「沿線観光」と「産業観光」が楽しめる、”盲腸線”ならではの魅力

わ鐵の観光列車「トロッコわっしー号」わ鐵の観光列車「トロッコわっしー号」

全国のローカル線が苦境にあえぐ中、廃線の危機にさらされながらも、観光客を誘致するためのユニークな取り組みで活気を取り戻した鉄道がある。「わ鐵」の愛称で知られ、群馬県東部と栃木県の一部を走る「わたらせ渓谷鐵道」(以下、わ鐵)だ。

わ鐵は渡良瀬川の渓谷沿いを走り、群馬県の桐生駅から栃木県の間藤駅までの44.1kmを結ぶ路線である。その渓谷美はつとに有名で、桜と花桃の季節や初夏の新緑、秋の紅葉シーズンには多くの観光客が押し寄せる。また、始発の桐生駅は織物産業が栄えた「絹の町」として知られ、足尾銅山の遺構が点在する終点近くでは、鉱都として日本の近代化を支えたかつての歴史を偲ぶことができる。渡良瀬川沿いの「渓谷観光」と、桐生・足尾の産業遺産を巡る「産業観光」。異質な2つの観光資源をあわせ持つという点では、全国でも希少価値の高い路線といえる。

とはいうものの、わ鐵は、終点が行き止まりの“盲腸線”。「鉄道経営面での条件は最悪」という声もあるほど、厳しい闘いを強いられている。沿線には地域の雇用の受け皿となるような大企業もなく、絶大な吸引力を持つ観光資源があるわけでもない。世界遺産の日光から足尾までは車で30分の距離にあるが、路線バスの便は1日わずか6本。バスでの移動に1時間ほどかかるため、日光からの観光客誘引もままならないのが実情だ。

「ここにしかない価値」をいかに見出し、どう発信するか

群馬県庁の観光局長を経て、わ鐵の社長に就任した樺澤豊氏群馬県庁の観光局長を経て、わ鐵の社長に就任した樺澤豊氏

一方で、近年、メディアでは空前の“わ鐵ブーム”ともいえる現象が起こっている。昨年度のわ鐵のメディア掲載件数は年間600件。その立役者となったのが、わ鐵の“顔”として自ら広報・宣伝に奔走する、現社長の樺澤豊氏だ。

「沿線の定住人口を増やしたいと思っても、現実には難しい。地域の足としてのわ鐵を守るためには、観光路線に力を入れざるをえないのが実情です。しかし、いくら沿線の景色がいいといっても、それだけで乗客を増やすには限度がある。多くの観光客に来ていただくためには、沿線に魅力的な観光資源が必要です」

これまで、わ鐵ではさまざまな観光振興策を打ち出してきた。1998年には、車窓からの展望が楽しめる観光列車「トロッコわたらせ渓谷号」の運行を開始。2012年には新たに「トロッコわっしー号」も投入した。
さらに、トロッコ列車を利用した“料理列車”や、「廃線を歩くツアー」「保線体験ツアー」などのイベントも開催。あの手この手で観光客の集客を図っている。

だが、わ鐵沿線には、黙っていても観光客を呼べるようなキラーコンテンツがあるわけではない。このため、わ鐵が観光鉄道としての人気を確立できるかどうかは、「ここ(沿線)にしかない価値」を提供できるかどうかにかかっている、と樺澤氏は語る。

「沿線住民にとっては当たり前の生活も、お客様にとっては非日常かもしれない。大切なのは、“ないものねだりより、あるもの探し”で、地域に埋もれたお宝を探し出していくこと。わ鐵に乗りに来た観光客を沿線に呼び込むことができれば、地域の活性化に寄与することができる。そのためには、ストーリーやネーミングにこだわりながら、お客様にいかにアピールするかが鍵だと考えています」

国鉄足尾線の廃止を受け、第3セクターとして開業

足尾銅山の廃坑を利用した観光施設「足尾銅山観光」。“日本一の鉱都”と呼ばれた往時を偲ぶことができる足尾銅山の廃坑を利用した観光施設「足尾銅山観光」。“日本一の鉱都”と呼ばれた往時を偲ぶことができる

わたらせ渓谷鐵道の歴史は1914年に遡る。この年、足尾銅山から採掘される鉱石を運ぶため、足尾線の全線が開通。1918年に国有化され、鉱山業の輸送路として成長した。
だが、国内の銅の4割を産出し、世界の銅の価格を左右するほどの繁栄を誇った足尾銅山も、資源が枯渇して1973年に閉山。国鉄足尾線は、一気に赤字路線に転落した。
1987年には国鉄民営化でJR足尾線となったが、1989年に廃止。その路線を引き継ぐ形で開業したのが、第3セクターのわたらせ渓谷鐵道である。

