ちょっと遠くても、ちょっと高くてもここに住みたい!

三角屋根が4つ、リズミカルに並ぶスイシャハウス、スイシャオフィスの模型三角屋根が4つ、リズミカルに並ぶスイシャハウス、スイシャオフィスの模型

在宅時間が長くなり、わが家の在り方を再考した人も多いのではなかろうか。広さはもちろんだが、窓の外の風景や敷地内の環境などこれまで意識していなかった点に目がいった人もいるかもしれない。

それを実感したのは川崎市高津区に誕生したスイシャハウス、スイシャオフィスの人気ぶりから。同物件はJR南武線と東急田園都市線が交差する溝の口駅(JRは武蔵溝ノ口駅)から歩いて12分。もともとは農家の古い母屋、蔵があった場所で、母屋を取り壊して新築、蔵を再生した。東西に長い敷地の東側に蔵を改装したスイシャオフィスがあり、通路を挟んで西側に3つの三角屋根のある建物が立つ。

かつては水車もあったという土地にちなみ、スイシャハウス、スイシャオフィスと名づけられた。バス停は建物のすぐ前にあるものの、利便性で考えると不便というほどではないが、ちょっと遠いと感じる人もいる立地である。

三角屋根が4つ、リズミカルに並ぶスイシャハウス、スイシャオフィスの模型駅からアプローチすると敷地の緑の豊かさが際立つ場所が現地。見学会の日には周辺の方も訪れていた
室内は木を基調にしたシンプルな造り室内は木を基調にしたシンプルな造り

間取りは住戸ごとに差異はあるものの、メゾネットで1階に14畳のリビング、2階に6畳の個室2室が配された2LDKで専有面積は64m2。溝の口駅から10~15分、新築で2LDKという検索をしてみると建物種別を問わず、サイトにより多少差はあるが、相場は12万~13万円ほど。ところがスイシャハウスの賃料は敷地内駐車場、管理費を含めてではあるが18万8,000円とそれよりも高い。

しかも、賃料が相場より高めというだけではない。契約条件は最近ではあまり見なくなった礼金1ヶ月、敷金2ヶ月となっており、契約時に支払う初期費用も周辺に比べると高めになっているのである。

だが、それでも竣工後の内覧会時には地元の不動産会社の仲介で4戸中3室が決まっており、最終的には竣工から1ヶ月で満室に。蔵を改装したスイシャオフィスも設計を担当した古谷デザイン建築事務所の古谷俊一氏が「なかなか決まらないかもしれない」と思っていたにもかかわらず(!)、竣工から2ヶ月ほどしたときに以前から目を付けていたという近隣の経営者が通りがかりに建物を見学、そこで即決したという。立地の多少のマイナスも、賃料の高さも気にならなくなるだけの魅力があったということなのである。

どこが魅力だったのか。以下でご紹介しよう。

三角屋根が4つ、リズミカルに並ぶスイシャハウス、スイシャオフィスの模型南向きの住戸は日当たりが良く、1階でもこの通り

植栽をすべて残すところから計画がスタート

建て替え前の状態。複数の建物が建っていた建て替え前の状態。複数の建物が建っていた

スイシャハウス、スイシャオフィスはもともと地元で農業を営むオーナーの自宅、蔵だったもの。オーナーはこだわりのある野菜を栽培、直売、生協で販売する一方で地元のレストランに卸し、また、畑の隣に立つレストランの大家、賃貸住宅の経営も行うなど多角的に事業を展開している。

「明治時代の蔵、大正時代の母屋、終戦後の物置と時代の異なる、しかし古い建物があった土地です。ただ、オーナーは20年前に敷地内の他の場所に自宅を新築、引越しており、母屋には5匹の猫が居住しているだけ。それに目を付け、リノベーションしてオフィスとして貸す計画を持ち込んできた事業者がありました。どういう計画にするかと議論しているうちに、その事業者が撤退してしまい、オーナーと私たちが取り残されることに。ただ、やりとりのうちに住んでいない大きな家が自宅の隣にそのままになっているのはどうかという話になり、取り壊して建て直そうということになりました」

では、何を建てるか。オーナーは近隣から溝の口の駅周辺などにかけて複数の賃貸住宅を経営しており、建てさえすればいい時代でないことは十分承知していた。差別化を考えなければ新築時はいいものの、築年数が経つにつれて競争力は失われ、家賃を下げるなど手段を考えなければならなくなることもある。そんな事態に陥らないためには他にない魅力のある物件を建てる必要がある。

オフィスと住宅の間の通路。その奥にはさらに緑が続くオフィスと住宅の間の通路。その奥にはさらに緑が続く

もうひとつ、大事なことがあった。景観だ。敷地の角にある欅の巨木に代表されるようにこの土地には昔からの緑が多く残されており、隣接してはオーナーが大事に手を入れてきたバラ園もある。代々継承されてきた景観を残しての新築。それがオーナーの希望だったと古谷氏。

