「個人住宅至上主義に違和感」からスタート

2020年の東大退職を前に開かれた隈研吾氏の全10回の最終連続講義。第2回目のゲストは社会学者で東京大学名誉教授の上野千鶴子氏と社会デザイン研究者の三浦展氏。初回、3回目と建築家がゲストだったことからすると異色の組み合わせのようだが、実はお二方との関係は長いと隈氏。

上野氏と出会ったきっかけは、隈氏が1986年に出した最初の著作「10宅論」。
ニューヨークのコロンビア大学で研究員をしていた時に書いたもので、当時、建築家のバイブルとされていた篠原一男氏の「住宅論」に軽く疑義を呈した内容だった。

「『住宅論』は個人住宅を神聖なものとし、それを設計する重要性について書かれた本。簡単に言えば『個人住宅、サイコー!』です。それに憧れて建築家を目指した人も多く、圧倒的な影響力があった著作でしたが、個人で重い負担を負って家を建てて所有するということ自体がとんちんかんに思われましたし、本当にそのままでいいのかとも思った。それで茶化すような本を書いたのですが、それに上野さんが興味を持ち、シンポジウムなどに呼んでいただくようになりました」

家を建てることがまだ、男子一生の仕事とされていた時代である。建築家がそこに神のように君臨、作品としての家を建ててもいた。家はリアルな物体でありながら、同時に家父長制に代表される社会の仕組みを具現化したものと考えると、隈氏の違和感に社会学者である上野氏が関心を寄せたのは良く分かる。

上野氏はその後、1990年に「家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平」という、おおいに論争を呼んだ著作を上梓している。そこに書かれているのは『「資本制」と「家父長制」、つまりは「市場」と「家族」とが重なり合った構造こそが、近代産業社会に固有の女性差別の根源である』(岩波書店の著作解説より)ということ。
家もまたその重なりの産物と解すればお二人の意識のありようが推察できよう。

もう一人のゲスト三浦氏との出会いは2000年をむかえる少し前。当時の三浦氏は雑誌アクロスの編集長で、「反郊外の人だった」と隈氏。その後、2人は2010年に共著「三低主義」を上梓した。低価格、低姿勢、低依存という視点が話題になった本である。

最終講義の場所は安田講堂。ここで10回にも渡る講義が行われるのは、隈氏が初とか最終講義の場所は安田講堂。ここで10回にも渡る講義が行われるのは、隈氏が初とか

隈建築の特徴を上野千鶴子氏が解説

上野氏と隈氏の付き合いは30年以上。互いに影響を受け合ってきた関係だ上野氏と隈氏の付き合いは30年以上。互いに影響を受け合ってきた関係だ

ゲストとの関係紹介に続いては、上野氏が隈氏の仕事を振り返るという、おそらく最初で最後と思われる講義がスタートしたのだが、これが実に面白かった。

上野氏が挙げた隈氏の建築の特徴は大きく3点。

ひとつは仕事が少なかった初期の、苦節10年からの転機になった2006年の高知県梼原町(ゆすはらちょう)庁舎以降の同町内に建てた建築物群から得たものだという。同町には4件の隈氏設計の建築物があるが、いずれもが地元産の材を大胆に使ったダイナミックな建物。ここで隈氏は地方とそこにある木材などの材、それを地産地消で使うこと、そうした材をいかす生かす職人技、地域性などと出会ったのだと上野氏は分析する。

次に挙げられたのは新潟県長岡市庁舎アオーレ長岡や豊島区のとしまエコミューゼタウンのような大型の建築物もあるが、一方で、目立たない印象に残らない建築も少なくないという点。
「南三陸のさんさん商店街、三鷹のハモニカ横丁、お茶の水女子大学国際交流留学生プラザなどと実はたくさん見ていたのに、それらが隈さんの建築だと気づかなかった。なぜかといえば建築が目立たず、印象に残らなかったから」。
気づかなかった理由は、低コストで(上野氏曰く、「悪く言えば安普請」)、アグレッシブではなく境界がファジーだからというのが、上野氏の見立てである。これらの建築から、隈氏を「自分を主張する安藤忠雄さんとは対極である」とも上野氏はコメントする。

3点目は和の建築を多く手掛けていること。
山形県銀山温泉の旅館藤屋、歌舞伎座に茶室、寺の庫裏なども手掛けており、「教養がないとできない」。また、手がけた建物を紹介する中で出てきた、“うつろう建築”という言葉も印象的だった。建てた時点が完成ではなく、時間とともに変化する建築ということの表現だろうか。2020年完成予定のアンデルセン博物館(デンマーク)は、そのような建物と聞いた。

