不動産の所持には制約が多い、動産との違いは?

不動産は個人の所有であっても、絵画や宝石と違って納税義務があるのはなぜだろうか?不動産は個人の所有であっても、絵画や宝石と違って納税義務があるのはなぜだろうか?

「不動産」とは名前の通り「動産」の反対語である。不動産は主に土地家屋を指し、所有すると言っても持ち運べないため「専用使用権」ということになる。そしてその権利を保持するためには、動産に比べて様々な制約が存在する。

絵画や宝石は、購入や売却、譲渡などの際に税金が掛かる場合があるが、所有するだけなら高額な物であっても納税義務は無く、その他の制約も受けない。しかし不動産は所有し続ける限り固定資産税などの納税義務があり、登記などの制約もある。

今となっては当たり前のこととして受け入れられているが、そもそもなぜ不動産と動産ではこのような違いがあるのだろうか。それは人類の根源的な所有欲にまつわる歴史にその答えがある。特に土地の所有に関しては、時代ごとにどんでん返しが起きるなど、なかなか興味深い歴史が見てとれる。そこで今回は「所有」の歴史から、不動産とは何なのかということについて考察してみよう。

良い土地の所有権をめぐる争いが文明をもたらした

農耕は2万3千年前には始まっていたと考えられている。稲作は1万年前に中国で始まった農耕は2万3千年前には始まっていたと考えられている。稲作は1万年前に中国で始まった

もともと「所有」という概念は本能に根ざしたものである。原始の所有意識は、生きるための食料などの「物」と、子孫を残すために必要な相手である「人」に対して存在した。

この所有意識は敵対者や競争者の存在によって明確化する。食べ物がそこら中に転がっていて食べたい時にすぐに手に入る状況では、他者に取られないようにしたいという欲求はわきにくい。供給が過剰な状況においては、所有欲は生まれにくいというわけだ。

この原始の所有意識が「物」や「人」だけでなく、「土地」に向けられるようになったのは、考古学では農耕の発生時期とほぼ同じ頃だと考えられている。人口の増加は食料の量に比例する。狩猟生活から農耕生活へ進化し、食料の安定的な供給が実現したことで、人類の数は爆発的に増加した。

そうなれば更に収穫量の多い土地、つまり良い場所を占有する必要が出てくる。そこから土地の争奪戦が始まり、また更に土地を生かすために技術が飛躍的に進歩した。まさに土地の所有をめぐる争いが、人類に戦争と文明をもたらすきっかけになったのである。

卑弥呼の時代の300年前には存在していた土地の専用使用という概念

志賀島にある金印公園のオブジェ。志賀島で発見された金印は、前漢時代に倭国王に送られたと考えられている志賀島にある金印公園のオブジェ。志賀島で発見された金印は、前漢時代に倭国王に送られたと考えられている

古代日本における土地の「所有」に関することが、歴史に初めて登場したのは中国の歴史書「漢書」である。その中の「地理志」という部分に、「夫楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」との記録がある。これを見ると、2,000年程前の日本は百数ヶ国の小さな国々に分かれていて緊張状態にあり、それぞれの国が自国を漢に守ってもらうために朝貢していたことが分かる。

当時の日本は、小なりといえども多数の国家が存在していて、一族集団での土地の所有がなされていた。もちろん個人所有というわけではなく、また土地の権利を誰かに保証されているわけでもないので、専用使用をし続けるためには集団で武力で守るか、大国である漢に朝貢しその庇護を求めるかといったことが必要だった。

どちらにしても、この時代には既に土地の専用使用という概念が生まれていて、土地をめぐる争いが起こっていたと推測される。資料に見る限り、卑弥呼の時代から遡ること300年ほど前の話である。

土地の個人所有が生み出した戦国時代、秀吉のお墨付きという契約へ

卑弥呼の時代より以後、日本では小国の集合・併合が進み、大和朝廷の成立を迎える。大化の改新で天皇による集権国家が生まれ、すべての土地は「公地」であり、すべての民は「公民」であると定められた。

