標高736m 。”天空の里” に建つ農家民宿

静岡県浜松市。
市の中心地から車で約2時間、さらに町の中心からくねくねと曲がりくねった山道を30分ほど登ると突然視界が開け、壮大な景色が広がる。ここが“天空の里”と呼ばれる大沢地区だ。

訪れたのは静かな集落。一軒の農家民宿が秘境の宿として注目を集めているという。

「何もないでしょ。あるのは自然だけ」
と笑顔で迎えてくれたのは『農家民宿 ~時忘れの家~ほつむら』主人の藤谷幸生(さちお)さん。

確かに……何もないし、携帯もつながらない。ただ、目の前に絶景だけが広がっている。
標高736mから見渡す景色は清々しく、雨のあとには雲海や虹が眼下に広がることから、“浜松のマチュピチュ”と呼ぶ人もいるのだとか。

藤谷さんが築150年の木造一軒家を改修し、民宿を開業したのが2013年。
1戸1日1組限定・完全予約制で、週末や年末年始はほぼ予約で埋まってしまうという。

静かな山間にひっそりと佇む大沢集落静かな山間にひっそりと佇む大沢集落

築150年の木造一軒家を一人で改修

【写真上】ほつむら外観<br>「ほつむら」とは、集落で使っていた藤谷家の屋号。ちなみに「ほつ」とは出っ張った場所のことを指す方言。村の長を務めていた藤谷家が集落の一番出っ張った場所に家を構えていたことから「ほつむら」と呼ばれてきたのだとか。<br>【写真下】民宿の囲炉裏部屋。傷んだ床や壁板の張り替え、照明の設置などもすべて藤谷さんの手によるもの。奥にはステージまであり、カラオケ設備も整っている
【写真上】ほつむら外観
「ほつむら」とは、集落で使っていた藤谷家の屋号。ちなみに「ほつ」とは出っ張った場所のことを指す方言。村の長を務めていた藤谷家が集落の一番出っ張った場所に家を構えていたことから「ほつむら」と呼ばれてきたのだとか。
【写真下】民宿の囲炉裏部屋。傷んだ床や壁板の張り替え、照明の設置などもすべて藤谷さんの手によるもの。奥にはステージまであり、カラオケ設備も整っている

10畳半の囲炉裏部屋と12畳半の畳部屋、山に向かって間口を大きく広げたリビング。田舎のこぢんまりした民宿というイメージを持っていたのだが、想像以上に豪快な造りに驚いた。磐田市にある自宅と往復しながら、ほぼ藤谷さん一人で5ヶ月間かかって改修し開業にこぎつけたという。

そもそもこれといった観光資源がないこの場所で、なぜ民宿を始めたのか。

実は宿の隣は藤谷さんが生まれ育った実家。
「定年退職をきっかけに実家に戻ってみたら、この辺は年寄りばかりになってしまっていてね。なんとかしなければと思ったのがきっかけです。よその人に来てもらうために何をしたらいいかなぁと考えついたのが民宿。実家の隣が空き家になってずいぶん放置されていましたから、これを有効活用してみようと思ったんです」。

市内の大手バイクメーカーに勤め、在職中には、古い部品を集めて作った工作機械で特許を取得するなど、モノづくりが得意な藤谷さん。壁や床、囲炉裏端の張り替え、かまどや薪焚き風呂も使えるように修繕し、空き家は見事に民宿として命を吹き返した。

農村ならではの体験がここでの目玉

かまど(写真左)や薪で焚くお風呂(写真右)は、もともとここにあったものを使えるように整備。使い方は藤谷さんが教えてくれる。「テレビとか映画でしか見たことのない人が多いみたいで、喜んでもらえるんですよ」かまど(写真左)や薪で焚くお風呂(写真右)は、もともとここにあったものを使えるように整備。使い方は藤谷さんが教えてくれる。「テレビとか映画でしか見たことのない人が多いみたいで、喜んでもらえるんですよ」

民宿は基本素泊まり。部屋には
「何事も体験・セルフサービスでお願いします」
と張り紙がされている。食事は原則、材料持ち込みの自炊。宿泊客はかまどを使ってお米を炊き、薪でお風呂を沸かす。つまり普段できない体験がここでの売りなのだ。

農業体験もそのひとつ。このあたりではジャガイモやトウモロコシの在来種を栽培しているが、宿泊客はこれらを収穫したり、採れた野菜でこの地方伝統の料理を作るといった体験ができる。

「このあたりでは、ジャガイモを掘り起こすときは鍬じゃなく“ほぐせ”という竹の棒を使うんです。急斜面で鍬を使うとジャガイモが転がっていっちゃうもんでね。めずらしい道具だしゴロゴロとジャガイモが出てくるもんで、みんな面白がって手伝ってくれるんですよ。
集落に人がたくさんいた時代は、“結い” といって、隣同士で収穫を手伝ったり共同作業をする仕組みがあったけれど、もうみんな80歳過ぎてそれもなかなかできなくなりました。収穫作業は重労働。遊びに来た人たちが手伝ってくれるのはありがたいし、農業を知らない子どもたちが収穫を楽しんでくれることが嬉しい」

宿泊客だけでなく地元小学校の子どもたちの農業体験も受け入れている。
「お客さんや子どもたちの声が聞こえると、集落の人たちも『にぎやかでいいねぇ』と言っています。みんな気持ちが明るくなっていると思いますね」

500年続く集落。「ふるさとの風景を残したい」

藤谷さんによると、集落の歴史は500年にも及ぶという。ろくろを使って木の器を作る“木地師”がルーツで、良質な木が採れるこの山を気に入って住み着いたことが始まりだとか。山の急斜面に切り開いた土地では食べ物などの収穫が限られるため、8世帯以上は住んではいけないという習わしがあり、集落の人口をある程度一定に保ってきた。5、60年ほど前までは50人くらいが住んでいたが、現在は4世帯5人にまで減少し、今は70歳の藤谷さんが働き頭、あとは80歳を超える高齢者となっているという。

民宿の開業で集落が活気づいたとはいえ、集落の機能維持・存続という面では切迫した問題を抱えているのは明らかだ。

国土交通省の「過疎地域等条件不利地域における 集落の現況把握調査の概要」(2016年9月)によると、集落の人口に占める高齢者(65歳以上)の割合が50%以上となっているのは15,568集落にのぼり、そのうち801集落では高齢者割合が100%、つまり集落住民全員が65歳以上の高齢者となっているという。藤谷さんが住む大沢地区もそのひとつだ。

「ふるさとがなくなってしまうのは寂しいし、この風景を残したい。何もないと言ってるだけではいかんからね。なけりゃないなりに、何か考えないと」と藤谷さんは話す。

「ほつむら」の主人・藤谷幸生さんとペットの「すもも」。写真のベンチはテレビ番組の収録で訪れたお笑い芸人が手作りした「天空の癒しベンチ」「ほつむら」の主人・藤谷幸生さんとペットの「すもも」。写真のベンチはテレビ番組の収録で訪れたお笑い芸人が手作りした「天空の癒しベンチ」

ふるさとへの想いともてなしの心で集落に名所を作り続ける

民宿から5分ほど登った場所にある集落唯一の神社「正八幡神社」の宮司も務める藤谷さん。
"何もない" が売りではあるが、訪れた人に思い出を作ってもらいたいと、藤谷さんは神社に「天空願いの鐘」を作った。

民宿の敷地内には露天風呂も手作りした。
雨天でも楽しめるようにと開閉式の屋根まで作った手の込んだものだ。すべて譲り受けたものや廃材を利用して作っているというから驚きだ。

昨年からは、不定期営業ではあるが民宿の隣の空き家を使ってカフェもスタートさせた。
「テレビやインターネットを見てふらっと来てくださるお客さんもいてね。宿泊しないからといって何もなしで帰らせるのは申し訳ないし、お茶やお菓子でも出せるようにしようと始めたんです」。
トウモロコシを使ったきび団子やクッキー、大豆を煎ってそば粉で丸めた「とじくり豆」など、集落で採れる在来作物を使った伝統の味を提供している。

さらに今後は、閉鎖したお茶工場の屋根を改修したいと考えているそう。
「周りは真っ暗ですからね。満天の星がそれはもう綺麗に見えるんですよ。屋根に寝転んで星空を眺められたら最高でしょう」

訪れた人に楽しんでもらいたいというもてなしの心、ふるさとを残したいという想いで藤谷さんは集落に名所となる場所を作り続けている。


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“何もない” けれど、そこには藤谷さんのふるさとへの想いがある。

便利すぎる世の中で暮らす現代人にとっては、携帯もパソコンも使えない、コンビニもない、何もないこの場所は、かえって贅沢なものに感じられるかもしれない。慌ただしい生活に疲れたら、「時忘れの家」で時間から解放され、“何もない贅沢”を味わってみるのもいい。


【取材協力】
「農家民宿 ~時忘れの家~ ほつむら」
静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家6140
053-987-3802

【写真左】「天空願いの鐘」。神社で短冊に願いを書いてから鐘を鳴らす。<br>【写真右上】民宿の隣にあるカフェ。中には昔の家具や電話、農機具などが展示されていて、博物館のような雰囲気。客は縁側のちゃぶ台やカフェの前に作られたテラスで景色を楽しみながらのんびりできる。<br>【写真右下】目の前に麻布山を望む藤谷さん自慢の絶景露天風呂。浴槽の回りも手の込んだ装飾がなされ、石造りの庭園のような雰囲気が漂う(利用料別途¥500)。<br>◆「名所も何もない」とは言うが、数年かけて作ってきた藤谷さんの想いのこもったおもてなしスポットが集落のあちらこちらに完成している【写真左】「天空願いの鐘」。神社で短冊に願いを書いてから鐘を鳴らす。
【写真右上】民宿の隣にあるカフェ。中には昔の家具や電話、農機具などが展示されていて、博物館のような雰囲気。客は縁側のちゃぶ台やカフェの前に作られたテラスで景色を楽しみながらのんびりできる。
【写真右下】目の前に麻布山を望む藤谷さん自慢の絶景露天風呂。浴槽の回りも手の込んだ装飾がなされ、石造りの庭園のような雰囲気が漂う(利用料別途¥500)。
◆「名所も何もない」とは言うが、数年かけて作ってきた藤谷さんの想いのこもったおもてなしスポットが集落のあちらこちらに完成している

2018年 10月10日 11時05分