古くから“潮待ちの港”として栄えた海運の要衝、鞆の浦

広島県福山市、沼隈半島の南端にある『鞆の浦(とものうら)』は、瀬戸内海国立公園内の景勝地だ。もともとこの海域一帯は、満潮になると豊後水道や紀伊水道から流れ込んだ海流同士がぶつかり、干潮になるとその海流が東西に分かれて流れ出す“潮境”に位置しているため、瀬戸内海を横断する船舶はここ鞆の浦で潮目を読まなくてはならなかった。

港で停泊する船や船員たちも多く、藤原道長が“我が世の春”を謳歌していた平安時代にはすでに『潮待ちの港』として栄えていた歴史がある。

また、近年ではかのアニメ界の巨匠・宮崎駿監督が『崖の上のポニョ』の構想を練った場所としてもお馴染みになり、映画やドラマの撮影場所として鞆のまちのノスタルジックな風景を目にする機会が増えた。

この歴史ある港町『鞆の浦』は、2017年に文化庁の『重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)』に選定されたのだが、実はその選定以前からずっと“鞆のまち”を守ろうと地道な活動を続けている女性がいる。鞆の浦現地で取材した。

▲鞆の浦という地名は「弓を射るときに装着する防具『鞆』の形に似てるから名づけられた」という定説がある。あくまでも海運の目的地ではなく中継地として栄えたため、地元独自の産業や特産物はほとんどなく、鞆のまちの人たちの多くは船具屋や宿屋として生計を立てていたそうだ▲鞆の浦という地名は「弓を射るときに装着する防具『鞆』の形に似てるから名づけられた」という定説がある。あくまでも海運の目的地ではなく中継地として栄えたため、地元独自の産業や特産物はほとんどなく、鞆のまちの人たちの多くは船具屋や宿屋として生計を立てていたそうだ

1時間街の中を歩くと千年分の歴史を体験できる、このまち全体が博物館

▲「何かピンチが起こると、不思議と支えになってくれる新しい仲間と出会うことができた…だから今まで活動を継続することができたんでしょうね。仲間たちのおかげです」と語るNPO法人『鞆まちづくり工房』の代表理事・松居秀子さん▲「何かピンチが起こると、不思議と支えになってくれる新しい仲間と出会うことができた…だから今まで活動を継続することができたんでしょうね。仲間たちのおかげです」と語るNPO法人『鞆まちづくり工房』の代表理事・松居秀子さん

「ここ鞆の浦は、万葉・中世の時代から続いている港町です。満ち潮になるとこの港で積荷を下ろして船泊まりをして、引き潮を待ってまた船が出て行く…港に上陸して宿に泊まることができたのは、船頭さんなどの偉い人だけだったようですが、鞆の浦では旅人たちが常に行き交うことで様々な文化が交流し、江戸時代には華やかさを極めていたそうです」

NPO法人『鞆まちづくり工房』の代表理事である松居秀子さんは、ここ鞆の浦のまち並み保存活動を1991年から続けている。

「ある専門家の先生から指摘されたことですが、ここ鞆の浦のまちの中を歩いていると、街区の道幅を見るだけで“ここからここまでは鎌倉時代に造られたエリア、この先は室町時代に造られたエリア”とその時代がハッキリわかるのだそうです。“1時間歩くだけで日本の1千年の歴史を体験できるまちが今も自然のままの状態で残っているとは素晴らしいことだね”と言われました。

“ここはテーマパークとは違って厳然と残されたまちであり、このまち全体が博物館のようなもの。だから今後もこのまち並みを大切に保存していかなくてはいけない”という先生の言葉は、私たち『鞆まちづくり工房』の仲間たちも重みを持って受けとめています」

