王朝文化が息づく「御室」の地に開業した宿坊『松林庵』

入母屋屋根をいただく宿坊『松林庵』。外壁は杉皮や漆喰で仕上げ、改修前の佇まいを再現した。宿泊は1日1組限定(5名まで)入母屋屋根をいただく宿坊『松林庵』。外壁は杉皮や漆喰で仕上げ、改修前の佇まいを再現した。宿泊は1日1組限定(5名まで)

2018年春、ある京都発のニュースが世間をにぎわせた。世界遺産・仁和寺が、境内の旧家屋を改築して、外国人富裕層をターゲットにした一棟貸しの宿坊をオープンさせたのである。
宿坊の名称は『松林庵』。延床面積159.9m2の木造2階建て住宅を改築した古民家の宿である。この宿坊が耳目を集めた理由は、「素泊まり1泊100万円」という、その衝撃的ともいえる料金設定にあった。
なぜ仁和寺は、かくも大胆な宿泊ビジネスに乗り出したのか。仁和寺が松林庵を通じて提供する、「100万円の付加価値」とは何なのか。そして、松林庵を利用した人々の反応は――。
いくつもの疑問を胸に秘め、開業後約1年を経た現地を訪れた。

この宿坊について述べる前に、仁和寺の歴史について簡単にふれておきたい。
仁和寺の歴史は、仁和4(888)年、宇多天皇がこの寺を完成させたことに始まる。宇多天皇は出家後、仁和寺に「御室」という住房を建てて移り住んだ。これ以降、天皇家の子弟や皇族が歴代住職を務め、仁和寺は門跡寺院の筆頭として高い格式を誇ることとなる。

王朝文化を継承する仁和寺には、皇室ゆかりの国宝も多く、1994年には世界遺産に登録された。その境内の一角で、2017年9月に竣工したのが宿坊・松林庵である(利用者受け入れは2018年4月~)。
だが、その料金設定から、豪壮華麗な邸宅風の建物を想像する人は、意外の感に打たれるかもしれない。松林庵は、閑雅な佇まいを見せてはいるが、一見どこにでもありそうな数寄屋造りの建物である。風流好みの文人の旧宅風、といえばいいだろうか。
この宿坊が、なぜ1泊100万円なのか。それを解明するにあたり、まずは宿坊を開業したいきさつから、話を聞くことにした。

総工費1億5,700万円をかけ、老朽化した家屋と庭園を改修

松林庵は、もともとは仁和寺御室御所の寺侍・寺医を務めた、久富家の旧宅であったらしい。この家屋を久富家から寄贈され、仁和寺境内に移築したのは昭和12(1937)年。以来、仁和寺では僧侶の宿舎などとして使っていたが、近年は老朽化が進み、ここ10年ほどは空き家になっていた。

「ゆかりのある人からいただいた歴史ある建物だから、壊してしまうわけにもいかない。かといって、財政難の折、修復にかけられる十分な予算があるわけでもない。どういう形で修復しようかと考えていた矢先に、日本財団さんが『いろはにほん』プロジェクトを立ち上げたという話を聞き、応募させてもらうことにしたのです」と、総本山仁和寺執行・真言宗御室派財務部長の大石隆淳さんは語る。

大石さんが言う「いろはにほん」プロジェクトとは、主に「日本文化に興味を持つ外国人旅行客」を対象とした、滞在型の文化体験プログラムである。これは、原則非公開の塔頭寺院などを、1棟1組限定の宿としてリノベーションし、宿泊と文化体験をセットで提供することで、日本文化の価値を再発見してもらおうというもの。利用料の一部は、文化財や伝統技能の保護・継承に充てられるという。

仁和寺では「いろはにほん」に応募するため、若手が中心となってプログラムを検討。「松林庵を宿坊として整備し、仁和寺の文化資産を広く活用した文化体験を提供する」という構想をまとめあげた。
この提案は高く評価され、日本財団は総工費の8割にあたる助成金の交付を決定。こうして、松林庵と庭園の改修を含む、総工費約1億5,700万円の工事がスタートした。
「1泊100万円の宿坊体験」という未曽有のプロジェクトが、ついに動き出したのである。

