大阪の専業主婦が、移住先の三重県名張市で農業をスタート

専業主婦から一念発起し、三重県名張市で農業を始めた井上早織さん専業主婦から一念発起し、三重県名張市で農業を始めた井上早織さん

三重県西部に位置する名張市。関西のベッドタウンとして知られるこの地で、空き家となった古民家を活用し、農業・福祉を軸にしたコミュニティづくりに力を注いでいる女性がいる。どんな考えで活動を展開しているのか、彼女の思いを聞かせてもらおうとインタビューを依頼した。

「取材の方ですね。栗拾いをしてからでもいい?」。突然の申し出に今ひとつ状況が掴めないまま、「ええ、大丈夫です…」と返答すると、女性の姿はすっと消えてしまった。そして、玄関脇で待つこと10分。「ごめんなさい、お待たせしました!」と再び笑顔を振りまきながら登場したのが、今回取材をお願いしたNPO法人「あぐりの杜」のゼネラルマネジャー、井上早織さんである。

あぐりの杜とは、2013年10月に井上さんが立ち上げたNPO法人だ。井上さんは新規就農をきっかけに名張市へと移住し、2011年に夫が農業生産法人「株式会社アグリー」を設立。小松菜などの葉物野菜の水耕栽培に取り組み、「アグリー農園」のブランド名で事業を拡大させてきた。その一方で、福祉にも取り組もうと立ち上げたのが「あぐりの杜」だ。井上さんは、農業と福祉の2つの事業を、ともに経験ゼロから軌道に乗せた女性起業家なのである。

ただ、すべてが順調だったわけではない。最初は何もかもが初めてで戸惑うことも多く、失敗もたくさん経験した。そして「どうせだめなら」と、夫が立ち上げた会社の継承をきっかけに、女性であることを最大限に活かす思い切った方向転換を決断した。井上さんが代表となり、「アグリー農園」を商標登録、そして女性という武器を最大限に活かしたブランディングを図っていくことにしたのだ。

「水耕栽培の葉物野菜は、どんなスーパーでも売られています。真正面から勝負しても太刀打ちできるわけがありません。そこで私は、できる限り農薬を使わないでえぐみの少ない野菜を作り、ニッチな分野で戦おうと考えました。そして、女性の感性をブランディングに活かし、食育やお料理教室など、主婦の目線でお野菜をPR することにしました」

障がいを持つ女の子との出会いが、福祉に取り組むきっかけに

アグリー農園では小松菜、リーフレタスなどを水耕栽培。定植や収穫などの農作業を通じた就労訓練に取り組んでいるアグリー農園では小松菜、リーフレタスなどを水耕栽培。定植や収穫などの農作業を通じた就労訓練に取り組んでいる

既存の農家とがっぷり四つに組んで戦う「横綱相撲」は難しい。そうであれば、しなやかに、したたかに、小兵力士だからこそできる戦い方があるはず。そう考えながら、井上さんは少しずつ知名度を高める活動を展開していった。その一つが、三重県内の小学校などで開催している「いのちの授業」だ。種から双葉ができ、そして野菜が育っていく。その過程を子ども達の成長になぞらえ、命の大切さに気づいてもらうという授業である。

こうした地道な取り組みにより、徐々にアグリー農園の名前は浸透していった。今では三重県津市と名張市の小学校の給食に採用されているほか、県内の大手スーパーでも広く販売されている。丁寧に愛情込めて作られたアグリー農園の野菜は、一度口にするとほとんどの人がリピーターになるのだという。

そんな井上さんが、NPO法人で農業と福祉を掛け合わせた「農福連携」に取り組み始めたのは、地元・名張市の特別支援学校「伊賀つばさ学園」の生徒を受け入れたのがきっかけだった。

「その子の笑顔が忘れられなくてね」と井上さん。受け入れたのは、知的障がいと麻痺がある女の子だった。健常者のスタッフが1分でできる定植作業に15分かかってしまう。それでも夏の暑さに耐え、大量の汗をかきながら必死に頑張っていた。「どうですか?」と井上さんが声をかけると、「楽しかった」とうれしそうに笑った。

農園の経営が軌道に乗る前だったこともあり、継続的に雇用することは叶わなかった。それでも、井上さんは彼女の健気な姿に感動したという。「ちょうど従業員が『こんな安い給与ではやっていられない!』と辞めたタイミングでした。同じようにお金を支払うなら、障がいがあっても頑張っている方にお渡ししたい。そんな思いが徐々に強くなっていきました」。そして井上さんは2013年にNPO法人「あぐりの杜」を立ち上げ、翌年、就労継続支援B型事業所「あぐり工房JOY(2017年に「あぐり工房」へ改称)」を開所したのである。

障がい者を支援する中で、従業員が自主的に職場を改善するように変化

水耕栽培のハウスで働く井上さんと社員のみなさん。ハウス内は誰もが快適に働けるよう、作業道具の置き場所を決めて整理整頓を徹底しているという水耕栽培のハウスで働く井上さんと社員のみなさん。ハウス内は誰もが快適に働けるよう、作業道具の置き場所を決めて整理整頓を徹底しているという

