思わず溜息の迎賓館に足を踏み入れる

これまで、毎年夏の10日間だけ公開されていた「迎賓館赤坂離宮」が、2016年の4月から通年公開となった。今までは公開は抽選で行われていたため、その内部を目にすることができるのは狭き門であった。だが、通年公開により、白亜の宮殿に触れられる機会は格段に増えた。

明治期に建設され、大正、昭和、平成と戦争や震災など幾度の危機を乗り越えながら燦然と建つ日本最初の洋風宮殿。東宮御所として建設されながらも、その役割を果たしたのはごく僅かな一時期だけという数奇な運命を辿っているのも興味深い。

西洋文明に学び、列強に並ぼうとしていた当時の日本が、どのようにしてこの白亜の宮殿を造り上げたのだろうか。

今回は2回にわたって、迎賓館赤坂離宮の歴史と世界に引けを取らない絢爛豪華な室内の様子を紹介したいと思う。1回目は、宮殿が辿った運命と建設にかけた明治の建築家の情熱に迫ってみたい。

本館外観:シンメトリーにバランスをとる本館。肉眼ですらその全容を一度に捉えようとするのはなかなか大変本館外観:シンメトリーにバランスをとる本館。肉眼ですらその全容を一度に捉えようとするのはなかなか大変

紀州徳川家の江戸中屋敷の敷地に建つ宮殿

東京・JR四ツ谷駅を降りて外堀通りを真っすぐに見渡せば、とても日本の街並みとは思えない、真っ白な門の向こうに白亜の宮殿を臨むことができる。

この場所は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった敷地。約20万坪に及ぶ広大な中屋敷の一角、といっても3万坪を越える広大な敷地に迎賓館赤坂離宮は建つ。縦に伸びる高層建造物になれた我々の目には、横に広がる迎賓館の雄大さに思わず息を飲む。訪れてみると分かるのだが、その建物の全体を捉えようとすると、正門に続く街路樹まで離れないとカメラはおろか肉眼ですら収まらないほどだ。

もともと、当時の皇太子がお住まいになる「東宮御所」として建設されたこの宮殿。10余年の歳月をかけて、明治42年(1909年)に完成した。時は文明開化が進み、西洋の文化を積極的に取り入れていた時代。欧州の宮殿に学び、日本の建築技術、美術工芸の総力を挙げて創り上げられた明治時代を象徴する一大モニュメントだ。

構成、意匠においても類まれな建造物として、平成21年(2009年)には、国の重要文化財として「国宝」に指定されている。

大ホール:まさに絢爛豪華。どこか西洋の城に迷い込んだ錯覚を覚える。金色に輝く装飾は本物の金箔が使用されている大ホール:まさに絢爛豪華。どこか西洋の城に迷い込んだ錯覚を覚える。金色に輝く装飾は本物の金箔が使用されている

一切の妥協を許さなかったコンドルの弟子・片山東熊

花鳥の間:妥協を許さなかった室内装飾も、創建当時のものが今なお多く残る花鳥の間:妥協を許さなかった室内装飾も、創建当時のものが今なお多く残る

建設したのは、明治の“お雇い外国人”として名を馳せたジョサイア・コンドルの弟子、片山東熊(かたやまとうくま)だ。なんと若い頃は高杉晋作率いる「奇兵隊」に所属していたほど体格にも恵まれていたというが、明治6年に入学した「工学寮(のちの工部大学工・東京大学工学部の前身の一部)」で造家学科教授として赴任したコンドルに師事。その後、明治を代表する建築家、さらには宮廷建築の第一人者として頭角を現した。その作品には「奈良国立博物館」「東京国立博物館 表慶館」など重要文化財に指定されているものに事欠かない。このほかグランドプリンスホテル高輪 貴賓館として利用されている「竹田宮邸」なども彼の作品である。

その東熊が受けたのが「結婚を控えた東宮(大正天皇)のために、新居となる東宮御所を建設せよ」という命だった。列強に肩を並べることを目指した時代、西欧の宮殿に遜色のない建造物が求められた。しかし実際には、洋風文化を受け入れはじめたばかりの日本では、建設工業技術のレベルからみても、室内装飾や日本特有の地震対策の見地からも極めて困難なものだった。

これらの問題を解決するために、東熊の元には当時の日本を代表する学者、芸術家、技術者が集結した。室内装飾の調査と製図には、東京美術学校(のちの東京芸術大学美術学部)教授の黒田清輝(くろだせいき)、装飾用七宝下絵作成には、同じく東京美術学校教授の荒木寛畝(あらきかんぽ)と渡辺省亭(わたなべせいてい)、地質の調査には後に「応用地質学」の草分け的存在となった巨智部忠承(こちべちゅうしょう)。一部だけを見ても錚々たる顔ぶれだ。

建築、美術、どちらの領域でも国内の精鋭たちのセンスと情熱を総動員して始まった東宮御所の建設は、まさに一切の妥協を許さないもの。柱の装飾のためにわざわざ欧州に職人を派遣し技術を習得させる、東熊自身も建設期間中も室内装飾の調査や部材発注のためにたびたび海外に出向くほどの力の入れようだった。

