限界集落の地、秘境感漂う古民家宿を訪ねる
「限界集落」というネーミングの由来になったのが、四国地方の中山間地域だ。大野晃・高知大学名誉教授が提唱した概念で、65歳以上が半数を超え、もはや集落の機能が維持できない危機的状況のことを指す。フィールドワークで訪ね、このエリアの現状を訴えるのに、過疎化よりも強い言葉として使ったそうだ。
その中でも、大野氏が最初に限界自治体と定義したのが高知県大豊町。現在の大豊町は、東京23区の半分程の広さに人口約3,000人が暮らし、半数以上が65歳以上だ。面積の約93%が山林で、平地が少ない。
そんな大豊町に東京から移住して古民家宿を営む安達大介さん家族を訪ねた。移住したのは約10年前。コロナ禍の今は、ターゲットを日本人客にシフトして、売り上げを維持しているそうだ。
高知市から車で国道32号線を北上し、安達さんから指定された吉野川に沿った待ち合わせスポットにたどり着いた。そこから、安達さんの軽トラックに先導してもらいながら、車1台がやっと通れるぐらいの細い道を進み、急激な坂をのぼる。すると山の中腹ぐらいに永渕地区という小さな集落が開けてきた。まるで秘密の集落のように、下からは一切見えない。一番手前に安達さんの古民家宿「みちつじ」が、山の斜面に佇む。
数日前、寒波が日本列島を覆った際に、この大豊町にも雪をもたらしていた。南国土佐では、この周辺にのみ雪が降り、坂道ではスリップしないかと冷や冷やであった。
子育てを目的に、東京から家族で四国の山奥に移住を決意
安達さんが、ここに東京から移住してきたのは、2012年の12月だった。当時の大豊町の人口は、約4,500人だったという。既に空き家も多かった。
移住の理由は、子育てを自然豊かな田舎でしたかったからだ。そのころ住んでいた東京の大田区は、京浜工業地帯の一角にあり、自然環境に乏しい。安達さんと妻の佑実子さんはともに岡山県の生まれで、高校卒業後、上京してから知り合った。結婚後は長男を授かり、子どもにも自分たちのように自然の中でのびのびと育ってもらいたいという思いを抱くようになり、東日本大震災をきっかけに移住を決意。
たまたま佑実子さんのお姉さまが、大豊町を流れる吉野川でリバーラフティングのインストラクターをしていて、その縁で何度か訪ねたことがあった。吉野川は、四国三郎と言われる全国でも有数の暴れ川で、高知県を水源に徳島県へと注ぐ大河だ。高知県では、リバーラフティングのメッカでもあった。
そんな折、現在の物件に一目惚れ。リバーラフティングを山の上から望む場所にある。崖下の川の眺めが素晴らしく、夏場のシーズンになると、黄色いゴムボートからキャーキャーと歓声が谷に響き渡るそうだ。実際に私も、庭から下を覗き込むと、足がすくんでしまいそうなほど急峻の谷が見えた。
廃屋の古民家をDIY。8ヶ月がかりで復活
宿の間取りは、窓側にゲスト用に二間あり、その奥に小さなフリースペースがある。いずれも高い天井で、壁はピンク色の土佐漆喰の土壁だ。玄関は土間になっていて、そのまま台所につながっている。さらに居間があって、薪ストーブが赤々と火をたたえていた。思わず外の雪でかじかんだ手を温めた。
家主さんから借りた当時は廃屋そのもので、人が住める状況ではなかったという。(その後、安達さんが購入している)
安達さんは、もともと建築関連の仕事をしていたので、廃屋の建物であっても、何とかなるという自信があった。当初からここでは、宿を生業にしようと考えていたそうだ。吉野川でのリバーラフティングが盛んな夏場は、宿が少なくて困っているという話を聞き、ニーズが見込めると考えたのだった。
ところで、改修工事では、先代の家主さんの残置物処分が大変だったという。空き家になってから長い年月が過ぎていて、トイレ跡には古い電化製品が捨てられていた。お姉さまの旦那さんにも手伝ってもらいながら、軽トラックに積み込んで、廃棄物処理をしていった。奥の部屋が一番まともな状態だったので、そこに家族が滞在できるように最初に取り掛かった。
資材は、廃材をもらってきたり、車でホームセンターを訪ねて新しく購入。また、なるべく前の家の雰囲気も残せるように、バランスを見ながら土佐漆喰を塗った。離れ小屋の五右衛門風呂は半年がかりで作ったそうだ。
