下町の文化と歴史を伝えたい……区民の声から生まれた資料館。人々が実際に使用していた生活道具を展示
東京・上野公園の不忍池の畔に立つ台東区立下町風俗資料館。開館は1980(昭和55)年。行政や文化関連団体が主導して設立されたのではなく、区民の声から生まれた資料館という。
「契機になったのは、前回の東京五輪(1964年:昭和39年)も開催された昭和30年代の高度経済成長期といわれています。戦後の高度経済成長の時代に急激に再開発が進み、下町の姿は大きく変わりました。昭和40年代になって人々の暮らしも様変わりし、便利な生活になったのですが、古くからの下町文化が失われていくことに憂いの声が上がったのです。そうした声が区民に広がり、下町の文化と歴史を後世に伝える資料館をつくろうという機運が高まりました」
こう解説してくれたのは、台東区立下町風俗資料館の専門員、近藤剛司さん。台東区民をはじめ、下町の文化を残したいと願う人たちから資料の寄贈を受け、資料館設立が実現した。開館して40年を経た今も、展示しているのは基本、寄贈してもらった品々だ。
「骨董品的な価値のある美術品、古道具ではないかもしれませんが、ほとんどが実際に使われていたもので、庶民の生活に根差しているものが、当館にはたくさん集まっています」(近藤さん)
その昔の下町の暮らしを体感してほしいということで、展示されている生活資料に触れたり、再現された長屋などの中に入ることができるのも、この資料館の特色だ。現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、展示物に触れたり、再現建物の中に入るのは禁止となっているが、館内は下町をモチーフにしたミニテーマパークといった趣で、下町の生活を楽しく学ぶことができる。
関東⼤震災前の下町の街並みをほぼ実物大で再現
1階では、関東大震災(1923年:大正12年)前、大正時代の東京・下町の街並みを再現。ほぼ実物大に再現された商家の建物と長屋が立ち、室内にはさまざまな生活用具が展示されている。
「大正時代の下町には、江戸時代の生活様式がところどころに見られ、そうした古き時代の暮らしをお伝えできるような展示になっていると思います」と、近藤さん。ちなみに建物をほぼ実物大に再現して展示するという手法は、現在、多くのミュージアムで見られるものだが、下町風俗資料館が先駆け的存在といわれている。
商家は、表通りに立つ花緒(※)の製造卸問屋という設定。花緒の製造卸問屋は、大正時代には台東区東部に多く、大規模な問屋は日本橋や神田に店を構えていたという。この資料館では、花緒をつくる作業場や、金銭の計算などをする「帳場」を再現。また、建物も出桁(だしげた)造り、揚戸(あげど)といった、江戸時代からの伝統的な商店建築の構造がほどこされている。こうした商家の建築様式と、商いにかかわる生活資料をより間近にみられる場として、下町風俗資料館付設展示場「旧吉田屋酒店」(台東区上野桜木2丁目)が公開されており、「LIFULL HOME'S PRESS」でもレポートしているので、お読みいただけると幸いである。
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※「はなお」は、一般的には「鼻緒」という表記が用いられているが、東京都花緒工業協同組合では、戦後、美しいイメージがある「花」を用い、「花緒」と表記するようになった。それに倣い、下町風俗資料館では「花緒」の表記を用いているため、この記事でも従っている。
レトロな雰囲気いっぱいの駄菓子屋。かつては子どもたちの遊び場だった
花緒の製造卸問屋は表通りに面して立てられている表店(おもてだな)。それに対し、裏手にあるのが庶民が生活する長屋で、裏店(うらだな)、裏長屋とも呼ばれていた。
長屋とは、木造の長いひと棟を、壁で仕切って数世帯が住めるようにつくった集合住宅である。
裏長屋には「割り長屋」と「棟割り長屋」があるが、再現された長屋は、棟と直角方向に部屋を仕切り、数世帯が住める家に分けた割り長屋で、関東大震災前まで下町で数多く見られた平屋造りだ。
長屋には商家の奉公人や職人、行商人などさまざまな職業の庶民が暮らしていた。この資料館では駄菓子屋を営む母娘と、銅壷(どうこ)屋の職人一家という、2つの家族が住む部屋を再現している。
まず駄菓子屋を見学。店頭に菓子や玩具類などがぎっしり並ぶ様子に、ワクワクとしてくる。
「駄菓子屋はお菓子だけではなく、ベイゴマや凧、おはじきなど遊び道具も売られていて、地域の子どもたちが大勢集まってくる場でした。お菓子を食べたり、玩具で遊んだり、活気のある場所なのです」(近藤さん)
水道設備や調理家電が普及していない時代の台所仕事
