世界遺産「オーストラリア囚人遺跡群」の一つ「ハイド・パーク・バラックス」

建築史家・倉方俊輔さん(大阪市立大学准教授)が建築を通して世界の都市を語る、全16回のロングランセミナー(Club Tap主催)。第5回はオーストラリア第一の都市シドニーと首都キャンベラを取り上げる。

オーストラリアといえば、まずその雄大な自然が思い浮かぶが、「建築も大いに訪れるべきです」と倉方さん。最も有名なのは世界文化遺産「シドニー・オペラ・ハウス」(1973年)だが、ほかにもシドニーには国の成り立ちを物語る建築物が残り、今も活用されている。一方のキャンベラは、ブラジリアに先立つ人工首都で、オーストラリアの民主主義のありようも象徴している。

「日本とは距離も歴史も遠い印象かもしれません。でも、ヨーロッパからオーストラリアへは飛行機を乗り継がなくてはならず、アメリカにしても、西海岸から何本か直行便が飛んでいるだけ。その点、日本からなら直行便で行け、時差が1時間程度なので時差ボケにもなりづらい。加えて建築も、日本と意外に近いのです」。

オーストラリアの歴史は、1788年に、大英帝国が流刑地として植民地化したことに始まる。1776年のアメリカ合衆国独立によって、流刑囚の搬送先に窮したためだ。囚人達が最初に入植した場所が、現在のシドニーである。
「自らの意思に基づく移民ではなく、流刑で連れてこられた人々から始まる都市であることが、世界でも珍しい点です」。

18世紀から19世紀にかけて建設された「オーストラリア囚人遺跡群」は世界文化遺産に登録されており、そのひとつがシドニーにある囚人収容施設「ハイド・パーク・バラックス」(1819年)だ。設計したのは“オーストラリア初の建築家”と呼ばれるフランシス・グリーンウェイ。彼もまた、会計文書偽造の罪で流されてきた囚人だった。
「装飾の少ない赤煉瓦の建物ですが、プロポーションを丁寧に整えることで、簡素さを清廉な美しさに変えています。設計事務所の経営がうまくいかず、犯罪に手を染めてしまいましたが、設計の腕は一流だったことが見て取れます」。

現在、ハイド・パーク・バラックスは、施設がたどってきた歴史をそのまま見せるミュージアムとして公開されている。
「現在の基準ではあり得ない刑罰のための施設として建設され、その後、当時の認識で精神疾患とみなされた患者を収容したり、行き場のない女性たちを保護したりと、時代によって転用されてきました。ミュージアムへの改修では、竣工時の状態に戻すのではなく、改築の痕跡を示したり、不明な点は想像に委ねたりと重層的な手法を取っています。過度に意味づけすることなく、今とは異なる価値観を断罪することもない。伝わりやすく、知的な展示手法が、訪れるべき建築としての価値を高めているのです」。
流刑囚の生活や、アボリジニとの接触と排斥など、自国の歴史の負の側面も含めて、客観的に、しかしリアリティを持って表現している。

「建物が残っているからこそ、そこで何が起きたかが実感を持って迫ってきます。建築は今と昔を掛け渡すもの。固定的でありながら、役割や意味は変化し、開花して行きます。それが皆の目の前に存在しているから、私たちが何者であるかを議論し、未来につながる共同体をつくるきっかけとなり得るのですね」。

左上/「ハイド・パーク・バラックス」(1819)外観。右上/「ハイド・パーク・バラックス」内部。かつて囚人たちが使っていたハンモックが残っており、来場者は実際にそこに横たわって、当時の人々の気持ちに思いを馳せることができる。左下/同じく「ハイド・パーク・バラックス」の内部。人物のシルエット像によってかつての様子をうかがわせる 右下/「ハイド・パーク・バラックス」と同じフランシス・グリーンウェイが設計した教会「セント・ジェームズ・チャーチ」(1824)</br>(以下、写真はすべて撮影:倉方俊輔)
左上/「ハイド・パーク・バラックス」(1819)外観。右上/「ハイド・パーク・バラックス」内部。かつて囚人たちが使っていたハンモックが残っており、来場者は実際にそこに横たわって、当時の人々の気持ちに思いを馳せることができる。左下/同じく「ハイド・パーク・バラックス」の内部。人物のシルエット像によってかつての様子をうかがわせる 右下/「ハイド・パーク・バラックス」と同じフランシス・グリーンウェイが設計した教会「セント・ジェームズ・チャーチ」(1824)
(以下、写真はすべて撮影:倉方俊輔)

日本と同じく、イギリス建築の流れを汲む、19世紀の様式建築

シドニーの中心地にある「旧シドニー中央郵便局」と「クイーン・ヴィクトリア・ビルディング」は、いずれも19世紀末に建てられた、華麗な様式建築だ。現在の用途に適するよう手が加えられ、前者はホテルなどとして、後者はショッピングモールとして賑わっている。

