総理経験者8人が住んだ大磯

明治記念大磯邸園の入り口は東海道の松並木の続く一角にある明治記念大磯邸園の入り口は東海道の松並木の続く一角にある

江戸時代に東海道8番目の宿場町として栄えた神奈川県大磯町は明治に入り、行楽、療養、保養の地として多くの人たちに愛されてきた。しかも、そのなかには政治家、財界人も多かった。特に大磯の名を高めたのは初代の内閣総理大臣であり、大日本帝国憲法を起草した伊藤博文以下、8人もの総理経験者が本宅、別荘などを構えたこと。「明治政界の奥座敷」という呼び名はそこから生まれた。

それから150年余がたち、かつての総理経験者が構えた別荘群および庭の一部が明治記念大磯邸園として2020年11月3日に公開された。明治元年(1868年)から起算して満150年に当たる2018年に明治150年を記念したさまざまな施策が実施されたが、そのうちのひとつとして公園の設置が決定されていたのである。

公園が立地するのはJR大磯駅から歩いて約15分。大磯の観光名所のひとつでもある東海道の松並木沿いの海側で、駅から向かうと大磯中学校の並びになる。大磯中学校ももともとは3代、9代の総理大臣を務めた山形有朋の別邸小淘庵(おゆるぎあん)のあった場所。東海道沿いは総理大臣銀座のようである。

東海道沿いの石積みの塀の向こうが明治記念大磯邸。歩道を広げるため、セットバックはしてあるが塀に使われている石も基本的に以前のものを利用しているという。内部はコンクリート造だが、歴史を感じるのはそのためだ。

保存状態の良い旧大隈重信別邸、陸奥宗光別邸跡

現在公開されているのは2棟の庭園部分。エントランスから順路を進むとまず見えてくるのが旧大隈重信別邸である。早稲田大学の創設者としても知られる大隈重信は8代、17代の総理大臣を務めた。大磯に別邸を構えたのは1897(明治30)年のことで、その隣地は大隈家が代々使えた佐賀藩主鍋島家の別邸。現在はマンションとなっているが、旧大隈別邸の玄関が現在マンションがある側、西向きになっているのはそのためだと伝えられる。東向きにすると旧藩主にお尻を向けてしまうからだ。また、住宅の斜め前に蔵があるのだが、それも旧藩主邸との間の目隠しとして建てられたとも。

「伝聞が多いのは時間がたってしまい、正確なことが分からない部分があるため。この土地に関しては『伝えられている』という話が多いのです」とは国土交通省関東地方整備局国営昭和記念公園事務所大磯分室の木村佳夫副所長。

旧大隈別邸も、隣に立つ陸奥宗光別邸跡も建物は海側を向いており、かつては座敷から松林、そしてその向こうに海が見えたという。眺望を楽しむためだろう、特に旧大隈別邸は外から見るとガラス張りに見えるほど。しかも、古いガラスが使われているので微妙にゆらゆらとして見える。場所によって異なるが、手拭き円筒法、機械式円筒法という今では作れない技術で作られており、1枚だけでもかなりの価値があるそうだ。

旧大隈重信別邸。左上から時計周りに、説明の掲示、玄関、隣地を目隠しするように立つ蔵、庭から建物を見たところ旧大隈重信別邸。左上から時計周りに、説明の掲示、玄関、隣地を目隠しするように立つ蔵、庭から建物を見たところ

海水浴は娯楽ではなく、リハビリだった

庭から見た旧大隈重信別邸とかつて大隈が入っていたという五右衛門風呂。本当にこれに入れたのだろうか庭から見た旧大隈重信別邸とかつて大隈が入っていたという五右衛門風呂。本当にこれに入れたのだろうか

旧大隈別邸は玄関を入ってすぐのところに16畳、10畳の和室の続き間があり、ここは社交家だった大隈が多くの客を招いての宴会に使っていた場所。海を眺めての宴会はさぞや楽しかったことだろう。中庭を挟んで9畳、6畳の書斎として使われていた部屋があり、その背後が家族や使用人たちの部屋。全体で約388.4m2という広さだ。書斎には半分化石化した神代杉が使われている。木目が細かく美しい材で工芸品や天井板に使われるものだ。

面白いのは庭先に据えられた小さな風呂桶。大磯は1885(明治18)年に日本で初めて療養を目的として海水浴場が開かれた地なのだが、大隈は1889(明治22)年に襲撃を受けて右脚を大腿下3分の1で切断、義足を使用していた。その療養のために大磯では海水で風呂を沸かし、浸かっていたというのである。当時、風呂はもっと海に近い場所にあったそうだが、当時としてはもちろん、今にしても大柄(身長180cm!)な大隈が入るとすると、どれだけ身を縮めなければならなかったか。想像すると歴史が近づいてくる気がする。同時に当時の海水浴が娯楽ではなく、リハビリだったことにも驚かされる。