東日本大震災で変わった人、変わらなかった人

上野氏の講演の後は3人による鼎談(ていだん)。
以下、その中で印象に残ったやりとりを紹介したい。ひとつは上野氏による3.11の東日本大震災の前と後という論点だ。誰かがそのテーマを問う時、多くの人はあれが人生を変えましたという答えを期待するものである。
だが……と隈氏。

「南三陸を回って100年持つどころか、コンクリートとはこんなに弱いものなのだと再確認はしたものの、その前から木造をやっていたし、逆転というほどの変化はなかった。ただ、作品を求めても空しいとは感じました」。

その後、隈氏は2017年に宮城県南三陸町の“さんさん商店街”を手がけることになるのだが、テーマとしたのは“ぼろさ”。

「2016年に一時閉店するまでの同商店街は元々は仮設住宅。お金がなく、すのこ掛けの屋根、コンテナを集めたぼろぼろの感じが人気だった。それがカッコよかったのです。そこで、ぼろぼろのかっこよさを再生産しようと考えました。
新しいモノは関係を拒絶することもありますが、使い古されたものにはそれがなく、違う価値がある。あるものを使うことで活気を生むこともできる。そこで計算され尽くした“ぼろさ”を目指した。
説明するのは難しいのですが、部材を細かく何ミリまで計算して出す、出さないという計算です。でも、当時、町長さんにはポジティブにぼろさ、安っぽさを追求しているとは言えなかった。そろそろ言ってもいいかなとは思っていますが(笑)」。

上野氏もまた、隈氏は3.11で変わる必要が無かった人だと言う。理由は、すでにその前に隈氏は「負ける建築」を書いているからだ。

「負ける建築」が出版されたのは2004年。都心の巨大な高層ビル群や多額のローンを要する郊外の一戸建てなどを「勝つ建築」とし、それとは異質で受動的、柔軟な建築のあり方を考えるというもの。サスティナブルな建築の提唱と言い換えることができようが、だとしたらそれは、ぼろい「さんさん商店街」そのものでもある。変わる必要がなかったというより、隈氏は、3.11以前から3.11の先の人だったのかもしれない。

ちなみに上野氏は、3.11をきっかけに30年前の反原発集会で
「女性に対し、お母さんと呼びかけられたこと、子どものために反対しましょうと言われたことに違和感を覚え、以降袂を分かっていたことを反省した」とのこと。
40年ぶりにデモに行かれたそうである。

上野氏の舌鋒に隈氏も、三浦氏もたじたじ。しかし、リアル上野氏はとてもかわいらしい印象(※個人的な感想です)上野氏の舌鋒に隈氏も、三浦氏もたじたじ。しかし、リアル上野氏はとてもかわいらしい印象(※個人的な感想です)

“ぼろさ”と“わびさび”、“だささ”の関係

もうひとつはここで出たぼろさという言葉。これには会場から質問があった。褒め言葉に使われることが少ない言葉が主役に感じたからである。しかも、これからはぼろさの時代だという。会場から出た質問が「ぼろさはわびさびに通じますか?」というもの。
「近いところにはある、ただ、わびさびは狭い」と隈氏。

どうやら、ぼろさが求められているのは日本に限ったことではなく、海外でもかつてのように高級ホテルといえば、高額な石を貼って大きなベッドを置くというのではなく、面白い素材を使うなど従来とは違う手法に移っているという。また、国によって濃淡があり、オーストリア、韓国などにはぼろさ志向があるとも。日本語以外でどう表現するかという問いもあったが、隈氏は「Humblenessのようなポジティブな言葉に言い換えれば伝わるようになるのでは」。

もうひとつ、“ぼろさ”は“だささ”とは違うのかという質問もあった。
隈氏の答えは「“だささ”は知的レベルも含めてのもの。ノイズが気にならなくなるやり方としては、面白いかもしれないと思う」。
となると、ノイズとは何かということが問題になるわけだが、これについては講義終了後に隈氏に質問をする機会を得た。隈氏は安田講堂内の控室を見回しながら「たとえば、この部屋にある不揃いな椅子」という。インテリアにこだわったわけではなく、とりあえず置いたという椅子である。「この部屋にさらにこだわりのない一見変であるものを持ってきても人はおかしいとは思わない。それがノイズがあるという状態。変化があっても、それを受け入れられる空間という意味です」。

