戦前から始まっていた住宅地開発
昭和30年代の住宅地分譲チラシの多くには所番地が書かれていない。例外は上大岡駅近くの物件である。後述する横浜市資料で取り上げられている地区とほぼ同じ場所である。昭和30年代に開発が始まった分譲地は、実は戦前からある程度開発されていた地区なのであろうと推察される。
行ってみると京浜急行の東側であり、駅のすぐ東の山谷の入り組んだ一帯である。道が狭く坂が急なので自動車には向かない。そのためか地主の邸宅はあるものの、空き地も目立つ。
上大岡は古くは鎌倉街道の通る地域であり、弘明寺は武士が祈願して鎌倉に向かったのだという。現在の鎌倉街道は戦後つくられたもので、その西の現在のさかえ通り商店街とグリーン通り商店街が鎌倉街道だった。
上大岡の近代化のきっかけは関東大震災である。根岸にあった刑務所が震災で全壊したため、上大岡の南の笹下が新しい刑務所を誘致したのである。500人の収容者と200人の職員が移住してくることで、貸し家の需要が増え、市電が弘明寺から延長してくることが期待された。汚い話だが、収容者と職員の屎尿が畑の肥やしになり、そのかわり採れた野菜が刑務所に売れるというメリットもあった。
誘致は成功し36年笹下に刑務所ができる。新設先が笹下に決定した理由は、当分人口が増えて雑踏の街になる見込みがないからというものだったが、結果としては上大岡地区はその後どんどん発展していく。横浜市による水道工事も行われ、道路整備もされて、鎌倉街道沿いが発展し始めたのである。
同潤会大岡住宅という「普通住宅」の宅地も1926年以降建設された。普通住宅とは、木造の一般勤労階級の住宅で、1階と2階に別の世帯が住む形式の家が124世帯分あった。住民は商工業者、官吏、教員、警官および無職も多かったという(「同潤会会報 第七十四号」『同潤会基礎資料Ⅱ第ニ巻』)。
敷地内にはテニスコートと児童公園があったというが今は両方ともない。だが児童公園の代わりに南側の敷地に別の公園ができている。また横浜市営バスのバス停は「大岡住宅前」という。
シルク製品に染物をする工場が増える
また上大岡地区は1927年には横浜市に編入され、中区上大岡町となっていた。これを機にこの地区では捺染(なっせん)業が発展した。捺染とは、染料を糊(のり)に溶かした色糊を用いて布に模様をプリントし、次いで染料の固着を行い、水洗して仕上げること。横浜ではスカーフなどにプリントする需要が多かったからである。
捺染業も関東大震災で大きな被害を受けたが、1927年、横浜市神奈川区沢渡にあった絹業試験所(現在の工業技術院物理工学工業技術研究所)の三平文(みひらぶん)がアメリカでスクリーン捺染法を学んで帰国したことをきっかけに、横浜の手捺染業は近代化へ進みはじめた。
スクリーン捺染は、染料を生地に染め付けた後、余分な染料と糊を落とすために水洗が行われるが、横浜には、大岡川、帷子(かたびら)川の2つの清流があり、捺染の発展の上でも大きな役割を果たしたというのである(ホームページ「はまれぽ」参照、出所は『横浜捺染―120年の歩み』日本輸出スカーフ捺染工業組合、1995年発行)。
花街も誕生した
さらに上大岡駅から西側の大岡川を渡った大久保地区には花街が誕生した。大久保地区は横浜市編入以前は久保村といったが、久保村の小作人は第1次大戦後の好景気や震災復旧工事で農業を辞めて日雇いに出る者が増えた。米を作るより日当で米を買うほうが得だったからである。
すると地主たちは土地の転用を考え、久保村の大規模開発計画を立てた。計画は24年から実施され、25年には久保橋が建設され、新しい道路もでき、やがてその道路が上大岡駅につながり、中央商店街となった。
さらに計画の中にあったのが花街の誘致だった。元々弘明寺に花街があったが、そこに横浜高等専門学校(現在の横浜国立大学工学部)が1920年に開校することとなり、花街が移転することになった。それを誘致しようとしたのである。