あぐり工房では、アグリーの作業を受託する形で施設外就労訓練を行い、農作業を通して自立支援や就労支援に取り組んでいる。ただ、なかには農作業が向いていない障がい者もいる。そこで2016年6月には、あぐり工房内に新たに「クリエイト部門」を立ち上げ、長らく使われていなかった古民家を拠点に、「さをり織り」を作る事業をスタートさせた。「農作業が難しい方にはこちらでアートの才能を存分に発揮してもらっています」と井上さんは話す。

「農業も福祉も、どちらも自立していることが大切と考えています。だから、福祉にもきちんと取り組もうと頑張ってきました」と井上さん。あぐり工房での就労訓練で自信をつけた障がい者は次のステップへと進んでおり、2018年には3名の就職者も出している。

「実は、障がい者さんの自立を支援することは、農業経営にも役立っているんです。例えば、障がい者が利用しやすい職場環境づくりへの努力が、5 S活動(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)の浸透に繋がりました。こうして福祉に深く関わっていくうちに、私も『障がい者さんのためにお金を儲ける、そのために人生をつぎ込みたい』と考えるようになっていきました」

新たなプロジェクトを始動。目指すのは、誰もが立ち寄れる「止まり木」

ニホンミツバチを保護する「みつばちの楽園プロジェクト」を展開。古民家の脇には巣箱を設置しているニホンミツバチを保護する「みつばちの楽園プロジェクト」を展開。古民家の脇には巣箱を設置している

これまで株式会社アグリーとNPO法人あぐりの杜を牽引してきた井上さんだが、実は、2019年9月末で代表を退任することを決断した。そして、新たに立ち上げたのが「のうふくラボ」という組織だ。この「のうふくラボ」は、従来の2つの法人とは切り離した形で井上さん個人が中心となって活動を行う組織で、これまで取得してきた古民家や耕作放棄地、山林など1万坪の敷地を活かし、農業や福祉をキーワードにした「あぐりの杜プロジェクト」に取り組んでいくのだという。

「農業も、福祉も、もっとオープンコミュニティーにしていきたい」と抱負を口にする井上さん。「福祉には“ノーマライゼーション”という考え方があります。障がいがある人もない人も、ともに暮らし、働ける社会を目指そうというのがその基本理念ですが、のうふくラボは、それをさらに深掘りする場にしたいと思っています。障害の有無に関わらず、生きづらさを感じたり、日々の生活に疲れ切ったりすることは誰にでもある。そんなときに、ふっと日常を離れ、ここあぐりの杜に立ち寄り、土に触れ、作物を育て季節の移り変わりを感じる。栗を拾ったり、風が吹き抜ける竹林の中を歩いてみるだけでもいい。それが自分と向き合うきっかけとなればと思います」

井上さんが目指すのは、「止まり木」のような場所。地元の農家が作る伊賀米で作った美味しいおにぎりを頬張り、ともに汗を流す。多様な人たちが多様な目的で集うコミュニティーができればと構想を練っている。昔から存在する地域資源を活用し、古民家の厨房を使った食堂を作る計画を進めているほか、新たな農業の担い手を育成する農業経営塾「杜の学び舎」を開催することも考えているという。

現在は、「のうふくラボ」が展開するプロジェクトに参画する「プロボノ」を広く募っている。プロボノとは、自分が保有する専門知識やスキルを、社会貢献に活かすボランティア活動のことだ。「学生さんでもいいですし、農家さん、福祉や農福連携に興味がある方など、『何か面白いことをやりたい』という方と一緒にプロジェクトを進めていければ」と井上さんは話す。

農業が気付かせてくれる、日本の伝統文化と、人生のあるべき姿

農業を営むなかで、たくさんの気付きや学びを得たと語る井上さん。NPO法人あぐりの杜では、拠点として古民家を活用しているが、「なんて優秀なんだろう」と日々感じているという。土間があり、靴を履いたまま台所に入り、野菜を洗い、料理ができる。まさしく農業と古民家は、密接に繋がっているのだ。

「古民家は、日本の文化そのものなんです。有名な神社やお寺などは文化財として残りますが、農業と共にある古民家は、100年もすれば消えてなくなってしまう。それを残していきたいし、それこそが幸せの形なんじゃないかと感じています。また、生きることはお金を稼ぐことじゃない。生きることは食べること。農業はそんな原点にも気付かせてくれます。日本は、究極にモノがない時代から、一生懸命働き、モノで溢れるようになった。確かに人間の欲が満たされるのは素晴らしいことです。でも、これ以上必要ですか?と。農業は『足るを知る』を改めて実感するきっかけにもなるはずです」

普段、農業に触れる機会が少ない都会の人には、「マンションのベランダの片隅でもいいから家庭菜園を広めていきたい。だって、自分が作ることが、究極の安心・安全なんですから」と井上さん。「でも、みんなに小松菜をたくさん作られたら、商売あがったりなんですけどね(笑)」

「人生100年時代」へと突入し、これまでの日本人の生き方が問い直されている昨今。未経験から飛び込み、農業・福祉の2つの事業を軌道に乗せた女性起業家が始めたプロジェクトは、日々の暮らしに悩む人たちの拠り所となり、新たな生き方を見つけ出すヒントを与えてくれるかもしれない。

あぐりの杜の拠点となっている古民家。今後は厨房を使った食堂の開設も計画中だというあぐりの杜の拠点となっている古民家。今後は厨房を使った食堂の開設も計画中だという

2019年 12月30日 11時00分