関所のあった江戸時代でも、庶民の参拝の旅は制約が少なかった
死ぬまでにお参りしたい神社やお寺はあるだろうか。
現代でも、「いつかは行ってみたい」と夢見るような寺社や土地がある。現代のように電車や飛行機、自動車がなく、江戸時代は関所が設けられており、人の移動が厳しかった。そのような時代であれば、なおさら人々にとって、憧れる遠くの寺社参拝は夢であった。
その中でも、伊勢神宮に参る伊勢詣、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を参詣する熊野詣、金毘羅宮に参る金毘羅詣は昔から多くの参拝客を集める。
ところで、近世に至るまで、江戸時代には土地をまたがる関所を出入りするのは大変だった。移動が制限されていたわけだが、実は、寺社の参拝は許されることが多かった。だから人々は、伊勢や熊野三山、金毘羅宮などの神社や、善光寺や東西本願寺などの寺院へのお参りを口実に旅をした。
たとえば江戸から伊勢までなら片道15日以上かかる長旅だから、それなりの準備は必要だったが、道中で親切にもてなされたから、大金を用意する必要はなかったようだ。
参拝の旅での施行所の役割と御師(おんし)の役割
奈良県王寺町の「お蔭参り施行覚帳」などの資料によれば、施行所では握り飯や茶だけでなく、金銭までがふるまわれていたという。施行所とは、旅人の休憩場所のようなもので、街道筋など、ほとんどすべての交通の要衝に設営された。施行所は、信仰の旅をする人たちへの施しの意味だけではなく、村の中へよそ者を入れないための措置でもあった。
参拝の旅は、神社からの働きかけでもあった。戦乱の時代、各地の神社は兵火で荒れ、社殿を維持するのも難しいほどだった。そこで伊勢の御師が各地で札や暦を配り、参拝客を集めることでその恩恵を社殿の維持などに還元した。
御師(おし、おんし)とは、所属する寺社に人々を案内し、宿泊などの世話をしたり、祈祷や神楽で神との仲立ちをしたりする人たちのこと。特に伊勢神宮では「おんし」と呼ばれている。現実的には、札は御師などから配布されたのだろうが、庶民は「伊勢の札が空から降ってきた」とありがたがり、神祭りをした。そしてこれをきっかけとした伊勢詣を「お札詣」と呼んだ。
江戸時代末期に起きた「ええじゃないか騒動」では、各地の社寺の札が降ったとされる。
当時、伊勢の神様のおかげで誰でも伊勢詣の旅ができるというので、旅人にはありがたがられたため、伊勢参りを「おかげ参り」とも呼ぶのだ。
時代に限らず人々が目指した、別格扱いの伊勢神宮への伊勢詣
東方から熊野詣をする際、伊勢路を通ると便利だったこともあり、伊勢神宮を参拝する伊勢詣は中世から盛んだった。
戦乱の世には、人々は極楽往生を祈って伊勢神宮に参拝した。戦国期に一向一揆が盛んだったのも、現世での幸福をあきらめ、仏のために命を落とすことで極楽に生まれ変われると信じたからだ。庶民にとって、戦乱の時代は生きづらかった。
しかし、江戸時代になって世の中が落ち着くと、人々はレジャー気分で伊勢詣に出かけるようになる。
やじさん・きたさんの珍道中で知られる、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』は、弥次郎兵衛と喜多八の二人が、妻との死別や仕事の解雇など、不運続きな日々から逃れようと伊勢詣をめざすところから始まっている。
上方落語の『伊勢参宮神乃賑』は、喜六と清八が大坂からを伊勢を目指す一連の噺(はなし)で、「こぶ弁慶」「七度狐」などがある。長旅ではあったが、江戸時代の伊勢詣は娯楽や気晴らしのレジャーとして人々の憧れであった。
伊勢詣は、その扱いも別格であった。
例えば、店の使用人が主人に黙っていきなり伊勢詣の旅に出かけても、伊勢に詣でた証拠のお土産や札を見せれば許さねばならない風潮があったという。そのため、主人の許しを得ずに伊勢詣をする使用人もたくさんいた。伊勢詣を「抜け詣」とも呼んだのは、主人に黙って仕事を抜け出したからだとも、関所を正式に通らずに抜けられたからだ、ともいわれる。
伊勢詣の後、熊野や金毘羅宮、安芸の宮島などを周遊する旅人も少なくはなかったようだ。
『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛と喜多八も、伊勢詣を済ませたあとも京都や大坂を見物し、金毘羅宮、宮島、善光寺、草津温泉と旅を続けている。
浄土往生を願う熊野詣。熊野は、よみがえりの地とされていた
熊野詣といえば、説教節の『小栗判官』を思い出す人もいるかもしれない。自らの業で重病に罹り、ミイラのようにひからびてしまった小栗判官が、妻の照手姫や参拝者たちの力を借りて熊野の湯までたどり着き、息を吹き返すという物語だ。