風紀面から反対の声も上がったが、横浜刑務所同様、土地の発展のためとして芸妓200名の花街ができ「浜の箱根」「伸びゆく横浜の新箱根」と呼ばれた。
市電の終点であった弘明寺から人力車に乗って客がやってくるようになった。この久保橋周辺が戦前の上大岡の中心で、その後できる上大岡駅を出て久保橋を渡ると花街という立地だった。
横浜の箱根と呼ばれた
戦後、1947年には上大岡駅前から久保橋に至る商店主たちにより「上大岡駅一円」を含む「浜の箱根通り商栄会」が発足した。
花街には米兵もやってきたが、夜は照明もなく真っ暗なので、街路灯を付けることにした。設置費用は花街側で負担するが、そのかわり駅からの道を「浜の箱根通り」と名付け、費用負担した店の名前を街路灯に入れるという条件で道路沿いの商店に相談し、実現したという。
1950(昭和25)年に発行された『京浜急行沿線案内パンフレット』では「大久保温泉郷」という温泉街として紹介されていたようだ。
スピードの速い京急の誕生
1930年には湘南電氣鐵道(現在の京浜急行)が黄金町から浦賀まで開通し、上大岡駅が開業した。
車両は揺れが少なく、手帖に文字が書ける、乗り心地が良く、車内は展望車のように明るく、窓からの風景も良く、「近代的な超スピードのモダン電車である」と当時の新聞でも絶賛された。京浜急行は線路の幅が広く、スピードが速いことが今でも特徴だが、それは開業当初からのことだったのだ。
31年には横浜駅、33年には品川駅に乗り入れ、36年には上大岡に急行が乗り入れるようになり、品川まで44分で結ばれた。急行の運転は私鉄では初のことであった。
こうして東京、横浜に直結した住宅としての上大岡の歴史が始まる。1942年に横浜市が発行した資料では、空襲に備えて市内中心部の人々を郊外部へ転居させる目的で市内18地区を移転先住宅地として勧めているが、その1つに上大岡駅付近も挙げられているので、戦前にもそれなりに住宅地として認知されていたのだろう。
また、当時の上大岡の住宅需要の始まりは横浜市の郊外というよりも横須賀の軍需産業関係者の社宅だったという説もある。
戦後は京急による開発が進んだ
京浜急行が上大岡駅南部に住宅地を開発し始めたのは1957年である。第1期から第3期までで24万4000m2の大規模なものだ。
58年5月末に第1期第1次の1万坪(3.3万m2)、木造100棟、耐火住宅20棟が完成し、6月8日に販売開始すると、午前中に9割が売れてしまった。関東の分譲住宅としては初めて水洗式トイレを備えていたことも人気の秘密だったろう。
上大岡は京急だけでなく住宅公団や他社による開発もあり、人口が急増したこと、また住民から住宅地販売だけでなく、街づくりも行ってほしいという要望が高まっていたため、駅ビルを建設することになった。62年から駅ビル建設工事が始まり、63年に竣工した。地下から地上3階までは京急百貨店が入った。
京急百貨店は1990年代に大幅に改修されて、規模を拡大し、質の良い百貨店に生まれ変わった。このときのコンセプトが「第四山の手」であった。「第四山の手」は私がパルコに居た1980年代にパルコがつくった言葉である。これがバブル時代に郊外に出店した百貨店のコンセプトにしばしばなった。上大岡京急百貨店もその1つであり、伊勢丹や西武百貨店からも人材が移動し、新しい郊外にふさわしい百貨店がつくられたのである。
参考文献
上大岡駅前再開発協議会記録事業委員会『THE・再開発 ——横浜市上大岡の記録——』上大岡駅目再開発協議会、1997
長谷川敏雄『こうなん歴史ブックレット1 上大岡・歴史よもやま話』港南歴史協議会、2016
『京浜急行百年史』京浜急行電鉄、1999
『京急興業10年のあゆみ』京急興業、1968
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