そこで思い出したのが、講義中の上野氏の発言。様々な高齢者施設、まちの居場所などを見てきたという上野氏は、「設計されすぎた空間は却って制約となる。死角と身の置き所をつくることが大事」と語ったのだが、これはノイズと同じ発想ではなかろうか。建築家によってかっちりと律儀に作りこまれた変化を許さない空間の逆がノイズのある、ぼろい空間と考えれば分かりやすいのかもしれない。

左上)震災後の仮設商店街をかさ上げ後の高台に移転した南三陸さんさん商店街。南三陸杉で建てられ、仮設時のぼろさを残した温かみのある空間が特徴(Minamisanriku Sun Sun Shopping Village © Keishin Horikoshi/SS Tokyo) 右上)町内に4軒もの隈氏設計の建物が点在する高知県梼原町。すべて町面積の9割以上が山林という土地柄を彷彿とさせる木の建築だ(Yusuhara Wooden Bridge Museum © Takumi Ota) 左下)国立競技場のような大きな建築から小さなモバイルハウスまで手掛け、建物の規模は様々。住箱はアウトドア用品メーカースノーピークと組んで生まれた木で作られたトレーラーハウス(Jyubako @ Kengo Kuma & Associates) 右下)ポートランドの日本庭園にあるのは日本の伝統的な住宅をイメージしつつもミニマムで現代的な3棟。緑化された屋上など環境に配慮した仕様にも注目(Portland Japanese Garden © Jeremy Bittermann)</br>※梼原町を除き、すべて2017年左上)震災後の仮設商店街をかさ上げ後の高台に移転した南三陸さんさん商店街。南三陸杉で建てられ、仮設時のぼろさを残した温かみのある空間が特徴(Minamisanriku Sun Sun Shopping Village © Keishin Horikoshi/SS Tokyo) 右上)町内に4軒もの隈氏設計の建物が点在する高知県梼原町。すべて町面積の9割以上が山林という土地柄を彷彿とさせる木の建築だ(Yusuhara Wooden Bridge Museum © Takumi Ota) 左下)国立競技場のような大きな建築から小さなモバイルハウスまで手掛け、建物の規模は様々。住箱はアウトドア用品メーカースノーピークと組んで生まれた木で作られたトレーラーハウス(Jyubako @ Kengo Kuma & Associates) 右下)ポートランドの日本庭園にあるのは日本の伝統的な住宅をイメージしつつもミニマムで現代的な3棟。緑化された屋上など環境に配慮した仕様にも注目(Portland Japanese Garden © Jeremy Bittermann)
※梼原町を除き、すべて2017年

これからは「つくっておしまい」ではない世界へ

つくった後に変化を許す空間はまた、つくった後に関与できる空間、建築家の役割を拡張する空間ということでもあろう。最近、若い建築家の中にはつくりっぱなしではなく、あえて完成以降に関与するという仕事の仕方をする人が出てきているが、それについてどう思うかという質問をした。

隈氏の答えは「面白いと思う」という笑顔。
「かつて、僕がコーポラティブが面白いと思ったのはそこ。最近は手がけたシェアハウスにしょっちゅう通っているのですが、それは仕事のフィードバックになると思うから。当事者として絡むことで分かることがある。建築家は一般の人とモノの見え方が違うところがあり、モノの使い方が見えている。その能力が関わることで活かせるのではないかと思う」。

つくっておしまいではなく、つくった後も変化し続ける、建築家が関与し続ける空間。
それはおそらく、講義中に上野氏がさんざん否定した「距離が近ければ関係が生まれると考えて設計する素朴な人たちが作る融通の利かない空間」とは異なるもののはず。「上野さんが過去の評価基準で否定する空間の、評価基準自体を変えたい」という隈氏の言葉が力強かった。

最後に和やかでありながら、建築と社会学のバトルにも見えた鼎談をまとめた隈氏の言葉を。
「30歳ちょっとから建築に厳しい目を向ける人たちに鍛えられてきた。構造主義からなかなか抜け出せない、建築家の仕事の本質的な欠陥を、上野さんなど別の視点をもつ方々から指摘されてきた。若いころから気づきがあり、今になるとそれが良い財産となっている。これは建築家だけの授業の中ではできないことだと思う」。

最終講義は今後も続く。隈氏の建築家人生に影響を与えた方々が順に登場するそうで、興味のある方はぜひ。

隈氏の最後の言葉で、自分に批判的な意見をもすべて受け入れる強さが世界で活躍する背景にあることを実感した。</br>学生にとっては良い学びになったのではなかろうか隈氏の最後の言葉で、自分に批判的な意見をもすべて受け入れる強さが世界で活躍する背景にあることを実感した。
学生にとっては良い学びになったのではなかろうか

2019年 07月08日 11時00分