贅を尽くした明治西洋建築の粋

彩鸞の間:創建当時からシャンデリアには電気が用いられていた。天井深く支柱を埋め込んだシャンデリアは、関東大震災に耐え、東日本大震災でも損傷はなかったという彩鸞の間:創建当時からシャンデリアには電気が用いられていた。天井深く支柱を埋め込んだシャンデリアは、関東大震災に耐え、東日本大震災でも損傷はなかったという

そのため出来上がった宮殿は、当時の日本が渾身の力を振り絞り築いたまさに傑作。外観には、当時欧米諸国で流行し始めたネオ・バロック様式を採用し、本館は厳正なシンメトリーを見せる。正面外観はウイーンの新王宮に模されていて、本館南側二階のベランダに並ぶ列柱廊は、かの有名なルーブル宮殿の東面と酷似する。

室内装飾に至っては、主にフランス18世紀末様式が採用され、シャンデリアに目映く燦然と輝く燭台、壁面に施された細かなレリーフや重厚感あふれる調度品と、とにかくため息が漏れる豪華さだ。

一方、地震対策といった建築技術面においても、壁の中に縦横に鉄骨を入れ、床にも鉄材を用い、屋根組も鉄製にして銅板を葺くなど耐火構造も徹底。強固な基礎と厚い壁は地震対策としても狙った通り、実際に大正12年(1923年)の関東大震災にも耐え、平成23年(2011年)の東日本大震災時にもほとんど影響しなかったという。

もちろんこれには、天文学的な費用も投入されている。総工費は当時の金額で約510万円余り。東京の小学校教員の初任給が13円という時代だ。現在の貨幣価値に換算すると941億円を超えるという計算もある。後述する改修工事の行われた昭和49年の専門家の見立てでは、当時ですらなかなか手に入らない素材が多く、2000億円をかけても同じような立派な建物はできないとされた。まさに、類を見ない壮大かつ絢爛豪華な宮殿が誕生したのだ。

しかし、ここからがこの宮殿が数奇な運命を辿ったといわれる理由だ。あまりに豪奢な宮殿は「豪華すぎる」という理由から明治天皇の意向に沿わず、当時の皇太子ご夫婦が過ごすことは叶わなかった。当時としては最新鋭の空調設備や自家発電機などが投入されたが、実際にはなかなか温度調節が最適に行われず、住居としての住み心地に問題があったのも要因の一つだったという。

この宮殿が御所として利用されたのは、ずっと時を下ってからのこと。大正末期から昭和初期にかけて昭和天皇が摂政時代に過ごした5年間。その後、終戦時期の半年ほどを今上天皇が過ごしたことに留まる。

戦後、皇室財産から国に移管された東宮御所は、「国立国会図書館」(昭和23年-昭和36年)、「憲法調査会」(昭和31年―昭和35年)、「東京オリンピック委員会」(昭和36年-昭和41年)といった内閣や国会の公館として使用されることになる。

迎賓館としてのモデルはヴェルサイユ「グラン・トリアノン」

その後、戦後十数年を経ると国際関係が緊密化したことから、外国の来賓を迎えるための迎賓館が必要とされた。そこに白羽の矢がたったのが赤坂離宮だった。昭和43年(1968年)に迎賓館改修工事が着工にこぎつける。しかしそれまで一度も本格的な改修を行っていなかった赤坂離宮は、屋根も傷み、白亜の外観も戦時中の迷彩処理が施されていたほか、国立国会図書館として使用されていた時期は室内での喫煙が認められていたため、内装もひどく傷んでいる状態だったという。

まさに大々的な改修であり、公式行事が行えるような近代的機能を整備すると同時に、文化財的価値の保存にも配慮された。改修設計にあたったのは日本芸術院会員で文化勲章を受章している村野藤吾(むらのとうご)。ヴェルサイユのグラン・トリアノン宮殿が参考にされ、金箔や塗装、天井絵画なども修復された。改修費用は、工事費約101億円、家具調度品などの製作費も9億円を要していることからも、明治の創建当時の豪華さを引き継いだことが伺えるだろう。

約6年の歳月をかけて迎賓館として生まれ変わった宮殿は、その後、アメリカのフォード大統領を初めて国賓として迎えたのを皮切りに、先進国首脳会議などの歴史を見守る華やかな会場となったのだ。

こうした歴史に思いを馳せながら建物の中に立てば、その豪華さはもちろんのこと、時代の流れの中で生まれたドラマを感じることができるはずだ。

次回は、実際に華麗なる建物の内部、そして見どころをご紹介していきたい。

■内閣府迎賓館HP
http://www8.cao.go.jp/geihinkan/koukai.html

正面玄関:賓客を迎える正面玄関のレッドカーペット正面玄関:賓客を迎える正面玄関のレッドカーペット

2016年 07月28日 11時05分