明治時代の炭鉱王で安川財閥の祖、安川敬一郎が暮らした邸宅
北九州市戸畑区の、緑豊かな丘陵に建つ史跡「旧安川邸」の一般公開が、2021年3月に始まった。明治から昭和初期にかけて建てられた、和洋混在の邸宅建築と、広大な庭園がみどころだ。かつての所有者である安川電機から北九州市に委ねられ、市が公園として整備した。
「旧安川邸」は、かつて「筑豊御三家」と呼ばれた炭鉱王の一人、安川敬一郎(1849~1934)の住まいだ。
三男で安川電機初代社長の安川清三郎、孫で安川電機三代目社長の安川寛までがここに住んだ。安川家は炭鉱や安川電機の創業だけでなく、港や鉄道の整備、明治専門学校(国立大学法人九州工業大学の前身)の創設と、北九州の近代化に大きく貢献した。世界遺産・官営八幡製鐵所の設立にも深くかかわっており、その誘致の最初の会談は、旧安川邸に残る「大座敷」で開かれたという。
明治時代に港町若松から移築された大座敷
旧安川邸で最も古い建物「大座敷」は、明治45(1912)年に現在の北九州市若松区から移築された。若松は当時石炭の積み出し港として栄えたまちで、安川敬一郎はその築港に尽力している。前述の製鐵所誘致会談は、大座敷がまだ若松にあった、明治29(1896)年に行われた。移築後の大正2(1913)年には中国の革命家・孫文が訪れており、大座敷を背景に安川一族と並んで写る記念写真が残っている。
大座敷は、床の間のある15畳の「大座敷」と10畳の「次の間」の二間続きで、その三方を一間幅の縁座敷が取り巻く。格式の高い書院造りを継承しており、接客の場として使われたのだろう。続き間の畳の下には「拭板(ぬぐいいた:表面を滑らかに仕上げた板)」が張ってあり、能や狂言の舞台にも使えるという。
大座敷の北側は庭園に面し、濡れ縁の前に巨大な沓脱ぎ石が置かれている。外から見ると、大屋根の下に庇が重なる広壮な建物だ。
大座敷の移築と同時(明治45年)に建てられたのが、敷地の奥に並ぶ2つの蔵だ。2つとも石貼り風の壁に切妻屋根で、形も大きさもそっくりだが、実は構造が異なる。北側にある蔵はレンガ造で、外壁に本物の石を貼っている。一方、南側の蔵は、これまで木造と考えられていたが、2018年に市が耐震補強のための調査を行った際、鉄筋コンクリート造であることが判明した。西日本では最初期の鉄筋コンクリート造建築ということになる。外壁は、仕上げのモルタルに目地を切って石貼り風に見せたものだ。
2つの蔵は今後、安川家ゆかりの品などを展示し、旧安川邸の歴史をしのぶギャラリーとして整備される計画だ。
大正デザインの「洋館」は、1階に座敷を持つ個性的な建物
大座敷の東に建つ「洋館」は、大正15(1926)年に起工、昭和2(1927)年に完成した。安川敬一郎が清三郎に家督を譲ったあとの隠居所として、もとあった和風建築を建て替えたものだ。敬一郎は昭和9(1934)年に亡くなるまでここに住んだ。
この「洋館」、正面こそ洋風だが、裏手に回ると1階に和風の座敷が取り付いている。縁側の上に白壁の2階が載った、和洋合体の不思議な建物だ。図面によれば、室内は洋間が中心だが、2つある居間はどちらも畳敷き。江戸時代末期に武家に生まれた敬一郎翁が、古来の生活様式にこだわったのだろうか。
実は旧安川邸ははじめ、“東京駅の建築家”辰野金吾による華麗な洋館として計画されたにもかかわらず、和風建築に変更された経緯があるのだ。
昭和レトロな洋館の名残、大きな瓦屋根の「本館棟」
正門を入って正面にある洋風の本館棟は、昭和12(1937)年に敬一郎の孫・寛が建てた洋館の一部だ。安川邸は戦後、昭和27(1952)年までアメリカ軍に接収されており、その後、安川家は別の場所に生活の拠点を移した。この洋館は長く使われないまま、昭和51(1976)年に大半が解体されている。
