大晦日、年越しの夜を「除夜」といい、神社に籠り神様をお迎えした

大晦日とは、本来どういう日なのだろうか。
現在、大晦日は、お正月の準備を済ませてから年越しそばを食べる日であって、お正月こそが重要だと考える人も少なくないかもしれない。

大晦日、年越しの夜のことを除夜(じょや)という。除夜の鐘の呼び名に使われる「除夜」は「夜を除く」と書くように、大晦日の夜は神社などに籠り、神様をお迎えし食事を共にしたりするために大晦日から眠らずに元旦を迎える風習があった。これを「年籠り」と呼び、のちに歳神様がくるという概念が薄くなり、こちらから神社に詣でることが増えたため、初詣の起源となっている。
歳神は新年を守護する神であり、福徳をもたらす歳神が訪れると、良い新年を迎えられるとの信仰があった。また、先祖の霊が歳神となって訪れるとも考えられている。

浅草寺 仲見世通りの人出浅草寺 仲見世通りの人出

吉田兼好の『徒然草』第十九段には「つごもりの夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半過ぐるまで人の門たたき走りありきて、何事にかあらむ、ことことしくののしりて、足をそらにまどふが、暁がたよりさすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。なき人の来る夜とて、魂祭るわざは、この頃都にはなきを、あづまのかたにはなほすることにてありしこそあはれなりしか」とある。

つまり大晦日は亡くなった人が戻ってくる夜だと考えられていたのだ。
『徒然草』の意味は、こうだ。「東国の田舎では、闇の中に松明を灯して夜中まで他人の家の門を叩いて走り、何事かを叫んで飛び回っている人たちがおり、朝方には静かになった。最近の都では大晦日に鎮魂の儀式をすることもなくなったが、田舎には残っていて素晴らしい」というのだから、夜の間中、音をたて鎮魂の儀式をするのが普通だったのだろう。徒然草が書かれた南北朝時代にはすでに鎮魂の儀式は廃れつつあったようだ。
しかし、このように大晦日は本来、歳神様とご先祖双方を迎えるための大切な日だったのだ。

浅草寺 仲見世通りの人出延暦寺 鐘楼

「除夜の鐘」と呼ばれる梵鐘(ぼんしょう)。煩悩を祓う鐘の数、108回の意味とは

では、通称「除夜の鐘」といわれる、除夜に撞かれる梵鐘にはどんな意味があるのだろうか。

「梵」はサンスクリット語の「Brahma」の音訳で、神聖を意味する。梵鐘の発祥は中国で紀元前から使われていた打楽器の「編鐘」だと考えられており、日本書紀には、562年に欽明天皇が高麗を討った際、大将軍の大伴狭手彦(さでひこ)が鎧二領、金飾の太刀二口、銅鏤鐘(どうろしょう)三口などを持ち帰ったと書かれている。現存する日本最古とされる梵鐘は京都の妙心寺にあるもので、698年に造られたものだ。また、福井県の常宮神社などに、朝鮮半島で造られていた朝鮮鐘も、数例ながら現存する。

梵鐘は貴重なもので、室町時代に成立した『太平記』や『お伽草紙』に語られる俵藤太物語では、大百足を退治した俵藤太が、龍女からお礼にもらった宝物の中に、銅製の梵鐘がある。のちに三井寺に寄進されたが、武蔵坊弁慶が比叡山に持ち帰ってついたところ、「帰りたい」と鳴ったという。

京都府宮津市の成相寺に伝わる鐘は「つかずの鐘」と呼ばれ、少々不気味なエピソードが伝わっている。
梵鐘の鋳造に何度も失敗し、そのたび寄進が募られた。ある母親が「お金などない。わが家には子どもがたくさんいるから、欲しければ子どもを連れていけ」と追い返したところ、子どもが一人いなくなってしまう。直後に鐘が完成するが、撞くと子どもの泣き声が聞こえるというので、みな気味悪がって撞かなくなってしまったそうだ。梵鐘の鋳造に何度も失敗したというこの話のきっかけは、大きな梵鐘の鋳造が難しく、貴重だった証だろう。

仏教において梵鐘の響きは神聖な音であり、これを聞けば煩悩から逃れて悟りに至る功徳があると考えられた。除夜の鐘が108回である理由には諸説あるが、煩悩の数とするのが一般的だ。感覚や意識を生じさせ、迷いを起こさせる眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を苦楽・不苦・不楽の三種に分け、さらに染と浄、過去・現在・未来に分けると、6×3×2×3=108となる。だから、煩悩の数は108つだというわけだ。

宮津市 正相寺「つかずの鐘」宮津市 正相寺「つかずの鐘」

江戸時代から「除夜の鐘」の風習はあったのか?

