明治商家のこだわりをみせる中瀬邸

西伊豆と呼ばれる、静岡県賀茂郡松崎町に呉服店を営んでいた明治商家が残っている。地域でも有数の商家、依田直吉の邸宅(依田直吉呉服店)として建てられたものだ。川の「中瀬」に位置したことから「中瀬邸」と呼ばれている。

何が見どころかというと、とにかく個人宅としては驚くほど豪華なつくりをしていることだ。ここ松崎町では左官職人が多く、鏝絵の天才・入江長八を輩出した町だがこの中瀬邸にも鏝絵をはじめ左官や大工の技が光る。

商家だけに蔵も有しているが、建物の中、部屋に続いて蔵がしつらえてあるのもまた珍しい。富の象徴なまこ壁でつくられているがそれも黒漆喰だ。さらに、奥の離れとつながる廊下には船底天井というこだわりよう。明治の頃、名を馳せた商家の暮らしというのはどのようなものだったのだろうか。

明治商家「中瀬邸」。明治20年に呉服商家として建てられた明治商家「中瀬邸」。明治20年に呉服商家として建てられた

皮肉な幸運も重なり残った「なまこ壁通り」

なまこ壁通りの一角。2階までびっしりとなまこ壁で覆われている。こんなことができたのも松崎が養蚕業などで経済的にも潤っていたからだなまこ壁通りの一角。2階までびっしりとなまこ壁で覆われている。こんなことができたのも松崎が養蚕業などで経済的にも潤っていたからだ

松崎町は、全国の中でも有数のなまこ壁が残る町。町内にはなまこ壁を施した家屋が190軒ほど点在しており、特に集中する「なまこ壁通り」の景観は見事である。

なまこ壁は風雨に強く、防火、保温に優れているため、江戸時代以降各地で盛んにつくられるようになった。松崎町は、冬になると海から強い西風が吹く。そのため、いったん火の手が上がればあっという間に延焼してしまう。それだけに、防火に対する備えという目的が強かったのだろう。他の地域では、壁面の一部になまこ壁が取り入れられていることが多いが、松崎町のそれは1階の全面はもちろんのこと、2階の壁まですべてなまこ壁でおおわれている。これも、防風や火災対策として家を守る意味合いが強かったと思われる。

もちろん、なまこ壁をつくるには財力が必要だ。その点も明治以降の松崎町では養蚕業が盛んとなり、中川・岩科地区には大規模な製糸工場が稼働していた。こうした産業の隆盛が贅沢な屋敷のつくりを可能にしていたのだ。

実は伊豆半島には同じようななまこ壁の家屋が多く見受けられた。しかし、昭和36年の私鉄開設以来、鉄道の通った東海岸線では開発が進み、古い建物は取り壊されていった。松崎町の位置する西海岸には鉄道が開通せず、過度な開発を回避することができたという。そんな皮肉な“幸運”もこの古きよき街並みを守れた要因なのだ。

銀行にすら貸付をした⁉ 当時の豪商ここにあり

そんな松崎のなまこ壁通りの端に位置する中瀬邸は、明治20年呉服商家として建築され、中瀬の家は短い中で町の大地主となったという。しかし、残念ながら4代目に跡継ぎがなく、昭和20年から家屋や敷地は国の管理に。昭和63年からは松崎町が母屋や土蔵を含めた7棟を買い取り、指定管理者が資料館や休憩所の甘味処を運営している。

今でこそ護岸工事のために母屋から少し離れた場所に川が流れているが、当時は母屋の目の前が川だったという。江戸から買い付けた反物などを船で運び、店の目の前につけて運び入れる。近隣のお客さんに呉服を出していたというから、当然その運搬にも水路を使っていたことだろう。店と川の距離が近く運ぶ手間がかからなければ、それだけ人足の賃金も安くなる。すっかり移動が陸路か空路となった現代人はピンとこないが、水路に面したこの場所は商売を行うにはとっておきの場所だった。

運営の委託を受ける一般財団法人松崎町振興公社の佐藤尚子さんは、
「建物を見るだけで、この家はよほどの商家だったことが分かる」と建屋の中を案内してくれた。まず、佐藤さんが足を止めたのは、入り口の木戸。そこに「丸くぎ」が使われているのを教えてくれた。「くぎの断面がない丸くぎは、明治の時代には大変貴重なもの。下田から入る西洋の文化をいち早く受け入れた証です」(佐藤さん)。

入り口をくぐると、呉服問屋を再現した広々とした板の間が広がる。そこに番頭がそろばんを弾く小さな机が置かれ、背後には箱階段が設えてある。当時はこの階段を上ると番頭の部屋があったそうだ。現在は保安の関係から2階へ上ることはできない。

その箱階段の後ろには格子扉があり、その向こうが居間になっている。店にきた客から見ると格子が邪魔して居間の様子はほとんどうかがい知ることはできない。だが、居間側から覗くと店の様子がはっきり見て取れる。外は見えて自室の中は隠す、これが昔ながら「格子」の知恵だ。

さらに番頭席の横には、蔵の中に残っていた反物など呉服店を再現した和服や小物が展示されている。「現在は展示として絹以外の麻や綿の着物も置いてありますが、当時はおそらく正絹が中心だったと思います。というのも、当時絹を扱うか、それ以外の綿や麻を扱うかで店の格は明確に区別されていたようです。呉服商と言えたのは正絹を扱ってこそ。綿織物や麻織物は『太物(ふともの)』と呼ばれ、呉服商は名乗れなかったのです」(佐藤さん)