金箔が施された、華麗な襖絵が目を引く仁和寺御殿。皇族や貴族が歴代門跡を務めた仁和寺は、王朝文化が花開いたもう1つの「御所」でもあった金箔が施された、華麗な襖絵が目を引く仁和寺御殿。皇族や貴族が歴代門跡を務めた仁和寺は、王朝文化が花開いたもう1つの「御所」でもあった

数寄屋造りの意匠をちりばめた、風雅な佇まいを再現

とはいうものの、そこは千年の由緒を誇る古刹である。「御室」の地での改修工事は、一筋縄ではいかなかったようだ。工事を担当した住友林業ホームテックの大澤康人常務は、こう語る。

「改修にあたっては、利用者の安全のため『床の段差をなくし、耐震補強をする』一方で、『使える材はできるだけ再利用し、古い建物の面影を残してほしい』というのが、仁和寺さんからの要望でした。ところが、構造を補強しようにも、境内が埋蔵文化財包蔵地に指定されているため、地面を掘り下げて基礎工事をすることができない。そこで、建物全体をジャッキアップして古い基礎を撤去し、新たに鉄筋コンクリートの基礎を作ってから、再び建物を下ろす――という難しい工事を行うことになったのです」

松林庵の1階には寝室や浴室・洗面所・トイレなどが設けられ、2階は和の風趣に富んだくつろぎの空間となっている。「茶室のある2階は、もともと遊び心のある空間。構造的に傷んだ部分を改修するにとどめ、できるだけ昔の面影を残すように努めました」
そう大澤さんも語る通り、大規模なリフォームが行われた1階と比べると、2階は古民家らしい趣のある空間となっている。茶室の網代(あじろ)天井、床の間の無双窓、茶室と水屋をつなぐ太鼓橋――数寄屋風の意匠の1つ1つに風雅な佇まいが感じられ、しばし時を忘れる思いだった。

晴れて新装なった松林庵だが、その仕上がりに、全く異論がなかったわけではない。
実は竣工後、ある筋から、「床の段差も含めて、昔のままの姿で残したほうがよかったのではないか」と、物言いがついたという。
「外国から来た人に、『日本人は椅子とテーブルで生活していた』と思われては困る、日本文化を正しく伝えるためにも、純和風の姿に戻すべきではないか、とのご意見がありまして。1階のソファやテーブルを撤去し、掘り炬燵を入れるなどして、もう一度手を入れることになりそうです」と、大石さんは語る。

(左)優雅なカーブを描く太鼓橋の廊下。(右上)2階の茶室広間からは、ライトアップされた野趣あふれる庭を眺めることができる。(右下)茶室の網代天井(左)優雅なカーブを描く太鼓橋の廊下。(右上)2階の茶室広間からは、ライトアップされた野趣あふれる庭を眺めることができる。(右下)茶室の網代天井

世界遺産を貸し切りにして、料理や文化体験を楽しむ贅沢

松林庵を見学し、その凝った意匠に感嘆しながらも、ある思いを払拭することができなかった。松林庵はたしかに、和の趣を宿した魅力的な日本建築である。だが、古民家の宿が全国にあふれている今、1泊100万円の付加価値とはどこにあるのか――。

取材を続けるうち、「100万円の宿坊」という表現が、どうやら誤解の元であることがわかってきた。
松林庵は、いわば日本文化を体験するためのベースキャンプにすぎない。100万円は宿泊料金ではなく、世界遺産・仁和寺を舞台とした壮大な文化体験に対する対価なのである。
では、松林庵に宿泊すると、どのように特別な時間を過ごすことができるのか。

例えば、松林庵の利用者には、僧侶がガイドする、非公開の伽藍の特別拝観付きプライベートツアーが提供される。また、夕方5時から翌朝9時までは門が閉ざされるので、仁和寺はほぼ貸し切りの状態となる。
とりわけ贅沢なのが、仁和寺御殿を貸し切りにして過ごすひとときだ。
夕刻、仁和寺御殿の本坊表門は固く閉ざされる。だが、松林庵の利用者だけはその門をくぐることを許され、御殿の中へと誘われる。眺めのよい庭園、豪華な襖絵に彩られた宸(しん)殿や白書院・黒書院、光格天皇や尾形光琳が愛用した茶室--。夜間照明に浮かび上がる幽玄な空間に身を置き、別注の京料理や精進料理に舌鼓を打つもよし。希望すれば、雅楽や舞楽・茶道・生け花などの文化体験もオプションで楽しめるというから、もはや『源氏物語』の世界である。