最初の約8ヶ月間は、宿の開業にたどり着けずに、地元の手伝いをしながら生活費を稼いでいた。柚子の収穫の手伝いでは、木のトゲにチクチク刺されることも多かった。このあたりは、鹿肉などジビエも盛んで、その加工場でのお手伝いをしたところ、ジビエの知識ばかりか肉をさばく技術も身に付いた。この経験はその後の宿のメニューにも活用されていて、夕食にジビエ肉が出るのだ。ちなみに安達さんは罠を設置する狩猟免許を取得し、今後は鉄砲の資格取得も検討中だとか。
なぜ山の中腹に、かつて人が多く暮らす集落があったのだろうか
この古民家宿は、コロナ前には多くの外国人旅行者を受け入れてきたが、コロナ禍になって、日本人客にターゲットチェンジをして、盛況だという。人気の秘密は、安達さん家族のもてなしと古民家の魅力、それに周辺環境も見逃せない。かつての日本では、このような山の暮らしがあったのだろうと想像ができるのだ。
この界隈に人が多く暮らしていたのは、山が生活資源として活用されていたからだろう。木材としてはもちろん、火力燃料の製造場所でもあった。安達さんは、山を上がって行くと、いくつもの使われなくなった炭焼き小屋を見かける。また養蚕が盛んだった時代もあり、そのための道具が残置物の中に多くみられたそうだ。今のほとんどの柚子の畑は、養蚕に欠かせない桑の畑だったと、集落のお年寄りから聞いたと安達さん。
徒歩が中心だった車社会以前の時代、人々は吉野川まで下りることはなく、古い間道が、山の集落同士を結んでいた。対岸の山にも中腹に集落が見える。谷底だと日当たりが悪いが、山の中腹は日当たりが良い。近代になって川沿いに鉄道ができ、さらに車社会になって国道ができ、川沿いが暮らしの中心に移っていった。
集落は急斜面のため、畑も崖にある。だからこの地域の鍬は、普通の形状と違っていて、土を下に落とさないよう、かきあげる構造になっている。
ところで安達さんは、息子さんたちと神社脇の公民館で、地元の保存会と一緒に神楽に励んでいるそうだ。平安時代末期に京都から伝わったとされる永渕神楽で、国の重要無形民俗文化財に指定されている。伝統的な舞は代々受け継がれてきたが、子どもが少ないこともあって存続の危機にあり、そこで安達さん家族が仲間に加わった。以前、外国人のゲストも一緒に参加したところ、その体験に感動していたそうだ。
変化に寄り添いながら、山の暮らしを大切にしていきたい
かつて多くの外国人旅行者が訪れ、その中で最も多いのが欧米人で、やはり秘境好きな人が多かった。次いで、アジアからのゲストだ。県境を越えて徳島県側に大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)や祖谷渓(いやだに)があり、人気の観光地になっていた。そこから山を越えて、高知県側に抜けるコース上に大豊町があり、立ち寄ってもらえたのだろうと安達さん。皆、昔ながらの暮らしに感動していったそうだ。
しかし、コロナ禍で客足はぱったりとなくなり、代わって日本人客を受け入れるようになった。以前は、1日2組を迎え入れていたが、コロナ後は1組限定にして、1泊の料金を上げて販売した。安達さん夫婦も「これまで忙し過ぎたのでペースダウンできる」と前向きにとらえている。日本人客向けの予約サイトに掲載したところ、多くの申込みが入ってきて、連日、盛況となった。年代に偏りはなく、年配者から若い人までさまざまで、カップルが多かった。海外に行けない状況だから、このような秘境も注目されるのではないかと安達さん。
また、リピーター客も多く、安達さんのお子さんと同年代の子どもがいる家族がよくやってくる。田舎の親戚の家に遊びに行く感覚なのだろう。
佑実子さんは、音楽大学の出身で、フルートを演奏する。コロナが落ち着けば、アンサンブルの演奏会を開催したいという抱負を持っている。この谷にフルートの音色が響き渡るのが楽しみだ。
子どもたちも大きくなり、大豊町で生まれた次男は小学校の低学年。そして東京で生まれた長男は、小学校の高学年だ。子育てという観点では、大満足だと安達さん。しかし、子どもが大きくなるにつれ、悩ましい部分もあるという。例えば長男は、最新のゲームや音楽、ファッションにも興味を持つようになった。そうなると、ここは田舎過ぎる。自分も若いころは都会に憧れて東京に出たので、その気持ちもわかる。町内には高校がないので高知市内などでやがて下宿が必要だろう。しかし、いつか都会に出て、ここの素晴らしさに気づいてもらえたらうれしいと最後に締めくくった。
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