地租改正により土地は不動産に

江戸時代、基本的に土地は幕府のものであり、「財産」という意識はなかった。現代のように、不動産売買が盛んになったのは明治時代の地租改正以降だ。慶応4年(1868年)に江戸幕府を倒した新政府は、版籍奉還により、徳川家から旧藩主に貸し与えられていた土地をすべて政府に返却させた。
土地の売買を可能とする地租改正が発布されたのは、それから5年後の明治6年(1873年)のこと。地価の3%を税金として納めると定め、政府の財源としたのだ。その前年には田畑永代売買禁止令が廃止され、国民の土地所有権が認められている。そしてこれをきっかけに、賃貸仲介業者や不動産業者も誕生するのだ。

大名や町奉行は、徳川家から拝領していた屋敷や奉行所などの土地をそのまま譲り受け、その土地に借家を建てることも多かったようだ。当初の借家は、江戸時代から引き続き、長屋形式のものが多かったようだが、その形態は少しずつ進化し、次第に二階建ても増えた。また、開国により外国人が日本に居住するようになったため、洋風建築も増えていく。特に横浜や神戸などの外国人居留地には、洋風の借家もあったようだ。

津軽の名家であった、太宰修の生家にある洋風応接間津軽の名家であった、太宰修の生家にある洋風応接間

住宅の西洋化が進む

住宅の西洋化が浸透したのは明治中期以降。日本家屋と洋風家屋を比較する住宅改良の議論が活発になり、本格的に西洋の建築技術を導入し始めた。特に華族や裕福な家庭は、西洋風の家屋を好み、この時代の洋風家屋の多くに、絨毯を強いた応接間が取り入れられている。それと同時に生活スタイルも西洋化し、食生活も変化してきた。
『怪談』や『骨董』などの著作で知られる小泉八雲は、アメリカから日本へ移住してからも、何事につけても日本風を愛し、日本料理を食べ、畳に座ることを好んだが、原稿を書くのは洋風の机だったようだ。

日本で最初の木造アパートは、明治43年(1910年)、上野公園に隣接して建てられた「上野倶楽部」だ。外観は洋風で、洗面所と浴室は共同だったが、トイレは各室にあったようだ。日本人のほかロシア人やフランス人も居住、全戸に家族が入居しており単身世帯はなかった。

最古のRC(鉄筋コンクリート)造の集合住宅は、大正5年(1916年)、長崎県高島町の軍艦島に建てられた。当時、炭鉱都市周辺には炭鉱労働者用の住宅が建造され、「炭鉱住宅」と呼ばれていたが、軍艦島の集合住宅もその一つ。三菱鉱業が社宅として建設したもので、光熱費や家賃は無料だったようだ。

小泉八雲の机。なんでも和風を好んだ八雲だが、原稿の執筆には机を利用したようだ小泉八雲の机。なんでも和風を好んだ八雲だが、原稿の執筆には机を利用したようだ

鉄筋コンクリート住宅の増加

大正12年9月1日に関東大震災が起きると、耐震性に優れた鉄筋コンクリート造りが注目されるようになる。
しかし、震災からの復興は決してスムーズではなかった。震災後一年経っても十分な住宅は建たず、人々の多くは公園などのバラックに住んでいたのだ。そこで震災の翌年大正13年に、内務省により「財団法人同潤会」が設立される。同会は、各地から集まった義援金を基に、次々とアパートを建設していった。これが鉄筋コンクリート住宅の普及に一役買ったわけだ。

内装まで洋風の集合住宅は「御茶ノ水文化アパート」が初めとされる。1925年に建設されたもので、ベッドルームやキッチンも西洋式。この時期になると、生活の西洋化も本格的になってきたようだ。ちなみに、江戸川乱歩の推理小説に登場する探偵といえば明智小五郎だが、彼が住む「開花アパート」のモデルは、「御茶ノ水文化アパート」だといわれている。

明治・大正時代のご近所づきあい

江戸時代の長屋では、大家と住人は「親と子のようなもの」とされたが、明治以降はどうだろう。農村では、地主自らが土地を所有するようになり、納税の形態も米から金へと変わったため、地主と小作人の関係が決定的となったとされる。不作の年は、小作人たちにさらに苦しい生活を強いただろう。

一方都市部では、「家主」という呼称が廃止され、「地所差配人」と呼ばれるようになった。これにより、それまで「大家」として店子を束ねていた家主たちは、一般の借家人と同列に扱われるようになったが、依然として住人たちから頼りにされており、区役所や町会の仕事を受け持つ人も多かったようだ。つまり、「大家と店子」の関係は、ある程度引き継がれていたと見てよいだろう。

日本人の生活の礎が築かれた明治~大正時代

人々の生活の変化で特徴的なのは、まず義務教育が始まったことだろう。
明治19年に第一次小学校令が発布され、就学の義務が定められる。第二次小学校令が公布されたのは明治23年。尋常小学校を義務教育とし、その修業年限を3~4年と定めた。

また、海水浴が始まったのもこの頃だといわれる。
もちろん、海に囲まれた島国に暮らす日本人にとって、泳ぎは決して縁遠いものではない。漁師や海女などは海を生活の場とし、泳ぎにより生活の糧を得てきた。しかし、海は仕事の場であり信仰の対象…神の依り来る場所であり聖なるものであったため、「遊びの場」という意識は薄かったといわれる。幕末ごろに、蘭学を学んだ医師たちにより海水浴が奨励されたこともあったが、当時は、健康法の一つだったとか。つまり、海水に浸かって病気を治療しようとするものだったという。明治に入って外国人が海水浴をする姿が珍しくなくなったことで、日本人にも、海で泳いで遊ぶ習慣が生まれたのだ。

明治から大正にかけて、私たち現代日本人の生活の礎ができたといえるだろう。世界大戦が始まるまでの日本は、江戸時代の人情を残しつつ、めまぐるしく近代化を遂げた時代だったのだ。

2016年 04月02日 11時00分