「夕食会場には宸殿を、朝食会場には茶室を使うことが多いですね。食前には、南庭に面した白書院で、若い僧侶たちが上げる声明を聞いていただきます。その後、白書院から宸殿に移動し、優雅な北庭の眺めを楽しみながら、夕食をとっていただくのです。
夜、宸殿から庭越しに眺めるライトアップされた五重塔の眺めは、他では見られない特別な景色。仁和寺を独り占めし、仁和寺のすべてを体験することで、いろいろなことを感じてもらえるのではないかと思います」(大石さん)。
 
天皇家ゆかりの御殿をプライベートなダイニングルームやシアターとして使い、仁和寺を余すところなく味わい尽くす。いわば、夜通し「世界遺産を独り占め」できるところに、このプログラムの真骨頂があるといっても過言ではない。

宸殿からみる北庭の眺め。夜にはライトアップされた五重塔が浮かび上がる宸殿からみる北庭の眺め。夜にはライトアップされた五重塔が浮かび上がる

ターゲットはハイエンド層。「究極の日本文化を味わい、自国で発信してくれる人」に来てほしい

現在、松林庵の累計利用者数は9組(2019年7月現在)。そのうち半数以上を、欧米系外国人が占める。
このプログラムを利用した観光客からは、どのような反響があったのか。

「松林庵に宿泊された方たちは、『今までこんな貴重な体験をしたことはなかった』と、非常に喜んでお帰りになりますね。御殿で食事をされた後は、皆さん口を揃えて『こういう空間で食事をすると、全く雰囲気が違いますね』とおっしゃいます。『ここに来ると、自然の中に何かが宿っているような感じがする』という方もおられますね。ここが宗教施設だからかもしれませんが」(大石さん)

現在、「いろはにほん」の文化体験プログラムに参加しているのは、仁和寺を含めて6ヶ寺。その中で、「世界遺産」「門跡寺院」のブランドを持つ仁和寺に、ハイエンド層の受け皿としての役割が期待されていることは、その高額な料金設定からもうかがえる。

「日本財団さんが仁和寺に期待されているのは、『究極の日本文化をしっかりと受け止めてくれる人たちを受け入れ、その人たちが望むものを提供してほしい』ということです。1泊100万円に設定したのも、宿泊にそれだけの金額をかけられる方であれば、自国でもそれなりの発信力を発揮して、日本での文化体験をしっかり伝えてくれるのではないか、との期待があるからです」(大石さん)

一方、仁和寺サイドでは、このプログラムを財政難解消のための起爆剤にしたい、との思いもあるようだ。仁和寺は真言宗御室派の総本山ながら、修学旅行客の減少や交通アクセスの問題もあって、年間参拝者数は30万人に満たず、拝観料収入も減り続けている。「松林庵という存在は、仁和寺がどのような寺かを知ってもらうための、よい手立てになる」と、大石さんは期待を寄せる。

訪日観光客が3,000万人を突破した今、より深い日本体験を求めて訪れる外国人リピーターは日増しに増えている。一方で、参拝者が減って財政難に陥り、寺社観光に活路を見出そうとする寺院は少なくない。
そんな中、本山寺院が全山挙げて“おもてなし”に取り組んでいるという点で、仁和寺の事例は注目される。「高級宿坊を核とした文化体験事業」という未踏の分野に乗り出した仁和寺が、今後どのような花を咲かせ、世界にその魅力を発信していくのか。
御室桜の花だよりが、今から楽しみである。

(左上)御殿で体験できる文化体験の一例。写真提供/仁和寺(右上)仁和寺執行の大石隆淳さん。(右下)松林庵1階の座敷。(左下)展示ケースに納められた皇室ゆかりの宝物(左上)御殿で体験できる文化体験の一例。写真提供/仁和寺(右上)仁和寺執行の大石隆淳さん。(右下)松林庵1階の座敷。(左下)展示ケースに納められた皇室ゆかりの宝物

2019年 08月30日 11時05分