杉並から稲毛まで 

千葉市ゆかりの家。いなげ千葉市ゆかりの家。いなげ

「ラストエンペラー」という映画があった。坂本龍一が音楽を担当しアカデミー賞を受賞した作品だ。
ラストエンペラーとは中国の清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)のことである。その弟は溥傑(ふけつ)といい、日本の陸軍兵学校に在籍していた。
あるとき溥傑はある女性を見初め、是非とも結婚したいと思った。日本政府としては日中関係のためにもそれがよいと考え、昭和12年(1937)二人は結ばれた。
女性は嵯峨公爵の長女・浩(ひろ)だった。国策結婚とも言える結婚だったので浩は大変に迷った。しかし陸軍がどうしてもと迫ったのと、溥傑自身はとても純粋な気持ちだったので、浩はプロポーズを受けたのである。

浩の家は杉並にあった。現在杉並区立郷土博物館が建っている場所である。婚礼の儀に向かうときはそこから馬車に乗り、青梅街道から九段の軍人会館(今の九段会館)に向かった。
二人が新婚時代のわずか半年を過ごしたのが千葉市の稲毛だった。浅間神社の脇の丘の上の木造住宅である。今も家が残っており「千葉市ゆかりの家。いなげ」として公開されている。

「白砂青松」の景勝地

稲毛海気療養所稲毛海気療養所

ラストエンペラー実弟と新婚の家にしては慎ましいなと私はその家を見て思ったが、室内には仲の良い二人の写真が飾られていてほほえましい。
だが戦争が烈しさを増していた。幸せな新婚時代もつかの間、二人は中国へ行き、そこから波瀾万丈の生涯が待っていたが、それについては本稿のテーマではないので書かない。

二人が過ごした家からは、下るとすぐ遠浅の海が広がっていた。
明治21年(1888)には千葉県初の海水浴場が開かれ、医師の濱野昇により「稲毛海気療養所」が設立されていた。ゆかりの家から浅間神社境内を挟んで東側である。
当時は海水浴が各種の病気の治療に役立つと考えられていて、療養所には、海水温浴場、冷浴場、遊技場、運動場などが備わっていた。

明治24年(1891)発行の「千葉繁昌記」によれば、海に面して高台があり、緑の美しい松の木が立ち並び、砂浜は白く美しく、海の向こうには右に富士山、左に房総の山地が見え、海には帆舟がつねに往来し、その美しさは何とも言い難いもので、誰でも一度ここを訪れたなら、間違いなく賞賛するほどだったという。いわゆる「白砂青松」(はくしゃせいしょう)の景勝地だったのだ。
だが今は道路と団地ばかりで賞賛すべき風景はない。

浅草の神谷バー創始者の別荘

神谷別荘神谷別荘

大正10年(1921)になると浅間神社の北側に京成電鉄が開通し、海水浴や潮干狩りの客が増え、海岸には多くの旅館や商店が並ぶようになった。療養所も所有者が代わり、旅館「海気館」となった。海気館には、島崎藤村、徳田秋声、森鷗外らの文人も滞在し執筆をした。

海気館からさらに東側に行くと、洋館がある。神谷伝兵衛邸である。デンキブランで有名な浅草の神谷バーの創始者である。この伝兵衛が1917年、病気療養のためにつくった別荘がこの洋館だ。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りだった。

伝兵衛は幕末1856年愛知県の生まれ。なんとわずか8歳で酒造家になることを志した。酒造の勉強のために17歳で横浜に行ってワインのおいしさを知り、東京に出て神谷バーをつくったのである。いつかドラマにしたほうがよいような人物である。
81年には輸入ワインを改良して独自のワインを製造、蜂印香鼠葡萄酒として売り出した。ハチハニーワインである。私の世代以上なら一家に一本は置いてあったワインだ。今もある牛久ワイナリーは伝兵衛がつくったものである。