熊野の湯は病を治すと信じられ、重病人たちは治癒を求めて熊野を目指した。しかし病人が歩いて旅をするのは困難なので、縄をつけた土車(大八車の原型)に乗り、リレー式に参拝者に引いてもらい、熊野を目指したという。
病人の車を引けば功徳があると信じられたので、体力のある参拝者はこの苦行を引き受けたのだ。小栗判官のエピソードから、当時の熊野が蘇りの地とされていたことがわかるが、熊野には黄泉の国(根の国)があると信じられていたのがその理由だろう。
『日本書紀』や『古事記』にあるイザナギとイザナミの息子のスサノオは、イザナミが火の神を生んだやけどがもとで命を落とすと、「母の国(黄泉)」に行きたいと泣きわめき、結果的に高天原を追放される。その後彼は出雲へ向かうので、出雲にも黄泉の入り口とである黄泉比良坂の伝承地があるが、イザナミの墓だとされる花の窟は熊野にある。物語によると、スサノオは、木の種を持って熊野を訪れ、永遠に留まったといわれ、熊野本宮の祭神であるケツミコは、スサノオの別名だとされている。
また和歌山は古く「紀の国」と呼ばれたが、本来は「木の国」だ。さらに、平安京から見た熊野は午の方角に位置する。陰陽道において午の方角は、子宮を意味するとされた。熊野は一旦死んだ後、新たに生まれ変わる場所だと解釈できる。
仏教の教えが広がると、公家や武家はもちろん、庶民にいたるまで極楽往生を願った。
仏の浄土へ往生する方法として、ごく乱暴なものに「補陀洛渡海(ふだらくとかい)」がある。
補陀洛とは観音の浄土で、弥勒菩薩の極楽浄土とは別物だが、観音菩薩が統べる清らかな世界で、南洋にあると信じられていた。だから、船で南を一心に目指せば、補陀洛へたどり着くと考えられたのだ。
渡海船には、目的が往生するためだったから、食べ物はのせられておらず、船出の際に出口に釘が打たれて脱出不可能だったというから、ほとんどの渡海者が命を落とした。
日本各地から補陀洛渡海船が旅立ったが、その半数以上が熊野那智にある補陀洛寺からの船出だったという。その、最古の記録は868年だ。熊野は神道でいう黄泉の国とも、仏教の観音浄土とも関係が深い場所であったといえる。
熊野詣をする人たちには浄土往生への祈りがあった。
宇多法皇が907年に御幸して以降、白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇、亀山上皇らが熊野詣を繰り返し、それが庶民にまで広がったとされる。人々が列を作るようにして参詣したことから「蟻の熊野詣」とも呼ばれたが、戦乱のない江戸時代には参詣者が減少した。
清水の次郎長親分の代参で、森の石松も参った「金毘羅さん」
江戸時代、京都六条にある東西本願寺とならび「丸金か京六か」と参拝客を集めたのが、「こんぴらさん」で知られる讃岐丸亀に鎮座する金毘羅宮だ。四国にあるから、瀬戸内海の船旅ができるのも魅力だっただろう。
1847年に刊行された暁鐘成によるガイドブック『金毘羅参詣名所図会』には、牛窓港や満濃池など、旅程の名所が詳しく紹介されている。
浦川公佐の挿絵も入っており、金毘羅詣をする人の参考になったようだ。ただし金毘羅宮についての解説はなく、周辺の名所の歴史や見所、金毘羅宮からの道程などが説明されている。たとえば、「多度の津は丸亀の船着き場から一里少し西にあり、ここから金毘羅山へは三里ある」と説明されている。さらに「船の便がよく、宿屋が並び、酒や煮物を食べさせる店、饂飩や蕎麦、甘酒などを売る人々の往来が絶えない」と説明があり、金毘羅詣が栄えていたことを裏付けている。
しかし金毘羅宮は伊勢よりもさらに遠く、旅をするのも大変だったため、代理をたててお参りさせた人々もいた。
清水の次郎長親分の代参で、森の石松が金毘羅宮に参り、刀を奉納したことが知られている。犬が代理を務めることもあり、「金毘羅戌」と呼ばれた。代理の犬には、飼い主が誰かわかる木札と道中の食費、お賽銭を入れた「こんぴらまいり」と書かれた袋を首にかけているのでそれとわかる。金毘羅参りをする人々は、代わる代わる犬を連れて旅をし、犬の世話をしたという。
現代では、新幹線や飛行機、自動車を使えば、さほど苦労をせず各地の社寺に詣でることが可能だ。
しかし、徒歩で少しずつ目的地に近づく旅は、今よりもなおワクワクしたに違いない。伊勢・熊野・金毘羅……歴史ある三宮にお参りするときは、ゆっくり時間をとって、昔の人々の願いにも思いをはせながら、お参りしてはいかがだろうか。
■参考資料
かまくら春秋社『日本人の原風景Ⅱ お伊勢参りと熊野詣』池田雅之・辻林浩編修 2013年10月7日初版発行
株式会社歴史図書社『金毘羅参詣名所図会』暁鐘成著 昭和55年1月31日発行
株式会社春秋社『シリーズ日本人と宗教-近世から近代へ 第四巻 勧進・参詣・祝祭』島薗進・高埜利彦・林淳・若尾政希編 2015年3月20日第1刷発行
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