軍都ならではの、数奇な運命を体現

昭和30年代に撮影された旧旭川偕行社。荒廃している状態が分かる昭和30年代に撮影された旧旭川偕行社。荒廃している状態が分かる

旧陸軍の第七師団が設営されたことをきっかけに都市やインフラ建設が進み、産業が興った北海道旭川市。その軍都には1902(明治35)年、将校らの社交場である「偕行社」がつくられた。偕行社は明治末に全国で19施設を数えたが、今や6つしか現存せず、多くは文化財として保護されている。西洋の意匠を組み込んだ独特の内外観が目を引く旭川偕行社は現在、「中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館」として活用されているが、120年弱の中で、何度も用途が変わったという独特の歴史を持つ。

設計は陸軍臨時建築部とみられる。明治・大正・昭和期に皇族の行啓にも活用され、その都度、改修されてきた。戦後は第七師団の解体とともに米進駐軍の司令部や将校クラブとして使われ、1949年に国から市に移管。学校や庁舎の仮施設として使われた後は利用されず、荒廃が進行。窓ガラスは割れ、鳥が棲みつき、子どもからは「お化け屋敷」と呼ばれ、地元から解体の要望も寄せられていた。

1961年ごろから市教育委員会が調査を開始。1963年に市の文化財審議会が発足したことで保存・活用の機運が高まり、1968年には復元修理工事を行い、市立旭川郷土博物館として新たなスタートを切った。

洋風建築物としての価値を取り戻し、郷土博物館に

旧旭川偕行社は国内でも珍しい洋風木造建築の2階建てで、建物の左右、前後ともに対称という特徴的なデザイン。和風との折衷で、建設当初は瓦葺きだった。彫刻美術館によると、厚めの漆喰が内外の壁に塗られ、厳寒地のため現地の石材を精巧に配置することによって丈夫な基礎をつくり上げたとみられる。

全国に建築された偕行社はその多くが本州にあるため、本州の建築技術を持ち込みながら、試行錯誤したと推測される。 同館の山本和生さんは「厳密な洋風ではなく、洋館風の造りとなったのは、近代日本が欧米諸国に追いつけ追い越せと西洋文化を学んだ時代の痕跡であるともいえます。建築関係者の並々ならぬ努力や創意工夫も残されており、北海道における洋風建築の導入の足跡も見られます。当時としては最先端の技術を導入して短期間で造られたことが分かっています」と説明する。

郷土博物館として一般に広く使うことを念頭に、1968年の工事では付属建物を撤去し、屋根の瓦葺きを冬の管理がしやすい鉄板葺きに替え、トイレの設置や防火対策を施した。また文化財への登録を見越し、外観を建築当初の姿に戻すことが計画され、2階の引き違い窓を廃止し、2階部分の玄関ポーチ屋根を半円形のバルコニーに戻すなどした。

復元された、2階の展示室からつながる半円形のバルコニー。奥には旧偕行社の前庭だった公園がある復元された、2階の展示室からつながる半円形のバルコニー。奥には旧偕行社の前庭だった公園がある

重要文化財になり、彫刻美術館へ

1989年に国の重要文化財(重文)の指定を受けた。旭川市の郷土博物館として24年間使われ、館の移転新築を受けて、1994年からは重文の彫刻美術館として生まれ変わった。

展示室は、博物館時代はコーナーごとに展示ケースを置き、間仕切りで順路をつくっていたが、それらを撤去。オリジナルの広々とした空間で内観を楽しんでもらおうと、可動式の簡易壁などで代用した。展示室の入り口付近は段差があるものの、重文ゆえに手を加えられないため、可搬式の小型スロープを置いて段差を解消している。

やがて、復元工事から数十年たつと、建物の傷みや歪みが深刻化。基礎が沈下し、床はたわみ、壁面や漆喰の塗られた天井には亀裂や剥落が生じていた。そこで2012~2017年には半解体して耐震補強をし、原状回復と機械設備更新の大規模なリニューアル工事を実施した。