現存する「本館棟」はモルタルの外壁に瓦葺きの屋根を深く差し掛けている。スレート葺きで浅い屋根の「洋館」とは異なる趣だ。内部には玄関に続く書生室や応接室が残っていて、往時の暮らしを想像させてくれる。
製鉄にまつわる材料で、失われた建物の間取りを描く
本館棟の西側に続く広場は、解体されてしまった洋館の間取りをなぞったものだ。壁や床のアウトラインは、製鉄にかかわる多様な素材で表現されている。庭園の整備を手掛けた北九州市建設局みどり・公園整備課は「鉄板に成型する前の、柱状の鉄や、溶鉱炉などに用いられていた耐火レンガ、その材料の硅石などを使いました」と解説する。「ほか、コンクリート目地にかつての大座敷の瓦を再利用したり、現地の赤土をセメントに混ぜて舗装したりと、以前からここにあった素材を継承しています」
明治の大座敷前の庭園は、古い図面に基づいて再現
建物群を挟んで北側にある大座敷前庭園は、主の不在で荒れており、昭和10(1935)年時点の敷地配置図を参照して造り直したという。「図面からは、広場が芝生だったのか砂利敷きだったのかまでは分かりません。地面を少し掘り下げてみて、砂利の痕跡がないことから芝にしました」(北九州市)。
図面に描かれた水路のような部分も、実際に水が流れていたかどうかははっきりしていない。「配管も見つかっていませんが、滝石組みの下に洗掘された形跡がありました。そこで、今回の整備でも、水を流せる構造にしています」(北九州市)
斜面にはもともとツツジが植わっていたそうで、わずかに残っていた株を生かしながら、同じ色合いの花が咲く、新しい株を植え足した。元通りに育つまでは、あと3年ほどかかるそうだ。
図面には水路のそばに謎の四角形が描かれており、何かの構造物があったらしい。その大きさから四阿(あずまや)か茶室と想定されるが、詳細は不明だ。「明治の大座敷に向かい合う位置にあたるので、新しい木の四阿を建てても見劣りしてしまいます。そこで、木漏れ日を透かし、周りの緑を映す、ガラスとステンレスの四阿を建てました」(北九州市)
隣は安川敬一郎の次男・松本健次郎の邸宅。辰野金吾による国の重要文化財
北九州市の近代化を牽引した安川家の邸宅は、改築による変化も含め、企業家の暮らしや住宅様式の移り変わりをしのばせる、貴重な史跡だ。北九州市は2018年8月に旧安川邸の建物群と付属の外構や家具を市の有形文化財に指定、21年3月に敷地全体を隣接の夜宮公園の一部に組み入れて都市公園とした。
本来なら、20年度には常時公開を始める予定だったが、コロナ禍に見舞われ1年延期を余儀なくされた。21年度いっぱいは、毎月数日の公開に限定し、電話で見学予約を受け付ける。敷地内には厨房に使える新築棟が完成しており、22年度には食事も楽しめる史跡として、常時公開を目指している。
旧安川邸が組み入れられた夜宮公園は、春は桜、初夏は花菖蒲の名所として知られる。さらに旧安川邸の庭園では、新たに藤を育てており、障壁画のような、平面の藤棚を計画しているという。晩秋には紅葉も楽しめるそうだ。
旧安川邸の隣には、国の重要文化財・旧松本邸(西日本工業倶楽部)がある。安川敬一郎の次男・松本健次郎の邸宅で、旧安川邸と同時期に計画されたものだ。旧安川邸では辰野金吾設計の洋館は幻に終わったが、こちらには辰野によるアール・ヌーヴォーの館が実現している。現在は結婚式などに使われているので常時見学はできないが、予約すれば食事の利用が可能だ。
また、近くには敬一郎が設立した明治専門学校(現・九州工業大学)のキャンパスがあり、こちらには辰野の事務所が手掛けた正門と守衛所が残る。
旧安川邸が改修・公開されたことで、一帯の史跡的価値は、さらに高まったといえるだろう。
旧安川邸について(北九州市HP):
https://www.city.kitakyushu.lg.jp/kensetu/05900165.html
参考文献:「安川家住宅―北九州の近代化を支えた安川家の住宅史」日隈康喜著 西日本新聞社