このことにより日本の土地はすべて国家所有となり、国民は国より土地を割り当てられて生産を担い、その見返りとして租税の義務を負うという「班田収授」というシステムが成立した。

しかし、中央集権化を進める過渡期でもあり、農地整備や戸籍問題など問題は山積していた。そこで国家基盤強化策の一環として、農地拡大を目的とした開墾の奨励政策である「墾田永年私財法」が定められた。日本の歴史上、この時初めて、法律によって土地の個人所有権が認められたのである。

この個人所有権は「不入の権」と呼ばれる一種の治外法権的な、完全なる個人所有の権利であった。この私有地が後に荘園として肥大化し、守護大名の発生へと繋がっていく。国家から切り離され個人所有となった土地の存在が、戦国大名という群雄割拠する小国家を生み出す元になったのである。

しかしその後、この様な荘園や守護大名が統治する「私有地」の存在は、豊臣秀吉の行った太閤検地により消滅した。強大な武力を背景にした豊臣政権は、各地の戦国大名の領地を一旦召し上げ、恭順を誓った者に領地安堵のお墨付き、つまり領地の統治権を認める契約を交わして天下を平定したのだ。つまりここでまた私有地から公地へと変わったわけである。

中央集権国家の黎明期の最大の課題は、食料生産力の強化であった。そのための開墾奨励策が墾田永年私財法であった中央集権国家の黎明期の最大の課題は、食料生産力の強化であった。そのための開墾奨励策が墾田永年私財法であった

権利書の元祖「沽券状」から生まれた賃貸という概念、土地の所有権とは?

登記済証書とは売買による所有権移転登記が済んでいる証明をするもので、それに纏わる権利が書かれているわけではない登記済証書とは売買による所有権移転登記が済んでいる証明をするもので、それに纏わる権利が書かれているわけではない

封建制度の根幹をなすものは君主と臣下の間で交わされる「契約」である。この契約の概念は急速に成長し、江戸時代に入るとありとあらゆるものが、この「契約」の対象となった。

契約は、農地や家屋敷、店舗などの不動産をはじめ、漁場、商業株仲間などの営業権、武士や僧侶、検校などの身分にも及び、多くのものが契約によって保証された。そして、この契約に付随した「保証」が売り買いの対象となっていた。

ただし土地の場合は、売買と言っても本質的な所有権は江戸幕府にあるため、金銭で移譲できるのは幕府から自由裁量が認められたその土地の「専用使用権」になる。また売買の際には、幕府がそれを証明する覚書として「沽券状」という証書が作成された。沽券状には土地の場所や広さ、使用者の名前などが記されていた。これが権利書のはじめである。

この権利書である沽券の発明が、「不動産の賃貸」という形態を生み出す元になった。沽券状は質に入れたり、また貸したりすることもできた。例えば、土地を使用する権利を買い取って、それを他の人間に貸して賃料を得るといったことができるようになったのである。

沽券状が発明される前の時代は、土地を他人に明け渡すことは、すべての権利の放棄を意味した。しかし沽券の出現により、他者に専用使用を許しても、その土地に対する権利を所有し続けることが可能になった。これは実質的に幕府が土地の個人所有を認めたと同じことである。

その後時代は変わり、明治6年に行われた「地租改正」で、近代的な土地の所有権が法的に認められた。その際、税制の改革も行われ、それまで税金は基本的に土地の耕作者が支払うものであったが、それ以降は土地の所有者が支払うことに変更された。これは当時の富国強兵策の一環であったと言われている。

土地の所有方法は国家のなりたちにも関わってくる。所有権ということの意味を調べてみると、「物の全面的支配、すなわち自由に使用・収益・処分する権利」とある。荘園の様に治外法権を認め、租税の義務もないのが完全なる個人所有だとするならば、現行法での不動産の所有権とは江戸幕府が始めた沽券状に近いものと言えるだろう。このような歴史的な背景を知ると、今日、我々が「所有する不動産」にも関わらず資産税を支払う義務を負っている理由が見えてくるのではないだろか。

2019年 01月07日 11時05分