千葉トヨペット本社の由来

千葉トヨペット本社千葉トヨペット本社

神谷邸から国道14号線を西に行くと、大きな和風建築がある。和風なのにトヨペットの千葉本社である。いったいなぜ。
もともとは日本勧業銀行本店であり、1899年竣工で、日比谷公園に面して建っていた。1900年には上野で開催された勧業博覧会のための本館、迎賓館としても使用された。隣には鹿鳴館、内務大臣官舎、華族銀行があり、そのまた隣には帝国ホテル(フランク・ロイド・ライトの前の渡辺謙設計のもの)が並んでいた。他はすべて洋風建築なのに勧業銀行だけが和風だった。

当時は、辰野金吾設計の日本銀行本店(1896年)、曾祢達蔵設計の丸の内三菱2号館(1895年)など、官庁街の新建築はネオバロック様式が主流だった。
ところが日本勧業銀行の初代総裁河島醇は日本銀行とはちがう、できるだけ日本風な建築にしたい、千鳥破風の和風木造がよいと考え、明治建築界の元老・妻木頼黄に依頼した。しかし妻木は多忙であり、どうしたものかと思案していると武田五一の東大卒業設計が目にとまり、彼に設計をさせたのである。
武田はその後東大助手、京大教授となり、京大本部本館、京都市役所などを設計した大家だ。

それが1926年、勧業銀行本店改築のため、京成電鉄に売却され、旧本店は習志野市の谷津遊園に移築され「楽天府」と名付けられ、人気俳優・阪東妻三郎のプロダクションの施設として映画撮影にも使用された。
さらに1940年には、現在千葉県企業庁のある中央区長洲1丁目に移築されて、千葉市役所庁舎として61年まで使用され、県民に愛された。
市役所としては不要となったが、保存を望む声が多く、千葉トヨペットに無償で譲渡され、3度目に美浜区の現在地に移築され、1997年に有形文化財に指定されている。

読売ジャイアンツ誕生

さて、楽天府を擁した谷津遊園は1927年に開業した。26年に京成電鉄が現在の習志野市の海沿いの土地85万m2を買収して建設したものである。
その土地は1917年の台風で塩田や養魚場が壊滅したものだった。そのうち30万m2を利用して谷津遊園がつくられ、残りは住宅地として分譲された。

京成電鉄は1930年代、積極的に住宅地分譲を行っていた。谷津遊園に隣接する土地も、「海浜別荘及び住宅」として売り出され「予想以上の好成績」で発売数日で完売した。その他、稲毛、市川、船橋海神台、千葉海岸などの土地が分譲されていた。
また客や住民の便宜を図るべく京成花輪駅(現在の船橋競馬場駅)から線路を延ばして谷津遊園駅を新設した。

園は「庶民の庭」をコンセプトとしており、園内には当時日本最大の海水プールや、海に臨む瀟洒な宝龍閣、安芸の宮島に似せた50mほどの回廊、大噴水、子どものための遊戯場、銀座から出店した喫茶店プリンス、その他各種の料理店、貸間、貸席、貸しボート、ラジウム浴場などがあった。

さらに野球の巨人の最初の球場も谷津遊園だった。1934年に園内にグラウンド(谷津球場)が建設されたのだ。京成電鉄専務後藤國彦は、読売の正力松太郎が日本初のプロ野球チームとして巨人軍をつくることを応援していたが、ついでに球場をつくって提供したのだった。
1934年11月には全米オールスターチームが来日し谷津球場で巨人と試合をした。全米チームにはかのベイブ・ルースやルー・ゲーリックがいた。巨人のエースは伝説の名投手・沢村栄治だった。こうしたことから谷津遊園は日本プロ野球発祥の地と言われているのである。

沢村はその後戦争に行き、手榴弾の投げすぎで肩を壊す。溥傑夫妻同様、戦争が運命を人生を変えたのである。

谷津遊園谷津遊園

公開日: