復興住宅であり、日本で最初期の耐火集合住宅”同潤会アパート”

今回お話を聞いた、ギャラリーエークワッド 主任キュレーターの岡部三知代さん。後ろにあるのは、同潤会アパートに取り付けられていた住人の名簿のレプリカだ今回お話を聞いた、ギャラリーエークワッド 主任キュレーターの岡部三知代さん。後ろにあるのは、同潤会アパートに取り付けられていた住人の名簿のレプリカだ

日本の住宅史を語るとしたら挙がるであろう住宅の一つに、”同潤会アパート”がある。日本最初期の近代的な鉄筋コンクリート造の耐火アパートで、関東大震災後に復興住宅として建設された。

建設したのは財団法人同潤会で、復興支援のために1924年に設立され、1933年までの約9年間で東京都内・横浜市内に計16の集合住宅を建設した。そのほとんどに電気・都市ガス・水洗式トイレなど当時としては先進的な設計や設備を備え、明治以降、急速に進む西洋化と日本和の住まい観との融合を模索し、集合住宅を通して都市での暮らし方を提案してきた存在だ。

1941年に発足した住宅営団に業務を移して同潤会は解散し、16のアパートは既に全てが取り壊されている。取り壊す際には保存運動も起こり、「青山アパートメント」跡地である表参道ヒルズには「同潤館」という記念館が建てられるなど、今もなお多くの人を魅了している。

関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災と3度の震災を経験してきた日本では、その都度住まいの復興も課題となってきた。復興住宅として、日本最初期の都市型集合住宅として「暮らしの提案」をしてきた”同潤会アパート”の歴史や長く人々に愛されている特長から、現代の住まいへのヒントが得られそうだ。
そこで、2015年3月から5月に東京都江東区のギャラリーエークワッドで開催された「同潤会の16の試み 近代日本の新しい住まいへの模索」展で、その魅力を探ってみた。

和と洋の融合。設計者ごとのこだわりが見える住まい方の提案

昭和初期の新たな都市型集合住宅として、日本の住まいに西洋の様式が取り入れられた”同潤会アパート”。エレベーターなど最新の設備も設けられ、当時の都市部の人々にとっては、ここに住むのがステータスでもあったという。

今回、会場に展示されていた代官山アパートメントの原寸模型でうかがえるのは、和室を基本としながらも部屋の奥の窓にさりげなく洋風の設計がされている様子だ。他のアパートで使用されていた青色のモダンなドア、四角い格子状の窓枠や丸型の窓なども展示されており、そうした細部の西洋風なデザインも当時の人々にとってより魅力的に映ったのだろう。
今回お話を伺ったギャラリーエークワッドの主任キュレーター 岡部三知代さんは、「同潤会アパート初期の設計は、建築家の内田祥三氏の弟子達が努めましたが、彼らは海外の雑誌なども参考にして当時まだ日本には無かったものを取り入れました。また、青山アパートメントと鶯谷アパートメントは設計者が同じなのですが、青山では直線を基調としたデザインを用いたので、鶯谷では曲線を多用したなど、同じ設計者が手がけたアパートでも同一仕様にならず、物件ごとに設計者の思いやこだわりが表れているのも同潤会アパートの特徴的な点です」と話す。
洋風化する人々の暮らしを”ハード”である建物にも表現することで新しい和洋折衷のあり方を提案した、設計者のこだわりが建物を通して伝わってくるようだ。

左上)展示の様子</br>右上)「代官山アパートメント」原寸模型。一般的な住戸の広さは約30m2程度だったという</br>左下)各アパートで使われていた建具や飾り、生活の様子を表す写真が展示されている</br>右下)「清砂通りアパートメント」の外壁に使われていた飾り左上)展示の様子
右上)「代官山アパートメント」原寸模型。一般的な住戸の広さは約30m2程度だったという
左下)各アパートで使われていた建具や飾り、生活の様子を表す写真が展示されている
右下)「清砂通りアパートメント」の外壁に使われていた飾り

「住人みんなが家族のような」大切にされた長屋的コミュニティ

同潤会アパートが画一的でないのは、建物や建具のデザインだけではない。敷地の形状やその地域での暮らし方に合わせて、多様な敷地設計も特長的だった。
各アパートの敷地と建物の配置を表した模型が展示されていたが、16のアパートそれぞれが、ただ建物を並べるわけではなく、ストーリーを想像させるものが多い。例えば東京都墨田区の「柳島アパートメント」では、表通りに沿って店舗併用住宅棟が一列に配され、その後ろにコの字型の住宅棟が配置されていた。南面の採光を優先せず、景観への配慮がうかがえる設計だ。こうした工夫をアパート毎に見ることができ、採光など条件の平等感を優先するのではなく町並みを大切にする設計者の思いを感じることができた。