建替え、新築というとその土地にある樹木、植物を伐採して更地にするところから始めることが多いが、この計画は緑を残すところからスタートしたのである。

土地の風景を取り込んだ、静かな住宅

1階南側住戸。各戸にコンクリートデッキ、ウッドデッキがあり、住戸間は植栽で緩やかに仕切られている1階南側住戸。各戸にコンクリートデッキ、ウッドデッキがあり、住戸間は植栽で緩やかに仕切られている

この注文を受けて古谷氏が考えたのは既存の緑を楽しめる、この土地の風景を取り込んだ住宅。自然の風景を楽しむなら上下階の音に悩まされることのない静かな環境であるほうがよかろうと住戸の独立性も考えた。

その結果、誕生したのが2階建ての一戸建てが左右、背中合わせに連なる集合住宅。だが、外から見ると1棟には見えない。蔵の三角屋根と少し距離を置いて3つの三角屋根が並んでおり、各戸が離れているように見えるのだ。

そのように見えるのは1階は東西、南北の二面あるいは三面で隣戸と接しているものの、2階は東西の住戸の間にルーフバルコニーが配されているため。2階部分に関しては隣戸と直接接しているのは南北の一面のみなのだ。住戸は4戸あり、一番奥の住戸2戸分のスペースにはオーナーの農作業場が設けられている。
実際に住戸を見せていただくと各戸の独立性に驚かされる。1階は住戸の前にテラスがあり、その向こうに共用の通路があるのだが、その間に植栽があるため、それが目隠しとなってわが家の前を隣人が通っても、遠くを人が歩いているという程度の見え方になるのだ。

テラスは玄関の脇がコンクリート敷、リビングの前がパーゴラのあるデッキになっており、パーゴラにつる科の植物などを這わせて緑のカーテンを作ったら、さらに独立性は増すだろう。コンクリート敷の部分は子どもの自転車等を置くのによさそうである。

リビングから外からを眺めると視野の大半を占めるのは緑。その向こうに建物、そして空が見え、実に気持ちが良い。集合住宅だというのに人の雰囲気をあまり感じずに済む、自分たちだけの空間なのである。

1階南側住戸。各戸にコンクリートデッキ、ウッドデッキがあり、住戸間は植栽で緩やかに仕切られている北向きの住戸のリビングからの風景。森の中にいるようだ
北側住戸のルーフバルコニー。見えるのは緑だけである北側住戸のルーフバルコニー。見えるのは緑だけである

2階はさらにその感覚が強い。ルーフテラスは壁に囲まれた空間になっており、屋根のない独立した一部屋といった趣。庭側は建物から少し奥まっており、下からは見られないようになってもいる。南北住戸間には木の格子があり、互いが見えないような配慮がある。

ここでなら青空の下、デッキチェアを出して日光浴をしても誰にも見られないだろうし、夜に星を眺めるのも癒しのひと時になりそう。水栓も用意されているのでプールを置くなどの楽しみ方も。使い方を考えるだけでワクワクする空間なのである。

さらに庭側を見ると豊富な緑。車の音がしなければリゾート地のテラスにいるかのようである。特に北側住戸は見えるのが緑ばかりという恵まれた状況。都心にも近い立地でこれだけ自然を楽しめる住宅は珍しいのではないだろうか。

1階南側住戸。各戸にコンクリートデッキ、ウッドデッキがあり、住戸間は植栽で緩やかに仕切られている室内からのルーフバルコニー。隣戸との間は壁になっており、プライベート感たっぷり

住戸内には住む人にうれしい気配り多数

玄関の脇の鍵などを置くのに便利なトレイ。その右側のシューズクローク内に郵便物が入ることになる玄関の脇の鍵などを置くのに便利なトレイ。その右側のシューズクローク内に郵便物が入ることになる

住戸内にはさまざまな気配りがちりばめられてもいる。たとえば玄関脇の郵便受け。この位置にあること自体はごく普通だが、その郵便受けの本体があるのは玄関を入った脇のウォークインクローゼット内。投函された郵便物は室内に置かれることになり、雨の日も濡れる心配がなく、外から持っていかれる懸念もない。

玄関を入った脇の壁には小さな木のトレイが設置されており、聞くと母屋の神棚を再利用した鍵の置き場だという。土地、建物の歴史を感じられる上に実用的である。誰もがここに鍵を置くことにすれば、鍵がないと家の中を探し回ることは無くなるはずだ。

玄関の脇の鍵などを置くのに便利なトレイ。その右側のシューズクローク内に郵便物が入ることになる左側、天井近くに日除けを動かす仕掛けが設置されている
写真、右の隅にフラットな溝があるのがお分かりいただけるだろうか、これが敷居替わり写真、右の隅にフラットな溝があるのがお分かりいただけるだろうか、これが敷居替わり

