伝説の「天野酒」復活でまちの活性化を

2004年に世界遺産に登録された日本仏教の聖地、高野山へは京都から、大阪の天王寺から、堺からと3本の高野街道が走っている。その3本が合流、ひとつの道となって高野山へ向かう地点が大阪府の河内長野である。合流地点のすぐ近くに江戸時代の享保3(1718)年に創業、300年の歴史を持つ酒造会社・西條合資会社がある。

同社の看板は天野酒(あまのさけ)。室町時代に河内長野にある天野山金剛寺で造られ、味わいの良さで知られていた僧房酒(寺で醸造されていた酒との意)である。高野山は明治に至るまで女人禁制だったが、金剛寺は女性も参詣できたため、女人高野と呼ばれ、信仰を集めてきた寺である。そこで醸されていたのは純米の柔らかな味わいの酒だったそうで、豊臣秀吉が醍醐の花見に持ち込んだ酒と言われている。

だが、天野酒は江戸時代の明暦年間(1655~1658)には製造が中止されており、復活したのは昭和に入ってから。「明治以降に作ってきた酒よりも、もっと地元の歴史、風土を踏まえた、地元に愛されるおらが酒を造りたいと金剛寺にもお許しを頂き、1971年に古格天野酒を復活することにしたのです」(蔵主・西條陽三氏)。

僧房での酒造りの伝統を受け継いでいたからだろう、この地域にはかつて4軒もの酒蔵があったとか。だが、今は西條蔵のみ。地元の酒の復活によって地域を活性化したい、そんな思いがあった。

左上から時計回りに駅近くにあった3本の高野街道が河内長野で合流することを現す地図。天野山金剛寺。高野街道まつりで披露されていた歴史ある獅子舞。天野酒左上から時計回りに駅近くにあった3本の高野街道が河内長野で合流することを現す地図。天野山金剛寺。高野街道まつりで披露されていた歴史ある獅子舞。天野酒

50年近く空いていた登録文化財の建物

酒蔵通り前の賑わい。左側の奥に見えているのが改修中の旧店舗。下は旧店舗裏手にある石川。蛍の名所という酒蔵通り前の賑わい。左側の奥に見えているのが改修中の旧店舗。下は旧店舗裏手にある石川。蛍の名所という

そのため、西條氏は地元で愛される酒造りと同時にまちのイベントにも積極的に関わってきた。2018年で12回目の開催となった高野街道まつりもそのひとつ。駐車場を貸して欲しいという人達の声に応えて場を開放したのに始まり、現在では酒蔵の前の道を会場に数十軒の店が並ぶ。年によって多少はあるものの、平均3万人もが集まるという一大イベントである。

だが、それ以上に何か、まちのためにできないか。それが現在ある酒蔵の向かいにあり、文化財に登録されているものの、50年近くほとんど空き家同然だった旧店舗の改修・活用である。幕末頃に建てられたとされる旧店舗は江戸から明治期の古い様式であるツシ2階(厨子二階。つしにかいと読む。天井の低い中二階のことで、主に物置や使用人の寝泊りに使われていた)に5つの虫籠窓(むしこまど。虫籠のような形から名付けられた。漆喰で塗りこめられた防火対策の意もある窓)を連ねた風格ある建物。土蔵も含め、全体で450m2ほどもある大きさのため、シェアして使うことを想定、1年半ほど前から改修が始まっている。

建物が面する細い道は高野街道の一部だが、車の往来には不向き。そのため、車社会になって以来取り残されてきたが、それが逆に風情を残している。建物の裏には夏になると蛍が飛ぶ石川が流れている。その間にある建物を使うことでまちに新しい名所を作り出そうというわけである。

材木入手に苦労、職人層の厚さに救われる

改修にあたっては材木の手配が大変と建築家の窪添正昭氏。このエリアは吉野杉など国産材に恵まれた地域ではあるが、往時の材木と今の品では大きな違いがあるという。

「既存の建物を見ると太くて長い、見事な材木が使われていますが、今の材木店ではそうした品は手に入らない。そのため、原木で買ってきて、そこから柱、板を取ったり、台風で倒れた木を見に行くことも。予算の関係もあり、使える材と新しい材を組み合わせるなどして修復しています」。

一方でこの地域の職人の層の厚さに助けられているとも。「先般の台風被害では修復したいのに職人がいないという声を聞きます。ところが、このエリアでは70代、40代、20代と3世代が揃い、技術を継承し続けている宮大工、昨今では少なくなった建具屋さんなどが健在です」。

とはいえ、地元でも80代以上の人はそうした職人の存在を知っており、家屋の部材の名称や直し方を知っているものの、その下の年代になると途絶えてしまっているという。そのため、早めに直せば簡単に、安く直せる修理を躊躇し、結果、傷んでどうしようもなくなって相談するような事態に陥っている。