その中でも、「中庭」がある物件を複数見つけることができる。同潤会アパートの特徴の一つに、この中庭や共用施設を通しての密接なコミュニティが挙げられる。
どのアパートにも共通して、居住者が共同で使う炊事場や洗濯場などの共用施設が設けられていた。例えば現在の代官山アドレスの場所にあった「代官山アパートメント」には、全36棟が建つ広い敷地の中央に食堂商店、娯楽室、銭湯が設けられていた。また、東京都江東区の「清砂通アパートメント」には児童遊園や食堂、娯楽室があり、ここでは同じ棟の住人が協力して冠婚葬祭を行っていた。居住者である女性の婚礼がこのアパートで行われている写真が展示されており、それを囲む住人の姿などから、アパート全体が一つの家族のような、あたたかいコミュニティが形成されていたことがうかがえる。

多くが長屋で暮らし、家族や親戚のような近所付き合いをするそれまでの住まい文化が、集合住宅でも受け継がれようとしていたということだろう。

左上)各アパートの模型の展示の様子。物件ごとにレイアウトが異なる</br>右上)上野下アパートメント、左下)三ノ輪アパートメントの共同洗濯場。</br>どのアパートにも、こうした共同使用のスペースがあった</br>右下)同潤会アパートの中でも最大の住戸数であった清砂通りアパートメント</br>(撮影:兼平雄樹)左上)各アパートの模型の展示の様子。物件ごとにレイアウトが異なる
右上)上野下アパートメント、左下)三ノ輪アパートメントの共同洗濯場。
どのアパートにも、こうした共同使用のスペースがあった
右下)同潤会アパートの中でも最大の住戸数であった清砂通りアパートメント
(撮影:兼平雄樹)

同潤会アパートの魅力が語る集合住宅の原点

昔ながらのコミュニティを大切にしながら、同潤会アパートは移り変わる時代にも対応してきた。

当時まだ社会的には女性が参政権を持たない時代だったにも関わらず、タイピストや教師など職業婦人専用の「大塚女子アパートメント」がつくられ、サンルームや音楽室を備えたハイカラな生活様式は、独身女性を中心に大きな話題を呼んだ。これは、現代のシェアハウスに近いかもしれない。他にも、同潤会の事務所兼独身男性専用のアパートだった「虎ノ門アパートメント」、関東大震災後のスラムクリアランスの事業でもあった「旧猿江裏町共同住宅」(住利アパートメント)など、時代とともに多様化する社会や暮らし方に、同潤会アパートは住宅という方法でいち早く対応してきたと言える。
「こうした、コミュニティや多様性を取り入れることで、共同住宅に“都市機能”を追加するという意図があったのではないでしょうか」と、岡部さんは語る。

取材時、偶然にも展示会に来場していた、「清砂通りアパートメント」に1937年から約20年間住んでいたという男性にお話を聞くことができた。共同の水汲み場での近所の人との関わりや、住人たちが協力して建物の防火対策をしていたことなどのエピソードを話してくださり、「ここに住んでいたことを今でも誇りに思っていますよ」という言葉がとても印象に残った。

東日本大震災以降、地域の人とのつながりや集合住宅のコミュニティが見直される傾向にある。それは震災をきっかけとして起こった暮らしの変化として、同潤会アパートのなりたちと共通していると感じた。また、暮らしの多様化についても、コンセプトシェアハウスや田舎暮らしという暮らし方が注目されている現代と共通していると言えそうだ。

日本で最初期の近代的な共同住宅として建設された同潤会アパートだが、90年が経ち、全て取り壊された今もなお多くのファンが魅了されるのは、そうした暮らしを求めている人が多いということの表れだろう。
核家族化などにより集合住宅のあり方は変化しているが、昨今の暮らしにおけるコミュニティを重視する動きは、同潤会アパートが求めてきたもの、つまり”集まって暮らす豊かさ”ということの原点回帰とも言えるかもしれない。

清砂通りアパートメントの建て替え前の記念撮影。現在の集合住宅で、</br>建て替え前に住人が記念撮影をするということはあまり無いのではないだろうか。</br>それができる、住民の密接なコミュニティと建物への強い愛着があったということだろう</br>(撮影:兼平雄樹)清砂通りアパートメントの建て替え前の記念撮影。現在の集合住宅で、
建て替え前に住人が記念撮影をするということはあまり無いのではないだろうか。
それができる、住民の密接なコミュニティと建物への強い愛着があったということだろう
(撮影:兼平雄樹)

2015年 07月20日 12時03分