リビングのパーゴラデッキに面した窓は高く取られていて開放的なのだが、南向き住戸の場合には夏はかなり暑くなる。それを防ぐためにあらかじめブラインドが設けられており、簡単に日照を遮ることができる。

各室は引き戸で仕切られるようになっているのだが、驚いたことに敷居はない。フラットな床に溝があり、それが敷居代わりになっているのである。敷居がないことから部屋が広く見え、つまずくこともなくなる。南側住戸の予備室部分のように、仕切って個室として使えることに見学後に気づくほど溝が見えなく作られている場所もあった。

収納は徹底的にオープンな作り。最近、よく見かけるが、空間を無駄なく使えるという意味では有効なのだろう。面白かったのはエアコンのカバー。木を使ったナチュラルな空間に違和感が出ないようにという配慮か、木のカバーが掛けられているのである。もちろん、メンテナンス等の作業時には容易に外せる。

また、昨今のコロナ禍に対応。1階の、仕切って部屋として使える部分には専用の換気扇を設置して、この部屋の空気は外にだけ出るようにもしてあるとか。家族に病人が出たときにはこのスペースを隔離に利用できるわけである。また、ペットの飼育も可能である。

玄関の脇の鍵などを置くのに便利なトレイ。その右側のシューズクローク内に郵便物が入ることになるエアコンを覆うカバー。簡単に取り外せる

緑が住宅、オフィス、街の魅力をアップさせる

スイシャオフィス1階。箱階段を利用して2階へスイシャオフィス1階。箱階段を利用して2階へ

住宅の他に作られたのが蔵を利用したスイシャオフィス。蔵の再生では2階を除去、天井の高さを生かすような再生をよく見かけるが、ここでは2階も利用、上下階でひとつのオフィスとして使えるようになっている。内部は箱階段の上に新たな階段を設置、太い梁を現しにし既存の蔵の造りを生かしており、独特な雰囲気。2階にいると梁に守られているような気がする。

蔵は窓がなく、内部が暗いイメージがあるが、スイシャオフィスでは南側のコーナーに明かり取りのガラスが入っており、思っていた以上に明るい。中から外はよく見えるが、外からは駐車場を挟んでいるため、それほど見えることはない。

スイシャオフィス1階。箱階段を利用して2階へ太い梁が時代を物語るスイシャオフィス2階
蔵の角に新たに作られた窓。このおかげで蔵内は明るい蔵の角に新たに作られた窓。このおかげで蔵内は明るい

トイレ、キッチンは蔵内に作れなかったため、蔵の横に別棟を新設。一度外に出て利用することになり、多少不便ではあるが、この建物が気に入って使いたいという人ならさほど問題はあるまい。それに別棟に向かう通路にも緑が植えられており、気持ちの良い小道となっている。仕事の合間の気分転換として考えると、良いスペースではないかと思う。

内覧会には建設時から気になっていたと近隣の人たちも訪れていた。既存の緑の間にリズミカルに連なる三角屋根は目を惹いたのだろうと思う。新築なのに、緑のせいで以前からそこにあったかのように見えるのも不思議だったのだろうと思う。緑にはさまざまな効用があるものである。

さて、2022年は1992年に生産緑地の指定を受けた農地の約8割が指定解除になる年。都市圏の市街化区域の農地を残す目的で始まった生産緑地制度だが、税制優遇を受けられる30年が終了した後、その農地がどうなるかについてはさまざまな議論がある。宅地化という声もあるが、その場合、これまでは更地にしてから住宅を建設するというやり方が多かった。だが、それで魅力的な住宅、住宅地が生まれるだろうか。

そう考えたとき、スイシャハウス、スイシャオフィスは良い先行事例になるのではないかと思う。緑を残し、その緑を楽しめる住宅を作ったことで駅から多少離れた土地に人気を集めることができたのである。

農地は一般的に駅から遠い。利便性以外の魅力で選ばれるような住宅を作ると考えると、既存の環境は十分魅力になりうる。これから農地をどうしようかと考える人たちには更地にする以外にこうした作り方があることも知っていただきたいものである。

ちなみに古谷氏は溝の口の駅近くにも緑に囲まれた商業ビルを新築している。別の機会に溝の口を訪れた際、地元の不動産会社に「すてきなビルが新築されたんですよ」と連れていかれたのがそのビルだった。街を訪れた人に自慢したくなる緑いっぱいの、街の魅力をアップさせるビル。そのことからもこれからの不動産と緑の付き合い方が分かる気がする。


古谷デザイン建築設計事務所
http://www.furuyadesign.com/

スイシャオフィス1階。箱階段を利用して2階へ緑が配されているだけで新築も街に馴染んだ風景に見える