戦後の車社会から取り残されたことで、残った鞆のまち並み

「鞆の浦は軍港ではなかったので幸いなことに戦火の影響を受けずに済みましたし、そもそも海運の街ですから、戦後の高度経済成長期の“車社会化”から取り残されることによって、奇跡的に江戸から昭和のまち並みがそのままキレイに残されました。私は大学へ進学したときに一度鞆の浦を離れ、海外へ留学していた時期もあったのですが、外国で暮らしながら何気なく想い出していた鞆の風景は、故郷を離れたからこそわかる大切な存在になりました。帰国してから、それを残していきたいという気持ちがとても強くなったんです」

帰国後、結婚し故郷・鞆の浦で主婦として子育てをしていたという松居さんだが、あるとき大正時代のレトロモダンな建物である理髪店が閉店するという噂を聞いて「このまま建物を使わなくなってしまうのはもったいない、何か活用できる方法がないか?」と考え、若手陶芸家のサロンを兼ねたハヤシライスとコーヒーの専門店を開業することにした。

これが『鞆まちづくり工房』の前身となる最初のプロジェクトだ。折しも、テレビの『旅番組』がブームとなっていた頃。ここ鞆の浦も“古いまち並みが残るノスタルジックな港町”としてたびたび紹介され、全国から観光客が押し寄せるようになっため、店は大いに繁盛したという。

「当時はまだ“リノベーション”なんて言葉すら無かった時代。ただひたすら“良い建物を残したい”という素人の発想で保存活動に取り掛かったのですが、それがいつしか“まち並み保存活動”という言葉に変わっていました(笑)。その後、2003年にNPO法人を立ち上げて、うちの実家の蔵を修復して店舗にしたり、空き家を買い取って再生しゲストハウスとして活用したりしながら、“予算が許す範囲内で”なんとか自分たちにできることを続けています」

▲港をぐるりと囲むように、比較的シンプルな区割りで路地が構成されている鞆のまち並み。よく見ると道幅や建物の間口幅がそれぞれ違っているため、当時の基準尺に照らし合わせれば「いつの時代に造られた街区か?」がわかるという。<br />「鞆の人たちにしてみれば、この風景は昔からここにある当たり前のもの。だから、私も含めてこのまちの本当の価値に気づくのに時間がかかってしまったことが残念…」と松居さん▲港をぐるりと囲むように、比較的シンプルな区割りで路地が構成されている鞆のまち並み。よく見ると道幅や建物の間口幅がそれぞれ違っているため、当時の基準尺に照らし合わせれば「いつの時代に造られた街区か?」がわかるという。
「鞆の人たちにしてみれば、この風景は昔からここにある当たり前のもの。だから、私も含めてこのまちの本当の価値に気づくのに時間がかかってしまったことが残念…」と松居さん

まち並み保存活動において大きな転機となった宮崎駿監督との出会い

▲宮崎監督が手描きで残してくれたという『御舟宿いろは』のリノベーションイメージのスケッチ。この『御舟宿いろは』は、宮崎アニメファンだけでなく、坂本龍馬ファンからも“聖地”として崇められている建物。慶応3年4月、伊予国大洲藩の西洋船が紀州藩の明光丸と衝突。そのまま鞆港に曳航しようとしたものの浸水のため宇治島沖で沈没した『いろは丸沈没事件』の際に、坂本龍馬をはじめとする海援隊が、紀州藩側へ賠償交渉を行った場所として伝わる建物だ(御舟宿いろはについての詳細は別レポートにて紹介)▲宮崎監督が手描きで残してくれたという『御舟宿いろは』のリノベーションイメージのスケッチ。この『御舟宿いろは』は、宮崎アニメファンだけでなく、坂本龍馬ファンからも“聖地”として崇められている建物。慶応3年4月、伊予国大洲藩の西洋船が紀州藩の明光丸と衝突。そのまま鞆港に曳航しようとしたものの浸水のため宇治島沖で沈没した『いろは丸沈没事件』の際に、坂本龍馬をはじめとする海援隊が、紀州藩側へ賠償交渉を行った場所として伝わる建物だ(御舟宿いろはについての詳細は別レポートにて紹介)