「クイーン・ヴィクトリア・ビルディング」はバロックやゴシックの様式をミックスしたもの。外観は重厚だが、中にはガラスと鉄の明るい大空間が広がる。産業革命の成果が建物に反映され、各国で国際博覧会が競って開催された19世紀後半らしい建築だ。建設後は用途の変更や改築が繰り返され、解体の危機に瀕した時代もあったが、2008-09年に大がかりなリノベーションが行われた。
「華麗な内部空間をよみがえらせつつ、建物に荷重をかけられないので内部に新しく鉄骨の柱を立ててエスカレーターを吊り下げるといったように、丁寧な改修設計を通じて魅力的な商業施設に再生しています」。

「シドニーの様式建築には親近感を覚えます。過去の様式に学びながら、一律にも奔放にも流れず、階段の手すりなどの細部にこだわっています。19世紀、オーストラリアは大英帝国の一部でした。同時代の1877年、日本はイギリスから建築家、ジョサイア・コンドルを招いて西洋建築を教わり始めました。オーストラリアと日本は遠くない、イギリスの建築に学んで歩み始めた兄弟なのだと気づかされます」

上2点/旧シドニー中央郵便局(1891) 下2点/クイーン・ヴィクトリア・ビルディング(1898)上2点/旧シドニー中央郵便局(1891) 下2点/クイーン・ヴィクトリア・ビルディング(1898)

苦難の末に誕生した世紀の傑作「シドニー・オペラ・ハウス」

シドニーを象徴するオペラ・ハウスの設計者は、オーストラリア人ではない。
1957年に開かれた国際コンペに当選したのは、デンマーク人建築家、ヨーン・ウツソンだ。このとき38歳、ほぼ無名に等しかった。

「それまでイギリス建築を模倣してきたオーストラリアが、戦後、本当の意味で独立を志したときに、その文化的象徴となるべきオペラ・ハウスには、どんな形態がふさわしいのか。自国民にこだわらず、世界中の建築家から案を募って最も優れたものを選ぶ。建築コンペという仕組みを理想的に活用して、傑作が誕生しました」。

ただ、ウツソンの斬新なアイデアに「つくりかた」は含まれていなかった。前代未聞のコンクリートのシェル構造をどうやって実現するか。ウツソンと構造設計家との間で長期間議論が繰り返された。工期は遅れ、経費は膨れあがっていった。

1959年の着工当初、母国とオーストラリアを行き来していたウツソンは、最終的に家族を伴ってシドニーに拠点を置く。しかし、工事が長引くうちに州政府で政権交代が起き、後ろ盾を失ったウツソンは、チーフ・アーキテクトを辞め、帰国せざるを得なくなった。
のちにウツソンは復権し、将来の改修も視野に入れた「シドニー・オペラ・ハウス」のデザイン原則を定めているが、再びシドニーを訪れることはなかった。

「シドニー・オペラ・ハウス」がようやく完成したのは1973年。竣工35年目の2007年に、「人間の創造的才能を表す傑作」として世界文化遺産に登録された。翌2008年、ウツソンはついに完成した建物を見ないまま、90歳で世を去った。

「もともと港町として発展したシドニーの、岬の突端に建つアイコニックな建築。シェルの形が角度によって、尖って見えたりなだらかに見えたりして、さまざまな連想を呼び起こします。貝や波や魚や、そのどれでもあるし、どれでもない。この唯一無二の建築を目指して、世界中から人々がやってきます。その経済効果は計り知れません」。

「シドニーは、建物が完成したあと、周辺のまちづくりにも力を入れました。最寄りの駅からオペラ・ハウスまでの賑わいも豊かに演出されています。日本でも見習いたいところです」。

左上・右上・左下/「シドニー・オペラ・ハウス」(1957-73)。最寄り駅からオペラハウスにたどり着くまでの行程も楽しい。シェルの中には巨大なホールがある。 右下/シドニーを象徴する建造物のひとつ、「シドニー・ハーバー・ブリッジ」(1932)左上・右上・左下/「シドニー・オペラ・ハウス」(1957-73)。最寄り駅からオペラハウスにたどり着くまでの行程も楽しい。シェルの中には巨大なホールがある。 右下/シドニーを象徴する建造物のひとつ、「シドニー・ハーバー・ブリッジ」(1932)

シドニーの観光振興に一役買う、世界的建築家フランク・ゲーリーの近作

街の重要プロジェクトに国外から建築家を招聘する例は近年も続いている。そのひとつがシドニー工科大学の「ドクター・チャウ・チャク・ウィング」(2015年)だ。設計者はカナダ生まれでアメリカ・ロサンゼルスに本拠を置く建築家、フランク・ゲーリー。
この建物はシドニー工科大学が2008年から進めているキャンパス・マスタープランの旗艦プロジェクトで、同大学のHPによれば国内外から毎年約4万4000人の来訪者を惹きつけ、シドニーの観光振興にも貢献しているという。

「紙をくしゃくしゃと丸めて立てたような独特の形態です。外壁のレンガとガラスの組み合わせも斬新。レンガでこんな滑らかな曲面をつくるなど、かつての常識では考えられなかった。そのレンガがところどころ突き出していて、触覚を刺激する表情です」。