正絹の高価な商品を扱えたということはそれだけ儲かっていたことだろう。その証拠として佐藤さんは番頭席に残る本物の大福帳をめくり、あるページで手を止めた。みると、何やら銀行の文字がある。なんと当時の松崎銀行へ中瀬呉服商が出資をしていた書付けがそこに残されているのだ。現在とは銀行の重みが違うとしても、まさしく豪商を納得させるエピソードである。

入り口の番頭席の後ろの箱階段(左)。番頭席の隣には当時を再現し反物や呉服を展示している(右上)。本物の大福帳には、「松崎銀行」の文字がみえる(右下)入り口の番頭席の後ろの箱階段(左)。番頭席の隣には当時を再現し反物や呉服を展示している(右上)。本物の大福帳には、「松崎銀行」の文字がみえる(右下)

左官の腕が試される「黒漆喰磨き」

反物が展示されている部屋の両サイドには、重厚感のある蔵が登場する。蔵を持つ旧家というのは多いものだが、屋敷の中に部屋続きの土蔵を持つ家というのはなかなか珍しい。店に来るお客様に、しまってある反物や呉服を見せる際、庭にある蔵にいちいち取りに行っているのは手間がかかる。部屋続きに蔵があった方が便利ということなのだろう。

この蔵の壁の様相も当然なまこ壁。しかも黒漆喰を使った珍しいものになる。黒漆喰本磨きと言われる技術で、佐藤さん曰く「左官技術の中でも特に難しく、灰墨を入れた漆喰を磨き上げるもので、重厚たる趣と格調の高さを感じさせる技術。誰でもできるものではない」そうだ。

「黒漆喰本磨きは、ムラなく均一の色を出すのがとても難しいとされています。美しい黒光りが価値の一つ。今でも手ごすりして磨けば鏡のようにピカピカと光ります。こうした美しい黒漆喰磨きを施せるのは今では左官職人の中でもそうはいないと言われています」(佐藤さん)

実際に、佐藤さんが素手で土蔵の扉を拭くと、みるみる内に黒漆喰が透明感を持ち、こちらの顔などが映るようになる。派手な色ではないが「黒」のキリリと締まった美しさを感じさせてくれた。

開かれた土蔵の扉に目を移すとその厚みに驚いてしまう。ここも左官の腕の見せ所だ。火災などから中の物を守る役目が蔵だけに、万が一の火災の際に煙や火が入るようでは困る。これだけ厚みがある扉でも、左右天地に1mmの隙間もなくぴったりと扉が閉まらなければならない。中瀬邸の土蔵も当然くるいなくつくられている。

部屋続きにある土蔵の入り口は扉の厚みにおもわずたじろぐ。右上部分佐藤さんが黒漆喰を磨いた箇所が光っているのが分かるだろうか(右上)。土蔵の中には当時をしのぶ家財道具などが展示されている(右下)。通常のなまこ壁は瓦のつなぎ目に白い漆喰を使うが、この土蔵では黒漆喰が使われている(左)部屋続きにある土蔵の入り口は扉の厚みにおもわずたじろぐ。右上部分佐藤さんが黒漆喰を磨いた箇所が光っているのが分かるだろうか(右上)。土蔵の中には当時をしのぶ家財道具などが展示されている(右下)。通常のなまこ壁は瓦のつなぎ目に白い漆喰を使うが、この土蔵では黒漆喰が使われている(左)

柱の「釘隠し」にさえ、贅沢な焼物を用いた栄華

お話をうかがった一般財団法人松崎町振興公社の佐藤尚子さん(上)。釘隠しには、家紋の橘をあしらった貴重な焼物がつかわれている(下)お話をうかがった一般財団法人松崎町振興公社の佐藤尚子さん(上)。釘隠しには、家紋の橘をあしらった貴重な焼物がつかわれている(下)

このほかにも、この中瀬邸には趣向を凝らしたあしらいが多い。今は甘味処になっている床の間。ここの柱の釘隠しにはこの家の家紋「橘」を施した焼物が使われている。とても安物とは思えない品。それが柱の数だけ何個も使われているのだから、相当な費用がかかっていることだろう。

また、離れに続く渡り廊下は船底天井という凝りよう。その名の通り、船の底を逆さにしたような形が特徴の天井だが、中央が両端より高く曲線を美しく仕上げるには技術が必要だ。漁港がある松崎の船大工たちが腕を振るったという。

実は、筆者の4代前は江戸の深川で糸商を営み、それなりに羽振りがよかったと聞かされている。ただしその商家も関東大震災で辺り一面燃えてしまい当時の面影を知ることはできない。本家の血筋もその時に途絶えているため、今となっては詳しいことが何も分からないのだ。一度、戸籍の住所を頼りに糸屋があった場所に行ったことがあるのだが、まさにそこも川沿いだった。絹糸を扱いそれなりの大きな店だったというのだから、中瀬邸と同じように水路で品物を運び、蔵の1つもあったかもしれない。夢想に近いが、もはや知ることのできないご先祖たちの暮らしぶりを想像することができるのも、こうして中瀬邸の建物が残っていてくれているからだ。

中瀬邸の渡り廊下の礎石を見ると、かなりあちらとこちらでズレが生じている。「木造建築を残していくことは大変。常にどこか補修が必要になるが、必要な職人たちもなかなか確保できない」という佐藤さんは語る。

昔の建造物というのは、単にその場に建っているだけではなく、その当時の暮らしぶりや職人たちの心意気を見せてくれる。この中瀬邸もなんとか次の時代へと受け継がれていってほしい。

2019年 03月11日 11時05分