全国各地の“古いまち並み”を取材していると(これは多くのまちで生じている共通の課題なのだが)どの地元でも「今のまち並みを残したい」と考える人たちと、「新しく機能的なまちに変えたい」と考える人たちの間で意見が対立しがちだ。

ここ鞆のまちでも、そうした意見の違いは少なからずあるそうだが、松居さんの活動に理解を示しながらサポートを名乗り出る地元住民たちも増え続けているという。

「あるとき、ある空き家の持ち主の方から突然依頼があって、“うちの家を買ってほしい”と。どうして私に連絡してくれたんですか?と聞いてみたら、“あんたなら、うちの家を大切にしてくれそうだから”と言われたことがあったんです。それを聞いたときは、“表向きは黙っていても、この活動のことを応援してくれる人がいるんだな…”と嬉しくなりましたね」

また、松居さんの活動を支援する人物との運命的な出会いもあった。あの宮崎駿監督だ。

「実は、スタジオジブリ宛に“良かったら社員旅行として皆さんで鞆の浦へお越しになりませんか?”とダメモトで企画を提案したんです(笑)。そしたら本当にご縁があって、宮崎監督以下ジブリの社員の方たちが観光バスに乗ってお越しになったんですね。

そのときは単なる観光ではなく、空き家再生事例なども見ていただいたのですが、宮崎監督が“ここは緑が少ないけど、雰囲気が好きだからもっと滞在してみたい”とおっしゃって、その後個人的に2ヶ月間別荘を借りて鞆の浦に長期滞在してくださったんです。そのときの滞在先が崖の上にある別荘で、『ポニョ』のストーリーが誕生した場所として話題になりました。宮崎監督からは様々なご支援をいただき、この坂本竜馬ゆかりの『御舟宿いろは』の保存活動にもお力添えをいただきました」
※筆者注:この『御舟宿いろは』の建物再生については後日別レポートで紹介する。

まち並み保存が逆に“まち並み壊し”になってしまうかもしれないという危機感

こうして、アニメ界の巨匠をも虜にした鞆のまち並みは、2017年に満を持して『重要伝統的建造物群保存地区』の選定を受けた。しかし「重伝建に選定されたからといって、今後確実にまち並み保存ができるわけではない」と松居さんは警鐘を鳴らす。

「おそらく、全国どこの重伝建地区でも陥りがちなポイントなのですが、映画のロケのセットを作るみたいに、まち並みを修景したり建物を修復するぐらいなら、むしろ“しないほうがまし”なんです。古い建物を修復するためには、それなりの知識と技術を持った職人さんが必要ですが、今はもう腕のある大工さんが居なくなってしまった。単に“重伝建の補助金が出るから”という理由で、イマドキの技術を使ってイマドキの素材で和風の木の格子戸をつけても、修復にはなりません。結局最後は予算との戦いになるわけですが、予算優先・見た目優先の修復をしていたらどこも同じ“のっぺらなまち”になってしまいますから、それは“まち並み保存”ではなく、逆に“まち並み壊し”です」

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まち並み保存には「地元の人たちの故郷への想い」だけでなく、「修復技術者の育成」も欠かせないと語る松居さん。次回レポートでは松居さんたち『鞆まちづくり工房』が着手した『御舟宿いろは』の再生についてクローズアップする。

■取材協力/NPO法人『鞆まちづくり工房』
http://tomo-iroha.s2.weblife.me/index.html

▲鞆港からもほど近い街区に佇む『御舟宿いろは』。(正確な年数は不明だが)築200~300年が経っている建物と考えられており、表から建物内に入ると、通り土間と店、土間の奥には中庭と蔵という、いかにも“鞆の商家らしい建物”の特徴が残されている▲鞆港からもほど近い街区に佇む『御舟宿いろは』。(正確な年数は不明だが)築200~300年が経っている建物と考えられており、表から建物内に入ると、通り土間と店、土間の奥には中庭と蔵という、いかにも“鞆の商家らしい建物”の特徴が残されている

2018年 07月15日 11時00分