「ゲーリーの建築は奇抜な形態が注目を集めがちですが、実際に現地を訪れると、形態と素材があいまって、独特の説得力を持っています。外観だけでなく内部も徹底していて、エントランスの吹き抜けの階段も存在感のあるデザインです」。

フランク・ゲーリーによるシドニー工科大学「ドクター・チャウ・チャク・ウィング」(2015)。右上の写真がエントランスに続く階段だ。この建物は街の再開発の一環として設計されており、2階レベルで鉄道の高架跡につくった遊歩道(右下)とつながっているフランク・ゲーリーによるシドニー工科大学「ドクター・チャウ・チャク・ウィング」(2015)。右上の写真がエントランスに続く階段だ。この建物は街の再開発の一環として設計されており、2階レベルで鉄道の高架跡につくった遊歩道(右下)とつながっている

人工的につくられた首都キャンベラ、民主主義を象徴する新旧の国会議事堂

オーストラリアの首都は、国内最大人口を誇るシドニーでもなく、二番目のメルボルンでもなく、両都市の中間に人工的につくられた都市キャンベラだ。この街のマスタープランもまた、外国の建築家が手掛けた。1911年に開催された国際コンペで選ばれたアメリカ人建築家、ウォルター・バーリー・グリフィン。フランク・ロイド・ライトの事務所で働いたこともある人物だ。

「グリフィンのマスタープランは、国会議事堂のある政治的な中心と2つの商業中心を三角形の頂点に配し、大通りで結ぶものでした。自然の山をアイストップとして軸線を引き、中心に人工の湖をつくっている。長年にわたる首都建設中には、いろいろな変更が加えられたものの、基本のアイデアは踏襲されています」。

初代の国会議事堂は仮のものとして1927年に建てられ、本議事堂は1988年にようやく完成した。首都建設が始まってから77年後のことだ。
この国会議事堂の設計も国際コンペにかけられ、これもまた、アメリカ・ニューヨークを拠点とする設計事務所、ミッチェル/ジョゴラ・アンド・ソープ・アーキテクツが勝ち取った。

「国会議事堂はグリフィンのマスタープランにのっとって、2本の大通りが交わる頂点に位置します。ともすれば強い存在感を与えたくなる立地ですが、建物はそびえていません。大通りの軸線は緩やかな坂道となって、屋上庭園に続いています。ここは誰でも自由に散歩できる場所で、その足の下に議場があります。現代の国会議事堂は君臨するものではなく、国民に奉仕するものだという思想が体現されています。コンペで選ばれたのは、骨太な建築的アイデアでした」。

キャンベラの国会議事堂は世界的にも最も開かれた議事堂のひとつとして知られ、ガイドツアーが開催されて観光名所にもなっている。
「キラキラした素材を使っていたり、色彩がポップだったりするのはポストモダン的。1980年代の流行なので、それだけだと今では古くさく思えますが、ここでは説得力あります。というのも、内部の構成は旧国会議事堂を踏襲しており、イギリスの国会議事堂が由来です。軽快なデザインによって、漸進的な国の成り立ちを継承しながら、権威性を脱色しています。こう言えますね。建築は19世紀後半、都市計画は20世紀前半、インテリアは20世紀後半の1980年代と、それぞれ異なる時代に由来していると。しかし、それらが開放感をまとって、一貫しています。政治的な紆余曲折はありましたが、オーストラリアらしさが、時間をかけて織り成されている様を目にすることができるのです」。

旧国会議事堂のほうは、「オーストラリア民主主義博物館」として、自国の民主主義の歴史や国会の機能・役割を学ぶ場所になっている。「国会は与党議員だけでなく、野党議員、事務員や秘書など多くの人々によって支えられていることが実感できます。つい昨日まで議論や執務が行われていたかのような見せ方は、今はもう議事堂ではないからこそ可能です。現実の場所だから巻き込まれます。建築を残す意義を理解し、それを展示手法が高めている。最初に紹介したハイド・パーク・バラックスと同様です」。

流刑地として始まり、アボリジニ迫害や「白豪主義」と呼ばれる人種差別的な移民政策の歴史を乗り越えて、今やオーストラリアは300以上の言語が話される世界有数の多文化国家となった。自国のシンボルとなる建築を国外の建築家たちにつくらせる余裕も、多様性を誇るオーストラリアならではだ。「過去から現在に引き継がれている物事を再解釈し、行動することで、自国の未来の文化が編み出せるといった大らかな自信。それが優れたオーストラリアの建築の背後にある気がします」。

取材協力:ClubTap
https://www.facebook.com/CLUB-TAP-896976620692306/

左3点/大通りの頂点に位置する、現在の国会議事堂(1988)。なだらかな屋根は緑化され、屋上庭園になっている 右3点/旧国会議事堂(1927)は現在、「オーストラリア民主主義博物館」になっている左3点/大通りの頂点に位置する、現在の国会議事堂(1988)。なだらかな屋根は緑化され、屋上庭園になっている 右3点/旧国会議事堂(1927)は現在、「オーストラリア民主主義博物館」になっている

2019年 06月30日 11時00分