開業当初は沿線住民が「乗って残そう運動」を展開したこともあって、1994年には年間乗客数が106万人とピークに達した。だが、その後は、沿線人口の減少とモータリゼーションの影響で乗客数は減り続け、2009年には50万人を割り込んだ。地元自治体からの補助金でなんとか維持してはいるが、もはや公的支援なしには存続できないのが実態だ。

こうした中、わ鐵の再生を託されたのが、群馬県庁で観光局長を勤めた樺澤氏だった。樺澤氏は2009年に社長に就任すると、矢継ぎ早に再建策を実行。自らもわ鐵の“広報マン”として、その魅力を発信する役割を担った。

社長自らが率先垂範し、社員の意識改革に務める

トロッコ列車内で社長自ら乗客に対応トロッコ列車内で社長自ら乗客に対応

だが、再生への道のりは、けっして順風満帆だったわけではない。
社長就任当初は、挨拶さえできない社員が多かった。樺澤氏は安全を確保するためにも、「当たり前のことが当たり前にできる」ことを目標にすえた。
また、沿線自治体の間でわ鐵の存廃議論が交わされていたことを危惧してか、「廃線にするために来たんですか」と不安げに尋ねる社員もいた。

「他の自治体の例を参考にして、『ビューポイントに来たら、お客様が景色を楽しめるように、トロッコ列車を減速させてしてほしい』と言ったら、『規則があるから減速なんかできませんよ』と言われたこともあります。あきらめずに言い続けたら、いつの間にか減速するようになりましたが」

変化をきらう社内の澱んだ空気にも苦しめられた。新しいことを始めるときは、従来の役割分担ではカバーできない仕事の空白地帯が発生する。だが、「この仕事はうちのセクションの仕事ではない」といって、積極的にやろうとはしない社員が多かった。

「ある程度指示をすれば、後はすべて部下がやってくれる県庁とちがい、民間の会社では、自分が率先垂範しないと社員がなかなか動いてくれない。『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』という山本五十六の言葉にならい、自分から率先して動くように努めました。社長の私自ら、百貨店の催事の駅弁大会で店頭に立つのもそのためです。朝6時から仕込みをして、夜9時まで延々と実演する。『社長がこんなに一生懸命やっているんだから、私たちもやらざるをえないよね』と社員に言われたときは、我が意を得たり、という思いでしたね。社員1人ひとりはやる気がある。その社員を活かせるかどうかはリーダーの力量にかかっていると気づかされました」

「鉄道」と「沿線住民」との連携なくして、地域活性化は実現できない

登録有形文化財のレトロな神戸駅。わ鐵は貴重な鉄道文化財の宝庫でもある登録有形文化財のレトロな神戸駅。わ鐵は貴重な鉄道文化財の宝庫でもある

メディアでの露出が増えるにつれ、わ鐵の知名度は全国的に高まったが、乗客数の大幅増にはつながっていない。東日本大震災と福島原発事故による風評被害のダメージも大きく、年間乗客数は40万人前後で横ばいの状態が続いている。

「結局、鉄道だけではダメなのだと思います。鉄道だけがいくらがんばっても、観光客が地域に長く滞在したくなるような仕掛けを作らないかぎり、乗客数の増加は見込めない。鉄道の旅と沿線の観光が相乗効果を発揮しないかぎり、わ鐵の沿線全体が潤うようにはならないのです」

観光客を地域に誘導するためには、駅を基点として沿線の観光スポット巡りが楽しめるような、回遊性のある町づくりが欠かせない。たとえば、昭和初期の面影を色濃く残す大間々駅の町を散策してから、トロッコ列車に乗り、神戸駅(*1)のホームの『レストラン清流』で地産地消のランチを食べる。登録有形文化財の神戸駅を見学した後、草木湖の眺望を楽しみながら、富弘美術館(*2)まで足を伸ばす――というように、鉄道と沿線の観光が相乗効果を発揮すれば、経済効果は地域にも波及していく。しかし、そのためには沿線住民との連携が不可欠であり、「地域の意識をどう変えていくかが今後の課題」と、樺澤氏は語る。

「今、桐生駅寄りにお住まいの方々は、東京の方を向いています。『鉄道がなくてもいいや』ということにならないためにも、住民の方々に、『地域に鉄道があることの意義』を実感してもらわなくてはならない。鉄道を交通手段として利用するのみならず、鉄道を活用してご自分の商売に活かしてもらうための仕掛けを考える必要があります」

観光によって地域活性化を図るには、鉄道と地域とがしっかりとタッグを組むことが必要、と樺澤氏。今後はますます沿線住民との連携を強めていきたい、と抱負を語る。
では、わ鐵はどのような方法で集客を図り、観光鉄道として再生を目指しているのか。次項では、その具体的な取り組みについてご紹介する。

(*1)わ鐵の駅の1つで、駅名は「ごうど」と呼ぶ。草木ダムの最寄り駅でもある。
(*2)みどり市出身の星野富弘の詩画作品を展示した美術館。

2015年 06月26日 11時07分