開湯1,300年を超える温泉地・湯の山温泉にできた新しい宿
三重県北部に位置する菰野町(こものちょう)。鈴鹿山脈の御在所岳ふもとにあるこの地域は、自然が豊かで、718(養老2)年に発見されたと伝わる湯の山温泉があり、観光地としても人気だ。湯の山温泉は、傷ついた鹿が傷を癒したという伝説から別名・鹿の湯としても知られる。
その湯の山温泉の良質な湯を楽しめる施設として2012年にオープンした複合温泉リゾート施設「アクアイグニス」が、新たな湯宿を2020年7月10日に誕生させた。その名も「湯の山 素粋居(そすいきょ)」。
癒しと食をテーマにした「アクアイグニス」は、パティシエの辻口博啓氏、イタリアンの奥田政行氏、和食の笠原将弘氏と著名なシェフが手がける飲食店や、日帰り利用もできる源泉100%かけ流しの温泉、全15室の宿泊棟、4つの離れ宿などを備える。
「アクアイグニス」の離れ宿は、各棟にそれぞれ杉、松、栗、檜の自然乾燥国産木材を使っているが、12棟の独立したヴィラが立ち並ぶ「湯の山 素粋居」もまた、それぞれの建物がとても特徴あるものとなっている。
各棟は土、石、漆喰、木、漆、和紙、ガラス、鉄という8つの素材で構成されているのだ。「素粋居」の“素”は、“素材”に由来する。
今回、オープン前に開催された内覧会に参加し、個性的なしつらえの各ヴィラを見学させてもらった。
陶芸家/造形作家の内田鋼一氏が総合プロデュース。美術館のような空間に
陶芸家/造形作家の内田鋼一氏。四日市市の製陶工場で働いた後、独立。東南アジア、中東、西アフリカなどの各地でやきもの作りを経験したことも。日本だけでなく、ヨーロッパ各地やアジアでの展示で高い評価を受けている「湯の山 素粋居」は、「アクアイグニス」から車で1分、歩いて5分ほどのところに位置する。2019年3月に新名神高速道路の菰野ICが開通し、名古屋圏だけでなく関西圏からのアクセスも便利になった場所である。
内覧会のあいさつで株式会社アクアイグニスの立花哲也社長は「食と癒し、そしてアートと文化をテーマに計画をしてまいりました」と語った。各ヴィラは8つの素材で構成されているほかに、インテリアとしてそれぞれの素材に合った工芸品や古美術品などのアートが飾られているのも特徴。ちなみに、食の面では、フランス・パリでミシュラン1つ星を獲得した「Restaurant PAGES」のオーナーシェフである手島竜司氏が手がける熟成肉専門店「HINOMORI」のほか、うなぎ料理店と蕎麦店の3つの飲食店が併設されている。
立花社長のいうテーマに基づき、建築・デザイン監修とアートキュレーションを担当したのは、菰野町の隣、四日市市に窯場を構える陶芸家/造形作家の内田鋼一氏。
素材に特化したアイデアについて内田氏に聞いた。「素粋居というエリア全体を美術館やギャラリーのように見立てたかったのです。各棟や飲食店も含めて、一つ一つの作品のような。美術館に入ったとき、ある一つの企画展だったら、そのテーマに基づいた作品が並んでいますよね。それと同じように、素粋居というテーマのなかで、各建築がそれぞれ素材を際立たせた作品として点在しています。この全体の空間を、見て回れて、なおかつ体験できるということを考えました」
また、「施設は住宅とは違って、非日常の空間。ただ、非日常といっても、居心地の悪い非日常ではなく、こういうところで時間をゆっくり過ごしたい、こういうところに住んでみたいなと感じていただきたい。この周りの景色だったり、いろんなものを体験してもらったり、感じてもらえたらと思っています。そしてアートや工芸、古美術に興味がない方でも、興味を持ってもらい、そこから調べてもらえたら。今後は、作品にスマホをかざすと作者が表示されるような仕組みも予定しています。もちろん、スタッフに聞いてもらってもいい。そういう、素材やアートを“感じてもらう”ことにポイントをおいています」とも語る。
「これだけ素材に特化し、それをテーマに建てているところは他にないと思っています」とのことだが、確かにそうかもしれない。
次の項から12のヴィラについて紹介する。
土や石のヴィラは、建築時に職人泣かせの一面も
1棟ごとに異なる素材が使われ、外観の形もさまざまだが、その立ち並ぶ様子を見ると、不思議と溶け込み、一つの空間として成り立っているようにも感じた。名前に使われているとおりに、“粋”な建物が点在している。
土を使ったヴィラは、「土逢(どおう)」と「囲土(いのつち)」と名付けられた2つ。「土逢」には茶人・千宗屋氏が監修した茶座敷・抱土(ほうど)がある。「土逢」の外観、「囲土」の外内観は、見事な丸みを帯びた土壁が見られる。
石のヴィラ「石砬(せきろう)」と「ちょう石」は、地元で採れる菰野石を使用。菰野町は古くから巨石を産出し、この地を造成するときに出たものも使っているそうだ。「石砬」はリビングに巨石がアートのように置かれてインパクトがあり、「ちょう石」は外壁だけでなく、内壁も菰野石で重厚感がある。
「『土逢』の外壁は、切り返しがなく、角がないので途中で塗りの作業を止めることができない。職人さんからはドS壁だと言われました(笑)。完成してみるとやりがいもあってよかったのですけれど、途中は大変でしたね。『ちょう石』は、原石をカットして組み合わせていますが、小口のもの以外はかなり厚みもあるんです。カットして運んで組み上げてという作業で、外が一周終わったら、まだ中の壁もあるのか…と」と、内田氏は建設時の苦労を振り返った。