「この地域には古い家屋が多く、どう修理しようかと悩んでいる人も少なくありません。ここで修復をしていると相談されることもあり、そんな時にはちょっとした修理でも大工さんに行ってもらっています。その作業ぶりを通じて日本家屋は直せるものだ、直せば長く使えるものだということを知って欲しい。それもここで改修をするひとつの意義だと思っています」。

改修中の様子。傷んだところを新しくし、見えないところに補強を入れとやるべきことは多い改修中の様子。傷んだところを新しくし、見えないところに補強を入れとやるべきことは多い

5区画に分けて賃貸、まちを盛り上げようという人募集中

建物を見ていこう。酒蔵通りに面した出入り口から入ったところは30m2超の広い土間。右手にはカウンターがあるが、これは一時、銀行として使われていた頃の名残り。ここはいずれ共用ロビーとして使われる予定だ。さらにその奥に入ると吹き抜けのある70m2近い土間があり、2階への階段が。土間の片隅には古いへっついさん(かまどのこと)が残されている。

土間の左右に和室があるのだが、メインは入って右側。中庭を挟み、奥に庭のある100m2超の広い座敷でさらにその奥には土蔵も。こちらはまだ修復されていないが、庭、母屋の外にある倉庫などとともにいずれは改修して、貸し出される予定だという。

急な階段を上った2階には40m2ほどの、かつて使用人が寝泊まりしていた部屋があり、それとは別に天井の高い板敷の空間も。これだけの広さがあるなら宿泊施設などでも使えるのではと思うが、消防法その他の法令を考えると2階は限定的な使い方にならざるを得ないという。

「賃貸に出す予定の区画は厨房のある大小2つの座敷に1階、2階の座敷と土蔵1~2階の5区画。賃料はm2あたり3,600円を想定していますが、そのあたりはご相談に応じます」とみんなの不動産を運営し、仲介にあたる不動産会社マットシティの末村巧氏。賃料よりこのまちでやっていこう、盛り上げたいと考えてくれる人を優先したいということだろう。

「このエリアはハイキング客、サイクリング客が多いので、そうした人を対象にした飲食店、甘味処なども良いでしょうし、地元にないのでパン屋さんも欲しいところ。酒蔵で自家精米をしているので米粉があり、それを利用した商品や日本酒のつまみになるような商品をコラボできれば面白いでしょうね」。

左上から時計回りに入ったところの土間、カウンターが銀行だった頃の様子を伝える。吹き抜け上部からへっついさんのある土間を見下ろしたところ、へっついさんの左右にトイレが設けられる。2階、虫籠窓を内側から見たところ。吹き抜けにある階段上部左上から時計回りに入ったところの土間、カウンターが銀行だった頃の様子を伝える。吹き抜け上部からへっついさんのある土間を見下ろしたところ、へっついさんの左右にトイレが設けられる。2階、虫籠窓を内側から見たところ。吹き抜けにある階段上部

空き家活用の例を見せることで空き家の増加に歯止めを

通り右手が難波から移転してきた料理店。祭りの日とあって賑わっていた通り右手が難波から移転してきた料理店。祭りの日とあって賑わっていた

西條氏はこの建物を再生させることで、周囲の空き家の増加に歯止めをかけたいとも考えている。
「これから高野街道沿いでは相続するはずの子ども達が帰って来ないなどで空き家になる住宅が増えていきます。それを空き家にさせないためには、上手に活用すれば家賃を生むことを周囲に知らしめ、壊さないで使おうと思ってもらうことです」。

現在改修中の建物の隣に誕生した日本料理店「三佳屋」はその第一号。独居老人が亡くなった後、相続したお兄さんを「任せてくれれば家賃が入るようにするから」と説得、大阪の中心地・難波で10年営業してきた人気うどん店を誘致した。2017年4月に開業した店は地元のみならず、広範な地域から人を集めており、話題に。歴史ある建物で頂く食事は遠路をものともしない魅力があるのだろう。そこに新たに改修中の複合店舗施設が加われば、地域は変わっていくだろう。

歴史は後から作ることのできない、その土地最大の武器だが、西條氏はそれに加え、地元の様々な資産を使っていろいろな仲間たちとまちを変えていこうとしている。「河内長野には歴史はもちろん、川も山もあり、駅から歩いて5分ほどの場所には日本最大級のモトクロス場、多くのサイクリング客と新旧織り交ぜた面白いものがあるんですよ」。

今の段階では残念ながら、それほど認知度が高いとは言えない地域だが、面白い施設ができ、人が集まり出せば変わるはず。高野街道まつりもSNSによる集客だけで3万人が集まるまでになった。その力と文化財空き家を起爆剤に高野街道が再び、人の交流する場になることを期待したい。

2018年 12月21日 11時05分