駄菓子屋の店頭と向かい合わせて再現されているのが、当時の台所の様子。流しは木製で、台所の床の一部を一段下げてつくられた「座り流し」になっている。現代の台所は調理台やシンクが備わり、立ち仕事が基本だが、その昔はしゃがんで煮炊きをしていたというから驚いた。
座り流しの周りには、ご飯を炊く釜、七輪(炭を使って煮炊きをする小型コンロ)、飯櫃(めしびつ)などが置かれている。土間に設けられた狭い台所だが、壁には調理道具がかけられていたり、棚があり、壁を収納スペースとして有効活用しているのが印象的。
天井には、小さな窓と紐があるのに気づく。これは引き窓で、紐を引いて開閉する。
「長屋と長屋の間の路地は、1間(約1.8m)から2間(約3.6m)の道幅だったといわれていますが、狭いところでは3尺(約90㎝)以下でした。そのため、長屋の各戸に光が届きにくかったので、引き窓を設け、明かりとりとしたのです。煮炊きなどで発生する煙を屋外に出す機能もありますから、引き窓は換気扇の役割もありました」(近藤さん)
長屋の台所には、水がめも展示されている。当時、水がめは生活必需品。水道設備が普及しておらず、蛇口をひねれば水が出るという時代ではなかった。手桶などで井戸から水を汲み、運んできた水を、水がめに貯めていたのだ。井戸は屋外にあり、場合によっては遠くまで水を汲みにいかなければならない。しかし、井戸水を汲んで貯めておける水がめがあれば、流しの横などに置いて飲料用にしたり、調理、洗い物など、必要なときにすぐに使うことができた。水がめの容器に用いたのは陶磁器で、水に浮いた不純物を沈殿させる浄化の役割も担っていたという。容器の容量は1~2日分の使用量に合わせて5斗入り(約90リットル)、3斗入り(約54リットル)のものが多く、少人数の家庭では2斗入り、1斗半入りのものも使われていた。
銅壷職人の作業場と、職住一体の暮らし
路地の奥へ進むと、目に入ってくるのは銅壷屋の作業場を再現したスペース。江戸時代から、下町は職人のまちといわれ、足袋づくり、菓子の木型製作などさまざまな職人が暮らしていた。そんななかに銅壷職人がいる。今ではほとんど見かけなくなったが、銅壷屋はまちの鍛冶屋として、下町の暮らしに身近な存在だった。
「銅壷とは、銅板でつくった湯沸かし器のことで、火鉢に置いて使います。銅壷のほか、鍋ややかんなど、銅を材料にする器具をつくったり、修理をするのが銅壷屋です。当時は、鍋などは安価ではなく、いつでも気軽に買えるものではなかったので、銅壷屋に修理してもらいながら大切に使っていたのです」(近藤さん)
銅壷屋の作業場には、石組みの炉(石炭などを燃料として火をおこす)、坩堝(るつぼ:金属を溶解させるときに使う)、やっとこ、鞴(ふいご:金属の精錬などに用いる送風機)などが並ぶ。
「職人は一般に家で仕事をする居職(いじょく)と、外に出る出職(でじょく)に大別されます。住まいの一角に作業場がある銅壷職人は、居職の職人です」(近藤さん)
居職。今でいうところの在宅ワークで働く職人で、作業場の奥には畳敷きの部屋が1室ある。先ほど見学した駄菓子屋も、店のほか部屋は1室。両方とも室内は狭く感じるのだが、実際とほぼ同じ間取りを再現しているという。江戸時代の標準は、一戸あたり間口9尺(約2.7m)、奥行き2間(約3.6m)、入口と台所を含めて3坪(6畳分)だった。そのうち部屋(畳の間)は4畳半ほどになり、そこに駄菓子屋は母娘2人で、銅壷職人一家は4人が住んでいるという設定だ。
「このひと間で家族全員が暮らしていました。食事をしたり、針仕事をしたり、夜はちゃぶ台の脚をたたんで片付けて、押し入れから布団を出して敷いて寝るという暮らし方です」(近藤さん)
4人家族で4畳半ひと間で住むのには窮屈な気もするが、「当時の子どもは、10歳前後から奉公に出ていたので、4人家族といっても、夫婦と小さい子ども2人という家族構成だったのでは、と考えられます」と、近藤さんが解説してくれた。
部屋には箪笥やちゃぶ台くらいしか置かれていないが、狭い部屋だからこそ必要最小限のものしか持たない暮らし方や、ものを長く大事に使うという生活様式は、現代人の暮らし方を見つめ直すひとつの参考になりそうだ。
路地と井戸端は長屋住人のコミュニティの場
かつての下町の長屋は、隣家と薄い壁1枚によって仕切られた狭い家での暮らしで、決して便利な暮らしではないのかもしれない。しかし、その一方で、下町の長屋ならではのコミュニティが育まれていた。隣人同士、ざっくばらんな親しいつきあいが生まれるなかでも、お互いに迷惑をかけないようにと気配りをする。これもまた古き時代の下町の文化といえる。
そんなコミュニティを育んでいた空間が長屋と長屋の間の路地、そして井戸端だ。路地は、各戸の軒下に物干しを設けたり、地面には雪の下などの鉢植えを置く、七輪を出して調理をしたりと、長屋住人が共有している生活空間だった。そうした路地では住人同士、顔を合わせ、人と人とのふれあいがあるのは、ごく当たり前の日常だった。