その旧大隈別邸の隣が第2次伊藤内閣で外務大臣として不平等条約の改正に辣腕をふるった陸奥宗光別邸跡。病気療養のために1894(明治27)年に大磯に土地を購入、1896(明治29)年に別邸を購入したそうで、関東大震災で大破、移築されたため、跡と表記されている。現在の住宅はその後の1930(昭和5)年に建てられた。

2棟に続いて地元の愛される伊藤博文邸、滄浪閣も整備の予定

南側に広さ、段差を利用した庭があり、かつてはそこに滝が造られていたという。画家の横山大観がその前の石に座って滝を描いたとされる絵が残されているが、ここは砂地。普通に水を流しても地面に吸いこまれてしまうため、今後、滝を復活させるべきかどうかについては検討中とのこと。

旧大隈別邸、陸奥別邸跡はともに比較的保存状態が良いのだが、それは近年まで古河電工が迎賓館として利用してきたため。陸奥宗光の次男は実業家・古河市兵衛の養子となっており、その縁で古河家が創業した古河電工の所有に。さらに古河市兵衛が旧大隈別邸を購入していたことから最終的に同社が2棟を保有することになり、その結果、これらの建物が残されてきたのである。公園設置にあたっては建物は国が寄贈を受けたという。

この2棟に続き、今後、整備が行われるのは伊藤博文が1895(明治28)年に土地を購入、翌年本邸として完成した滄浪閣である。伊藤の没後、1921(大正10)年に李王家が譲渡を受け、別邸として利用されるも、関東大震災で倒壊。建て直された後に所有が代わり、2007年(平成19)年まではホテルの別館として使用されていたもので、地元に長らく愛されてきた町の指定有形文化財である。文化財として指定されている建物は6棟あり、大正期のモダニズムの雰囲気を伝えるものとか。保存する建物以外は除去、エントランス施設を新設、さらに駐車場も造る予定がある。

旧陸奥宗光別邸跡。左上から時計回りに、玄関、庭側から、きれいに磨かれたガラス、そして庭から見上げる邸宅。玄関に掲げられた扁額には聴漁荘とある旧陸奥宗光別邸跡。左上から時計回りに、玄関、庭側から、きれいに磨かれたガラス、そして庭から見上げる邸宅。玄関に掲げられた扁額には聴漁荘とある

建物整備に続く課題は公開・利用方法

上は再建された吉田茂邸。左側のガラスの建物は温室。下は駅のすぐ近くにある日本最古のツーバイフォー住宅上は再建された吉田茂邸。左側のガラスの建物は温室。下は駅のすぐ近くにある日本最古のツーバイフォー住宅

さらに滄浪閣の隣にも歴史的建造物がある。12代、14代の総理大臣を務めた西園寺公望別邸跡で、ここには別邸を譲り受けた旧池田成彬邸がある。池田成彬は第14代日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣などを務めた政治家、財界人で1932(昭和7)年築の鉄筋コンクリート造の住宅が残されている。昭和初期としては珍しい本格的な洋館だそうである。

建物の整備以外にも課題がある。その中でも大きいのは建物をどういう形で公開・利用していくか。現在、建物内に置かれている展示は2年前に記念公開をした際のもので、暫定的に置かれているだけ。展示にとどまらず、イベントやレクチャーなどで利用する方法も模索されているが、ガラス一枚でも貴重な建物だけに、保護しつつ利用するとなると考えるべき点は多岐にわたる。使い方のみならず、内容もせっかくの場を生かすようなものとして吟味されるべきだろう。

公園全体の面積は約6.3haと広大で、工事は2023年度まで続く予定。少しずつ建物が登場する楽しみがあるわけで、時々訪れて進捗を眺めたいところである。また、公園の整備にあたっては2020年3月に「明治記念大磯邸園 邸宅保存活用計画(案)中間とりまとめ(案)」という文書が作られている。タイトルは無味乾燥だが、内容としては建物の由来、状況、保存方針などが詳細に記載されており、実に楽しい。建築好きには一読をお勧めする。

それ以外にも大磯には多数の歴史ある建造物がある。政界つながりでいえば県立大磯城山公園には45代、48~51代の総理大臣を務めた吉田茂が晩年を過ごした本邸があり、内部も公開されている。駅の近くにある旧木下家別邸は日本最古のツーバイフォー住宅で関東大震災にも耐え、現在はイタリアンのレストランとして使われている。文学好きなら文豪島崎藤村邸、西行法師ゆかりの鴫立庵も見逃せないところ。明治記念大磯邸園も含め、まちの人にガイドしてもらうツアーもあるので、問合せをしてみるよいだろう。

2021年 01月11日 11時00分