敷地約800坪。和洋の要素を兼ね備えた広大な庭を持つ「旧久野邸」
北九州市「門司港レトロ地区」の重要文化財「旧門司三井倶楽部」(大正10年、1921年竣工)は、門司港の山の手「谷町」から移築されたものだ。その谷町には、かつて三井物産の門司支店長宅だったと推測される現「カボチャドキヤ国立美術館」をはじめ、戦前に建てられたとみられる、趣のある住宅がいくつか残っている。
そのひとつが、テラコッタ彫刻家・松浦孝さんがアトリエを構える「旧久野邸」だ。建設時の資料から、昭和8年(1933年)に大林組住宅部の設計で建てられたことが分かっている。施主は久野勘助。米相場で財を成し、石油の出光佐三、船舶の中野真吾と並んで「門司の三羽がらす」と称された人物だ。「旧久野邸」と同時代に建てられた木造3階建ての料亭「三宜楼」の得意客でもあった。
「旧久野邸」の敷地は約800坪。その広大な庭には、パーゴラと噴水を設えた洋風の部分と、石灯籠とつくばいを組み合わせた和風の部分が同居している。
レトロとモダンが同居して、繊細すぎず無骨すぎない、親しみのある建物
これほど広壮な邸宅でありながら、敷地が道路から石段45段分の高さにあるため、「旧久野邸」の存在は道行く人の目に触れることがない。久野家が使わなくなってから8年ほどの間は、空き家のまま、ひっそり眠っていたと思われる。
松浦孝さんがこの家に出会ったのは、今から4年前の2014年。仲介者に案内されて足を踏み入れた瞬間に一目惚れしたそうだ。その広さと古さに二の足を踏んだものの、建築関係の友人たちにも相談し、思い切って買い取ることにした。「結局、最初から心は決まっていました。ここでものをつくりたい、と」と松浦さんは振り返る。
長いこと空き家だった家は多少傷んではいたが、管理が放棄されていたわけではない。シロアリ被害が見付かった和室の床を抜いた以外、これといった改修はしてないそうだ。もとの建物を生かしながら、松浦さんが自分の手で少しずつ補修していった。当初は座敷の畳を大胆に剥いで制作スペースにしようと思っていたが、もったいなくなってやめたそうだ。結局、汚れを伴う作業には、敷地内に残っていた別棟を使っている。
建物は、玄関から東が洋風、西が和風の折衷住宅。玄関周りにはめ込まれたステンドグラスは幾何学模様で、レトロでありながらモダンさも感じさせる。洋室の応接間にはタイル張りの擬似マントルピースが設えられ、庭に続くサンルームが付属している。
和館の1階は、床の間のある二間続きの座敷。床の間は床脇と付け書院が揃った本格派だが、床柱は絞り丸太で肩肘張らない雰囲気がある。組子の細い障子や、縁側の化粧屋根裏天井は繊細だが、全体としては骨太で、質実剛健な印象を受ける。
門司港アート村での活動を通じて独自の技法“テラコッタ彫刻”を確立
門司港生まれの松浦さんは、美術を学ぶために東京へ出て、門司港に戻ってきたことで、改めて自らの創作に向き合うきっかけをつかんだ。
東京造形大学から筑波大学大学院彫塑コースに進み、修了後は美術造形の会社に就職。テーマパークの風景造りなどを手掛けた。「モルタルで岩山を造るプロフェッショナルでした。それはそれで得意だったけれど、他の人のイメージを具体化する仕事だったともいえます」。家庭の事情で門司港に帰ってきたときは、美術造形の仕事も、美術そのものも諦めかけた。しかし、かつての恩師から「東京で得た成果を北九州で披露しなさい」と背中を押され、開いた個展が新たな可能性を切り拓いた。
「学生時代は“彫刻”というジャンルに縛られて息苦しさを感じていました。個展なら自分のつくりたいものがつくれる。思い切って自由につくった作品が評価され、美術館が買い上げてくれたり、次の発表機会が与えられたりしました」
その後松浦さんは、官民連携による創作支援施設「門司港アート村」(現「門司港美術工芸研究所」)の一員になる。「帰郷したばかりの頃、身の置きどころがないように感じられた自分に居場所ができた。自然に恵まれた環境で、思うぞんぶん創作に打ち込むことができました」。そして松浦さんは、アート村で出会った陶芸家に学び、「テラコッタ彫刻」という独自の手法を確立していった。
「一般に彫刻は、芯棒に粘土を盛りつけてから目指すかたちをつくり、さらにそれを型どりして石膏やブロンズの作品に仕上げます。その、かたちをつくる手順の迂遠さや、つくったものの“複製”が作品として残ることが、僕にはどうしてもしっくりこなかった」
松浦さんの「テラコッタ彫刻」は、紐状の粘土を輪にして積んで成形し、800度前後の熱で焼成して仕上げる。「目指すもののかたちを、初めから、直接つくれる。しかも、素材そのものの色が、そのまま作品の素肌の色に生かせるんです」と松浦さん。