そして、井戸端である。長屋の住人は共同の井戸を使っていた。水を汲んだり、洗濯など日々の水仕事をする場所が井戸端。ここには長屋の住人が集まり、水仕事をしながら雑談を楽しむ場所でもあった。そんなことから生まれた言葉が「井戸端会議」だ。下町風俗資料館で再現されている井戸端では、鋳物製の手押し式ポンプ井戸や、洗濯板、洗濯だらい、アワビの貝殻を使った石けん皿などが展示され、電気洗濯機のない時代の洗濯とはどんなものか、かいま見ることができる。
「アワビの貝殻の穴は水きりにちょうどいい、ということで石けんやたわし入れに使われました。当時は、今のようにものにあふれている時代ではなく、庶民の生活も豊かではないので、身の回りのさまざまなものを利用していたのです」(近藤さん)
こうした長屋の再現展示をみて、多くの来館者が口にするのは「懐かしい!」という言葉だという。
「小学生も懐かしいと言うし、私自身も懐かしさを感じます。大正期を生きた人間ではないのに、不思議です。でも、ある小学生の感想を聞いて、理由がわかってきたのです。その小学生はこう言いました。『私は平成生まれで、平成に建てられた家に住んでいる。でも平成の家が将来、こんなふうに展示されたとしても、懐かしいとは思わないだろう』と。多くの人がなんとなく抱いている『昔の暮らしってこんな感じ』というイメージ…そんな日本人の原風景のひとつがこの資料館にあるのかなと思うようになりました」(近藤さん)
2階では関東大震災、昭和の戦時下、高度経済成長時代と、変わりゆく下町の暮らしを伝える展示
2階は、台東区を中心とした下町地域に関する資料や生活道具などを展示。季節や年中行事、下町らしいテーマに沿った特別展も開催されている。
常設展示では、明治から昭和30年代(1955年~1964年)くらいまでの展示物が並ぶが、軸にしているのは大きく3つ。関東大震災(1923年:大正12年)、東京大空襲(1945年:昭和20年)、戦後の高度経済成長時代だ。
「この3つの出来事は、東京の下町の姿を大きく変えた出来事です。展示を通してまちがどう変わり、人々の暮らしにどんな変化があったのか、知っていただければ、と思います」(近藤さん)
2階の展示も見応えがある。明治時代の上野公園、明治・大正時代に娯楽のまちとしてにぎわった浅草六区、関東大震災の被災状況や震災からの復興、昭和の戦時下の暮らし、戦後の焼け跡から高度経済成長時代への変化…生活道具や写真といった資料で、わかりやすく展示している。
2階展示室の様子。左上)関東大震災では、長屋などの木造家屋が密集した下町一帯は大きな被害を受けた。台東区の旧下谷区は約47%、旧浅草区は96%が焼失。そうした被災状況と復興にまつわる資料を見ることができる。右上)1890(明治23)年に開業した12階建ての浅草凌雲閣は、日本で初めてエレベーターが設置された建物として歴史に名を残す高塔。関東大震災で崩落してしまった。右下)昭和初期に使われた衛生道具を展示するコーナーもあり、当時のマスクや氷まくら、吸入器などが並ぶ。左下)取材に訪れた際には、「大正~昭和にかけての夏の1日」と題した特別展が開催されていた。上段に氷を入れて冷やす木製氷冷蔵庫、手回し式のかき氷機など、暑さをしのぐために用いていた生活道具を見ることができた。2階にも住まいに関わる再現展示があり、来館者の人気スポットになっている。それは昭和30年代の下町の住宅(平屋建て)の1室を再現した展示で、居間と台所が再現されている。昭和30年代はさまざまな家電製品が開発され、普及が進んだ時代。自動式の電気炊飯器、洗濯機、冷蔵庫、掃除機、白黒テレビなどが家庭に取り入れられるようになり、東京の下町のみならず、日本人の生活様式は大きく変わった。
また、銭湯の番台が展示されていて、興味をそそられた。台東区の蔵前で1950(昭和25)年に開業し、1986(昭和61)年まで営業していた銭湯「金魚湯」で実際に使われていたものだ。「銭湯は、数が減ってしまっていますが、下町の街並みに欠かせないものだと思います」と、近藤さんは言う。
「台東区を中心にした下町は、いろいろな歴史や表情のある地域です。当館では多岐にわたる生活資料を収蔵しているので、それらをしっかりと活用し、古き時代の下町の人々の暮らしを伝えていける資料館であり続けたいです」(近藤さん)
東京の下町の生活文化とともに、それを後世に残していこうという資料館の心意気にも触れることができた取材となった。下町風俗資料館を訪れたなら、興味のおもむくままに下町の暮らしを学び、身近に感じてほしい。
☆取材協力
台東区立下町風俗資料館
https://www.taitocity.net/zaidan/shitamachi/
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