイメージを共有しておくという点においては、消防の技術が発展した今日でも参考になりそうである。

取材・撮影協力 / 消防博物館
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/ts/museum.html

右手前に見えるのが自身番。梯子にのぼって半鐘を打ち鳴らす姿が見える。左手奥では蔵の中に火が及ばぬよう目塗りをしている右手前に見えるのが自身番。梯子にのぼって半鐘を打ち鳴らす姿が見える。左手奥では蔵の中に火が及ばぬよう目塗りをしている

2017年 02月26日 11時05分