ガラスをテーマにした「硝白(しょうはく)」は、白色を基調にしたなかに、ガラス作家・イイノナホ氏のガラスのシャンデリアが目を引く。
和紙の「紙季(しき)」は障子のほかに、リビングの天井と壁も和紙貼りになっている。障子を通して入る外光のやわらかさ、和紙貼りの温もりがある空間だ。
時間がたつと、もっと味わいが出る建築
「鉄景(てっけい)」と「界鉄(かいてつ)」は名前から分かるとおり、鉄がテーマのヴィラ。「鉄景」は木造建築にコールテン鋼を用い、「界鉄」は白く塗装した杉に錆色のコールテン鋼を合わせた造り。
国産杉を内外装にふんだんに使った「木刻(きのとき)」、スギ材でできた「颯木(そうもく)」は木の温もりにあふれた空間だ。
漆喰が使われた「白露(しらつゆ)」は、漆喰のもつ調湿などの特性を感じられるようにイメージしたという。
さて、最後は白色や木、土壁といったなかで、黒色の壁が存在感を放つ「玄漆(げんしつ)」。“玄”は黒色を表し、外壁、インテリアなど黒色の漆でしっとりとした落ち着きを出している。ヴィラはいずれも源泉かけ流し露天風呂付きだが、この「玄漆」だけは露天風呂にプラスして特注した黒漆の浴槽も備える。
「現実的なことでいえば、一つの素材を一緒のテイストでサイズを変えたり、グレードを変えて同じ材料を使ったり、他のヴィラのインテリアに流用したりすれば、コストダウンができます。でも、ここでは床材がそれぞれに違ったり、ベッドは床に合わせた木材のものにするなどテイストを変えているんです。
ただ、予算ももちろんあるので、そのなかで僕が最大限にやれることを活かしました。雑誌でアンティークに関する連載をしたり、大学で美術を教えたりといった、美術系の知識を生かして、それぞれの素材と組み合わせることを考えました。ただインテリアを集めるのではなく、アンティークのものと現代のもの、九州で作られたもの、岐阜で作っているもの、それらに地元のものを組み合わせたり…。温故知新ではありませんが、世界中の新しいもの、古いものが点在しているんです」と内田氏。
そのこだわりはひしひしと伝わり、見学だけでは時間が足りず、泊まってそれぞれの空間で細部までじっくりと見て、ゆるやかな時間を過ごしてみたいと強く思った。
内田氏は今後についても語ってくださった。「出来上がってそれで完成ではなく、その後にもっとよくなっていくということをコンセプトの一つに考えていました。土壁も今より慣れてきて、より風合いが出てきます。木の棟ももうちょっと落ち着いた色合いになるでしょう。鉄も鉄さびが落ち着き、現代美術の絵画のようなコントラストになるように思い描きました。敷地内の木々もこれから育っていきますし、しっくりくるようにと考えましたので、時間がたったほうがもっと味わいが出ると思います」
顔認証&自動運転モビリティの導入で、最新テクノロジーとアートの融合
このようにアートを体感できる施設であるが、最新のテクノロジーも導入した。実は本来のオープンは2020年4月ごろを予定していたが、新型コロナウイルスの影響で延期に。しかし、その期間を利用して、「新型コロナウイルス終息後の新しい観光スタイルの提案」として、日本初の顔認証客室入退室システムと、自動運転モビリティの活用を進めた。
顔認証客室入退室システムは、予約時にスマートフォンで自身の顔を登録すると、フロントでのチェックインなしで部屋の出入りが可能となる。
また、自動運転モビリティは、菰野町が観光MaaSモデル地区となるように進めていることにちなみ、その第1歩として導入した。MaaSとは、モビリティ・アズ・ア・サービスの略で、ICT(情報通信技術)を活用し、マイカー以外のすべての交通手段によるモビリティ(移動)を一つのサービスとしてとらえ、シームレスにつなぐ新たな移動の概念こと。
「湯の山 素粋居」では、チェックイン・チェックアウトの送迎、ルームサービスなどの配達に自動運転モビリティが使われる。ゆくゆくは「アクアイグニス」との連携も考えているそうだ。
****************
12のヴィラが8つのマテリアルで趣を変えている「湯の山 素粋居」。さらに部屋には、それぞれのテーマに合わせて、猿田彦珈琲株式会社がブレンドしたオリジナルコーヒーと、辻口博啓シェフのオリジナルスイーツがそろえられている。徹底したこだわりだ。
また、各棟のテーマに合わせた本も置かれている。こちらは、2020年7月5日に大阪に開館した「こども本の森 中之島」でクリエイティブ・ディレクションを担当した幅允孝氏がセレクト。幅氏は内覧会のあいさつで「本というのは没入に時間がかかりますので、都心だと特に読むのが大変だと思うのですが、こういう空間だからこそ、即効性というよりは遅効性の本というメディアに身をゆだねてみるというのもいいのではないか」と語っていた。小説や詩集、アートブックなど、テーマから連想されるであろうさまざまな本がそれぞれに置かれており、新しい出合いが期待できる。
素のままで美しい素材を活かしているからこその経年変化の楽しみ。アート的な発想も加えられ、建築としてとても興味深い建物群だ。
取材協力:アクアイグニス https://aquaignis.jp/
素粋居 https://sosuikyo.com/
公開日:






