風情ある名旅館のリニューアルは「かながわ観光活性化ファンド」第一号

富士屋旅館といえば、湯河原温泉の中心地に位置して江戸時代後期にはすでに温泉宿を営んでいたと伝えられる老舗旅館。創業以来多くの政治家や文士に愛され、3代目当主加藤文衛門は湯河原を舞台にした落語「名人長二」のモデルともいわれる。

緑豊かな約5,400m2の敷地には、2階建ての建物が3棟。長い年月のなかで、隣を流れる藤木川の氾濫で流失、大火で焼失、などで再建や増改築が繰り返されてきた。最も歴史あるのが大正12(1923)年建築の旧館。総2階建ての楼閣造りの建築で、関東大震災にも耐えた築96年の建物である。洛味荘は京都から木材を運んで建てられ築65年、本館は築51年で当時のモダン和風建築。川沿いに見えるこの和風建築の景観は、湯河原温泉のシンボルだった。

経営面では、創業以来126年間6代にわたり加藤家によって運営されてきたものの、時代の変化に対応できず1999年(平成11年)に売却。その後2002年(平成14年)に営業を休止、以来17年もの間放置されていた。この湯河原のシンボルを再生させることによって、湯河原町の地域活性化につなげようと、地域経済活性化支援機構(REVIC)と横浜銀行が共同出資する「かながわ観光活性化ファンド」第一号案件として取り組むことが決定。2016年に事業者が公募され、3社の企画提案の中から選ばれたのが、現在施設を運営する際コーポレーション。設計着手からおおよそ3年の大改修を経て、2019年2月、晴れて17年ぶりの再開業となった。

シンボルであった数寄屋造りの旧館は意匠を忠実に復元、川越しの景観が美しい。一方、新館はフロントやロビー、レストランなど機能的に一新されたシンボルであった数寄屋造りの旧館は意匠を忠実に復元、川越しの景観が美しい。一方、新館はフロントやロビー、レストランなど機能的に一新された

古き良き歴史を感じる景観を大切に、意匠を継承しつつ機能を修復

際コーポレーションは直営レストランを全国300店以上、京都、金沢、五島列島にリノベーションした宿も運営することから、社内には建物・家具の修繕や看板・壁画制作を担当する部署を持つ。その豊富な実績や経験をもとに提案した改修基本コンセプトは、湯河原温泉の歴史を感じさせる意匠を継承しつつ、旅館としての機能を回復させること。
築96年でありながら建築当時の面影がしっかり残る旧館、そして京都から材木を運んでこだわった造られたという洛味荘は、意匠を保全しつつ傷んだ部分を復元。一方本館については、傷みが激しかったこともあり、ほぼ骨組みだけを残して間取りも大幅変更して旅館としての機能充実を図った。また機械や電気設備などのインフラは、全館新規に入れ替えられた。

その結果、宿のシンボルともいうべき旧館は、構造、造作、建具、すべてを昔のままの姿に丁寧に修復され、大正レトロな窓ガラスや組子細工の建具など繊細さと趣のある落ち着いた空間に。離れの洛味荘は、格天井や建具の細工など当時の粋とこだわりが感じられる個性ある贅沢な空間に。骨組みだけ残して大幅に改修された新館には、フロントやロビーなど、和洋折衷の和モダンな客室、吹抜けの源泉かけ流し大浴場、宿泊者以外も食事のみで利用できる料理屋「瓢六亭」ができた。

組子細工などの細やかな建具が印象的な大正レトロの「旧館」。洋室中心ながら和テイストのバランスが落ち着く「新館」。個性的な建具など贅を尽くし一つとして同じ意匠がない離れの「洛味荘」。全18室中温泉付きのお部屋も8室。組子細工などの細やかな建具が印象的な大正レトロの「旧館」。洋室中心ながら和テイストのバランスが落ち着く「新館」。個性的な建具など贅を尽くし一つとして同じ意匠がない離れの「洛味荘」。全18室中温泉付きのお部屋も8室。

17年間放置されていたため荒れ果てた状態ながら、残った建物の随所に往年のこだわりや繊細さを感じさせる面影が

修復工事を終え、見事に再生されたいまの富士屋旅館からは想像もつかないが、修復工事の下見のため担当者が訪れた当時は、17年間放置されて文字通り荒れ果てた廃屋だったという。

「雨漏りを放置していたためいたるところが朽ち、酷いところはかろうじて柱が残っている状態。そこここの床が抜けていたりとにかくボロボロで、実際歩いていて床が抜けて人が落ちたり、工事中に猿が見に来たり。建物も広いし、一人では怖くて入れないくらい荒れていました」と振り返るのは、企画開発室新規案件担当常務執行役員の市川昌次さん。

それでも、残っている造作や建具の細工の素晴らしさには目を見張るものがあり「立派な建物だと感じました」。欄間や床の間の細工は部屋ごとに異なり、素材も贅を尽くしたものだった。旧館の屋根に使われている瓦も、修復しようにも現代の技術では再現できず手に入らないもの。建築当時のありのままの意匠を再生するため、外から目につく部分に残っている欠けのない綺麗な瓦を集め、裏側の目につかない部分は欠けたものや新しい瓦で補修。傷んだ木材は新しく補強した後に、パッチワークのような微妙細かな色合わせで、元の古材と色を合わせていった。

雨漏りなどで傷みの激しかった「洛味荘」は、廊下の天井が落ち、床は抜け、歩くのも危険な状態だった(写真左)。残せる部分を活かしながら構造を補強し、元の優美なデザイン(右上)に修復。外壁は、修復した部分と既存の部分が分からないよう塗装するなど、修復作業は実に繊細な作業の連続だった雨漏りなどで傷みの激しかった「洛味荘」は、廊下の天井が落ち、床は抜け、歩くのも危険な状態だった(写真左)。残せる部分を活かしながら構造を補強し、元の優美なデザイン(右上)に修復。外壁は、修復した部分と既存の部分が分からないよう塗装するなど、修復作業は実に繊細な作業の連続だった

現代の技術では新規制作不可能な繊細な細工の欄間や建具をひとつひとつ修復

大方針は決まったものの、古い唯一無二の建物だけに、工事開始後現場でしかわからないことも多かった。解体してみると想定以上に腐食が進んでいたため土台からの修復になったり、一度壊してしまっては二度と元には戻せない意匠を守るためには、何を残してどこまで壊すか、現場は日々難しい判断の連続だったという。

「当初の想定以上に大変な修復で、予算も工事期間も大幅オーバー。それでもやるからには、本物の、元の姿を取り戻すことにこだわりました」と市川常務。

例えば今や職人がいなくて作れない組子細工。傷んで欠けた部分のある建具でも新規で同じものを制作することは不可能なため、欠けた部分を忠実に真似をして元の姿に復元させていった。しかも建具細工の意匠は部屋ごとに異なるこだわりようだったため、どの職人さんも初めての細かな作業の連続、慣れたら次の意匠の研究へ。そんな苦労もあった分、長い空白の時間を経て元の姿が蘇った喜びは大きかったという。

時間も手間もコストもかけて復元したからこその、本物の風格がここにはある。

修復前(写真左)と修復後(写真右上)の客室。ガラス戸や欄間などの建具デザインは部屋ごとに異なり、組子が外れた障子戸は同様のパーツを新たに作成するなど実に繊細な修復作業となった修復前(写真左)と修復後(写真右上)の客室。ガラス戸や欄間などの建具デザインは部屋ごとに異なり、組子が外れた障子戸は同様のパーツを新たに作成するなど実に繊細な修復作業となった

宿泊者はもちろん、観光客や地元住民から親しまれる湯河原のシンボル的存在に

蘇った富士屋旅館は、全18室。取材ということで全室隅々まで見せていただいたが、ひとつとして同じ意匠の部屋はない。宿泊者を飽きさせないワクワク感と、サプライズと、本物の持つ奥深さ。同じような間取りでも、欄間や床の間や建具などの細工が異なり、窓からの景色も異なり、違う表情を見せてくれる。ひとつひとつの部屋にストーリーを感じるのだ。

さらにこの再生ストーリーは、湯河原に点々とする名所をつないで面として活性化するという大きな役割も担っている。閉鎖中は暗く沈んでいた川沿いの景観がパッと明るくなり、湯河原の名所である町立湯河原美術館や湯元通りから万葉公園までの湯河原の名所をつなぎ、川沿いのそぞろ歩きも楽しい。実際、取材当日夜の散歩で、川沿いの草むらで飛んでいる蛍を見つけて感動した。

宿泊者以外も利用できる料理店「瓢六亭」も、開かれた場として人を集める場にする仕掛けのひとつ。
際コーポレーションでは直営の4軒の旅館だけでなく、全国で350軒もの飲食店を経営しているだけあり、食で人を魅了するノウハウは豊富。こだわりの空間でいただく鰻料理はまさに絶品。国産鰻を関東では珍しい地焼きで香ばしくパリッと焼いて想像以上のボリュームも嬉しく、食事のために出向く人も多いというのも納得。広い前庭スペースを利用してビアパーティなどのイベントを行うなど、地域のイベントも賑わったという。

宿泊して源泉かけ流しの温泉やこだわりのお部屋でゆったりした時間を過ごすのはもちろん、日帰り観光の際のお食事やイベント参加もいいだろう。観光客だけでなく、地元や近隣住民などからも広く親しまれる、新たな湯河原のシンボルの誕生だ。

取材協力/際コーポレーション
https://kiwa-group.co.jp/

エントランスロビーや客室の他、大浴場やレストランなどの機能がある新館。一階の「瓢六亭」の名物・蒸さずに地焼きする鰻は、ボリュームたっぷりで香ばしくとろける美味しさ。なんと、裏庭の池で調理直前まで生きていたという。吹抜けの温泉大浴場は、弱食塩水・弱アルカリ性の源泉かけ流しで柔らかく温まり、さすが湯河原。「宿泊はもちろん、幅広く親しまれる宿に」という苗代支配人は都内のホテル勤務だったが地元湯河原の富士屋旅館復活を機にUターン。富士屋旅館が湯河原になくてはならない存在であることが、端々から伝わってくるエントランスロビーや客室の他、大浴場やレストランなどの機能がある新館。一階の「瓢六亭」の名物・蒸さずに地焼きする鰻は、ボリュームたっぷりで香ばしくとろける美味しさ。なんと、裏庭の池で調理直前まで生きていたという。吹抜けの温泉大浴場は、弱食塩水・弱アルカリ性の源泉かけ流しで柔らかく温まり、さすが湯河原。「宿泊はもちろん、幅広く親しまれる宿に」という苗代支配人は都内のホテル勤務だったが地元湯河原の富士屋旅館復活を機にUターン。富士屋旅館が湯河原になくてはならない存在であることが、端々から伝わってくる

2019年 10月27日 11時00分