都民の衣食住の改善
1919年、東京市には社会局という部署が設置された。都民の衣食住や職業など生活全般の諸問題を解決するためである。
社会局の事業としては、住関連では不良住宅の改良、新規住宅の供給が行われたほか、生活関連では、職業紹介所、託児所、児童健康相談所、婦人授産場、公衆食堂、簡易宿泊所、質屋、浴場などが耐震耐火構造で新築、改築されることとなった。それらのものが特に多くつくられたのが下町であった。
1920年には京橋区月島に労働者向けの住宅、深川区古石場には中産階級向けの住宅が建設されることに決まり、古石場には、鉄筋ブロック造3階建てのアパートが1棟57戸、貸店舗住宅が3棟42戸および附設食堂、浴場からなるからなる古石場市営住宅が1923年5月に完成した。
関東大震災後の変貌
このように東京が近代都市として生まれ変わろうとしていた矢先、1923年9月1日、関東大震災が発生した。
深川区は4万3950世帯のうち、なんと4万743世帯が全焼した!日本橋、京橋、神田、浅草、本所の5区も同様に9割以上が全焼。第一下町と第二下町がほぼ完全に消滅したのだった。
震災から数日後には避難者がトタンや焼け残りの木材を利用してつくった掘っ立て小屋が区内各所にできた。清澄公園にも公園いっぱいに小屋が並んだという。
対して麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷という山の手の区は3,4割しか被害に遭わなかった。
ちょうど社会局設置と同じ1919年に都市計画法が施行され、政府は東京を近代都市として生まれ変わらせようとしていた。だから震災は近代都市化にとっては都合が良かった。
こうして東京は、中産階級は良好な住宅地を求めて山の手に移動し、労働者階級の住む下町の範囲は深川、本所、向島、荒川区などに拡大していった。もともとこれらの地域には貧しい労働者などが多く、彼らが住む質の悪い不良住宅が集まる地域も生まれていたが、その傾向に拍車がかかったのである。
同潤会アパートの誕生
震災後に深川に建設された住宅として忘れてはならないのが、同潤会によるアパートや木造住宅である。
まず震災直後に塩崎町(現・塩浜2丁目)に352戸の仮住宅が建設される。東大工町では清砂通りアパートが誕生。これは16棟、667戸という同潤会アパートとしても群を抜いて大規模なもので1927年完成した(2番目に大きな代官山アパートですら337戸)。
私は、1982年にパルコに入社して、毎月原宿の表参道で通行人のファッションの観測をしていたので、同潤会青山アパートには親しみがあるのと、そのころは東横線の祐天寺に住んでいたので、あるとき代官山から渋谷の会社まで歩いて出勤したのだが、代官山アパートに迷い込んでしまったことがある。
そのときの印象は非常に強く、まるで1930年代のヨーロッパ映画を見ているような、セピア色の映像として記憶されている。以来、同潤会アパートは私の中で特別な存在となったのだが、当時は古い建築を調べるような仕事をしていなかったので、代官山アパートを何度も訪ねるとか、調べるということがなかった。それが私の一生の不覚のひとつである。
代官山アパートは2000年頃には建て替えのために壊されたが、清砂通りアパートは当時まだあった。だから私は代官山アパートの代わりに何度も清砂通りアパートを訪れたのだ。そこも16棟のアパートがヨーロッパの都市のように配置されていて、魅力的なものだった。
そういえば映画監督の小津安二郎は深川の出身だから、清砂通りアパートもよく知っていたはずだ。名作『東京物語』で原節子が住んでいるのが横浜のほうの代官山アパートという設定らしい。
清砂通りアパート10号館には1929年頃から、衆議院議員で後の日本社会党委員長の浅沼稲次郎が住んでいた。保証人は社会事業家の賀川豊彦だった。1941年ころ浅沼は白河町内の自治会長になり、45 年の東京大空襲の時には、コンクリート造りであった元加賀小学校に避難してきた住民とともに、浅沼が消火の陣頭指揮に当たり、小学校体育館の焼失を免れた話は今なお、語り継がれているという。
また浅沼の勧めにより、清砂通りアパート住民は1945年5月に生活用品不足に対応するため生活協同組合を結成している。浅沼は日比谷公会堂で暗殺されるまでこの地に住み続けた。
建築家・内田祥三の思い
また同潤会は、猿江裏町では不良住宅改良事業を行い、東町アパート(3階建て1棟、18戸)、共同住宅(294戸)が建設された。また猿江では東京市も本村町住宅420戸を建設し25年に完成している。
なお現在の猿江恩賜公園南園は、もともと幕府の材木蔵のあった場所で、その後、宮内省の猿江御料地となり1924年、皇太子裕仁(昭和天皇)の結婚を記念して、芝離宮御料地、上野御料地とともに東京市に無償で払い下げられ、29年から造園されたものだ。
また同潤会の職工向け分譲住宅が深川区越中島に160戸、三好2丁目に22戸、白河3丁目に71戸建設され、城東区だが砂町では「普通住宅」と呼ばれる、いまで言うメゾネット形式の賃貸住宅が3戸ほど同じ棟に集まって建つ木造住宅が354戸が建設された。
このように同潤会と深川、江東区の関わりは深い。同潤会アパートを設計した内田祥三(よしかず)は東京帝国大学教授で東大安田講堂などを設計した建築家であり、同潤会の理事および建築部長だったが、内田はまさに深川の出身だったから、いっそう当地への思いが強かったかもしれない。
私は社会学、社会政策などを大学で学んだ人間なので、これまで述べてきたような、深川、本所、荒川区などで建設された社会施設にはとても関心がある。下町情緒も好きだが、近代化する都市の矛盾を引き受けた下町における社会政策とそのための施設に関心があるのだ。
読者のみなさんも、下町を歩くときにそういう社会的な視点でも見てみると、情緒とか人情とはまた別の下町の魅力を感じることができるだろう。
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