軍都としての歩みを体現する歴史的・建築的な価値も広く伝えようと、旧旭川偕行社に関する資料室を新設。これまで重ねられた工事の過程で、旧陸軍の上官や棟梁ら関係者の名前が記され上棟式で取り付けられる「棟札」、瓦葺きだったころれんがの両端にのせられていた「鬼瓦」、半円形のポーチを支えるタモ材の「柱頭」などが見つかっており、展示した。

ただ、ここでも重文ならではの難しさが横たわった。

できるだけオリジナルに近い状態で活用する必要があるため、バリアフリー対応をするうえでエレベーターやエスカレーターは設置できない。そこで階段には昇降機を置き、駐車場から専用入り口に続くスロープを設けることになった。

快適性や運用効率の向上にも制約があった。冷房設備はもちろん、二重サッシもない。建物の断熱性能が高くないうえに規模が大きいため、夏は暑く、冬は暖房費が現代的な施設よりもかさんでしまう。

除排雪にも課題が大きい。本州の構造や建築技術をベースにしているため、屋根に積もった雪を効率的に落とす動線が考慮されておらず、年に数回雪下ろしをするうえに、雪置き場がないため、排雪を外注する必要がある。

その一方で、重文の大規模工事のため多くの若手左官職人が携わり、技術の伝承の場ともなった。日本漆喰協会から「第13回作品賞」(2018年)に選ばれ、「北海道を代表する歴史的建造物」「漆喰が塗られた国の重要文化財として我が国最北のもの」「120年の風雪と極寒に耐えてきた内外壁の漆喰は木摺りから40ミリも塗り重ねるという国内でも例が少ないもの」(「第13回日本漆喰協会作品賞」受賞作品集)と建築的な価値が高く評価された。

彫刻美術館の外観(左上)、スロープで段差を解消している2階展示室の入り口(右上)、重厚な階段(左下)、新設された資料室(右下)彫刻美術館の外観(左上)、スロープで段差を解消している2階展示室の入り口(右上)、重厚な階段(左下)、新設された資料室(右下)

歴史ある「彫刻のまち」の発信拠点として

建物と作品の調和が楽しめる彫刻美術館の2階展示室(上)、分館として運営される旭川駅構内のステーションギャラリー(下)建物と作品の調和が楽しめる彫刻美術館の2階展示室(上)、分館として運営される旭川駅構内のステーションギャラリー(下)

彫刻美術館にその名を冠した中原悌二郎は、1888年に北海道釧路市(当時)で生まれたがなじめず、自ら進んで旭川市へ移り、幼少期を過ごした。芥川龍之介から作品を称賛されるなど、モデルの内面まで表現する作風が評価を受け、日本の近代彫刻史に大きな足跡を残したといわれる。

美術館ではその偉業をたたえ、32年の短い生涯で残した全12作品のほか、ロダンをはじめ中原悌二郎に影響を与えた彫刻家の作品、また1970年に旭川市が創設し、「全国的にも最高の栄誉」(山本さん)とされる「中原悌二郎賞」の受賞者の作品を並べている。

市は中原悌二郎賞の受賞作を購入するなどし、50年近くにわたり、彫刻を文化発信の中核として位置づける「彫刻のまち」として歩んできた。

1972年には、全国初の恒久的な歩行者専用道路である旭川平和通買物公園に彫刻作品が置かれるようになった。市中心部や公園、広場、橋に100基ほどの彫刻があり、2002年には屋外彫刻の清掃をするボランティア「旭川彫刻サポート隊」が立ち上がった。2000年からは作家と市民が交わった公開制作やワークショップのある「彫刻フェスタ」を開催している。また旭川駅構内には、分館としてのステーションギャラリーがあり、企画展を通じて建築の価値と「彫刻のまち」の魅力を掛け合わせて発信している。

山本さんは「西洋風の造りの館内は、美術作品と建物との共演、調和も魅力です。美術館を通じた建物の価値の発見、建築物を通じた美術への関心の喚起、という相乗効果があります。彫刻を通じて文化を発信するうえで、半世紀の歩みを生かしていきたいですね」と話す。

2020年 09月06日 11時00分