歳神を迎える大晦日に煩悩を祓う梵鐘がつかれるのは、さぞかし歴史のある慣習だと思われるかもしれない。

上方落語の「除夜の雪」などでは除夜の鐘について登場人物が語り合うシーンがある。伏見屋の御寮さんが、除夜の鐘が鳴り終わるまでに借りた提灯を返したいと、幽霊になって現れるストーリーだ。しかし上方落語は一旦滅びかけたため、この噺のように戦後に桂米朝らの落語家が復興させた際、江戸時代にはなかった風習も盛り込まれたとされる。

研究者の浦井祥子氏は「江戸時代の鐘について」と題するレポートの中で「少なくとも管見の限り、江戸府内において除夜の鐘が撞かれていたという、当時の記録を見出すことはできない」としながらも、比較的信憑性の高い記録として、国学者 小山田与清の『松屋筆記』から、「除夜ノ鐘ハ、元旦の鐘、元旦ノ寅ノ一点ニ撞キ始メ、百八声ツク、終ハレバ、昇堂ノ太鼓鳴リテ、読経始マル、送歳ナラズ、迎トシナリ」という文章を引いている。寅の刻は一日が始まる時間とされた時間で、具体的には午前3時から5時ごろだ。元旦の日の出に合わせて、年を迎えるために鐘をついた、とある。この事例が、江戸時代かの確定出来ないとし、「ゆく年」のための鐘ではなく、「くる年」を迎えるためだとされている。

江戸時代には、どちらかというと、梵鐘の音は時間を知らせるものという意識が強かった。徳川家康の時代、朝と夕方の六つ時(日の出30分前と日没の30分後)に太鼓が鳴らされるようになり、秀忠の時代には正午にも鳴らされ、音も太鼓から鐘へと変わったのだ。

東京都港区の増上寺の鐘楼東京都港区の増上寺の鐘楼

「除夜の鐘」が一般的になったのは、NHKのラジオ番組がきっかけ

除夜の鐘が一般的になったのは、1927年の大晦日に生中継されたラジオ番組がきっかけだという。
NHK放送センターの前身である社団法人東京放送局が放送したもので、『除夜の鐘』というタイトルだった。NHKに取材した「【公式】完全解剖‐NHK『ゆく年くる年』61年の歴史を裏の裏まで教えます」という記事に掲載された放送風景の写真を見ると、鳴らされたのは梵鐘ではなく大きな鈴(りん)のようなものだが、これをきっかけに全国の寺院が除夜の鐘をつくようになったそうだ。私たちが鐘をつく様子をテレビで見て、「ああ、年もゆくな…」と感じるのは、意外と歴史が浅いといえる。

近年では、除夜の鐘がご近所迷惑の騒音であるとして、自粛する寺院もあるが、まだまだ多くの寺院で除夜の鐘がつかれている。除夜の鐘がつき始められるのは、大晦日の11時ごろが多いようだ。年内につき終わる寺院も、新年にまたぐ寺院もある。

西新井大師 鐘楼西新井大師 鐘楼

新型コロナウイルス感染症の状況に左右されるが、除夜の鐘をついてみたいなら、一般参加で除夜の鐘がつける寺院が各地にある。
例をいくつかあげると、東京では、東京都港区の増上寺や足立区西新井の西新井大師、中野区新井の新井薬師などが毎年除夜の鐘の一般参加が可能。関西では、有名な奈良市の東大寺鐘楼や大津市の比叡山延暦寺、大阪市天王寺区の四天王寺などが一般参加可能のようだ(寺院によっては、有料)。

鐘をつくときの作法は、その前に合掌して一礼、後にも合掌して一礼する。また、参拝後につくのは「戻り鐘」と呼ばれて縁起が悪いので、必ず参拝前につこう。参加してみたいなら、除夜の鐘を実施する寺院のHPや社務所に問合せてみてはいかがだろうか。


■参考文献
【公式】完全解剖‐NHK『ゆく年くる年』61年の歴史を裏の裏まで教えます
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/galaxy018

吉川弘文館『江戸町人の研究 第6巻』西山/松之助編 2006年2月発行

西新井大師 鐘楼奈良市 東大寺の国宝の鐘楼

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