この「輪積み」と呼ばれる技法の起源は、縄文時代の土偶に遡るそうだ。「日本の美術の根源につながれたような思いがあります」。
松浦さんの作品は、どれも人のかたちをしているけれど、インスピレーションは自然から得るという。「だからこの家は、アトリエにうってつけでした」。
2015年秋から松浦さんは年に2度、「旧久野邸」を一般に開放している。音楽や演劇、舞踏、絵画、書道などさまざまなジャンルのアーティストたちに協力を仰ぎ、この家と庭を会場に、コンサートやワークショップを楽しんでもらう趣向だ。
「芸術とは本来、“祭り”から生まれたものだと考えています。“祭り”とは神様をもてなすこと。知人の神主によれば、神様は人々が楽しんでいる姿を見てお喜びになるそうです。芸術の力でこの家に人を集め、楽しんでもらう”祭り”で、この家の神様に報いたいと思っています」
布絵作家・岡嵜久理子さんがアトリエを構える小さな洋館「山の手ローズ」
2017年秋、松浦さんのアトリエ「旧久野邸」の一般開放に合わせて愛らしい洋館がお披露目された。「旧久野邸」の斜向かいにあり、ほぼ同時期に建てられたとみられる住宅だ。名付けて「山の手ローズ」。布絵作家の岡嵜久理子さんが2017年6月に借り受け、アトリエ兼カフェとして使っている。
夫とともにレストラン「プリンセスピピ門司港」を経営する岡嵜さんにとって、布絵作家としての創作の場を維持することは難しい課題だった。以前はレストランの隣の小さな部屋を借りていたが、出入りが多く落ち着かなかったそうだ。創作を断念するべきかと思い悩みながら、いつもは車で通り過ぎる道を、気分転換に歩いてみたところ、この家が賃貸に出されているのに気付いたという。
「山の手ローズ」は約80年前に建てられた家で、主は大学教授だったという。その子どもたちが門司港を離れたため、ここ10年ほどは空き家だったらしい。2017年3月に不動産会社が購入して貸し出したところ、岡嵜さんの目に留まったというわけだ。
「旧久野邸」が財界人の家なら「山の手ローズ」は知識人の家で、同時代の建物でも趣が異なる。和館と洋館を組み合わせた「旧久野邸」に対し、「山の手ローズ」の外観は洋風だ。切妻屋根の棟部分を平らにしたような独特の屋根形状で、縁側風の窓はあるが、和風住宅のように出入りはできない。両開きの玄関ドアはどっしりと厚みのある木製で、レリーフが施されている。
昭和初期の家族の暮らしが偲ばれる、独特の和洋折衷スタイル
「山の手ローズ」の内部に足を踏み入れて、まず感じるのは天井の高さだ。平屋なので、これだけ高くできたのだろう。玄関を入ってすぐの応接室は、二面に大きな窓を持ち、天井に回り縁、壁に腰板を回した風格ある洋室だ。けれどおもしろいのは隣に畳の部屋が続いていることで、この住宅独自の和洋折衷スタイルが見られる。
応接室から伸びる縁側風の明るい廊下は、和室、子ども室へと続く。子ども室は板張りで、引き戸と小窓の付いた二段ベッドが造り付けてある。この家が建てられた当時の、家族の暮らしぶりが偲ばれるようだ。明るく居心地よく、落ち着ける場所だから、と、岡嵜さんはこの子ども室をアトリエに充てている。
岡嵜さんは女子美術大学芸術学部造形学科で絵画とグラフィックデザインを学んだのち、オリジナルの画法「布絵」をつくり上げた。2008年には「布絵」の意匠権も取得している。
岡嵜さんの「布絵」は、古布を“絵の具”に見立てて描く方法だ。布の多くは、古い着物や羽織の端布。母が洋裁教師、伯母が呉服屋という家庭に生まれ育った岡嵜さんにとって、布は幼い頃からいつも身近にある、思い入れのある素材だったという。
「昔の着物は絹をはじめとした自然の素材でつくられています。それを先人が、織りや染めといった手わざを尽くして、美しい色や柄の布に仕上げた。布を画材に使うとき、その布をつくった先人たちの力を借りながら、一緒に描いているように感じるんです」
「山の手ローズ」は現在、暫定的に予約制でアトリエを公開している。「この家をどう生かしていくかは、これからじっくり考えたいと思っています」と岡嵜さん。
「カボチャドキヤ国立美術館」、「旧久野邸」、そして「山の手ローズ」。年月を重ねた建物とアートは相性がいいようだ。建物を大切に使いながらまちに還元する、門司港のアーティストたちの努力に敬意を表したい。
松浦孝アトリエ https://matsuuraatorie.amebaownd.com/
プリンセスピピ門司港(山の手ローズ) http://princess-phiphi.com/
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