東海道五十三次で唯一の重伝建地区、47番目の宿場町『関宿』
江戸時代の旅人たちはわたしたちが想像する以上によく歩いた。一日の移動距離は平均して男性で九里から十里(約36~40km)、女性は六里から八里(約24~32km)と言われており、日の出前に出発し日暮れ前には宿場に入るのが旅のスケジュールだったそうだ。
江戸日本橋と京都三条大橋を結ぶ旧東海道の全長は 124里8丁(約490km)。今回訪れた三重県亀山市の『関宿』は日本橋から数えて47番目の宿場町にあたり、健脚の男性なら江戸を発って8日目か9日目に到着して、ここで宿を取ったと考えられる。
東西に延びる『関宿』は全長約1.8km。東海道だけでなく、西の追分は奈良へと続く大和街道、東の追分は伊勢へと続く伊勢別街道に分岐していたため、交通の要所として栄えた歴史を持つ。
そんな『関宿』は、東海道五十三次の宿場町で唯一、国の『重要伝統的建造物群保存地区(※以降、重伝建地区)』に選定された宿場町として、今も旧東海道の古い町並みを守り続けている。
“半時道を渡れず”と言われるほど往来が激しかったメインストリート

「明治時代まで、東海道はメインストリートで、この関宿でも1万人ぐらいの往来客がありました。その様子は“半時道を渡れず”と表現されるほどで、うちの店から向こう側へ街道を横断しようとしても、歩くことができないほどの人ごみで賑わっていたと伝えられています」と話してくださったのは、ここ関宿の中町で375年続く老舗和菓子店『深川屋(ふかわや)』の第十四代服部吉右衛門亜樹さん。『東海道関宿まちなみ保存会』の事務局長でもある。
「関は今も昔も交通の要所であることに変わりはないのですが、明治23(1890)年に四日市と草津を結ぶ関西鉄道(かんせいてつどう)が開通したことから、宿場町としての役割を終えたと聞いています。しかし…それが良かったんですね。
幸い第二次世界大戦の戦火も免れ、戦後の近代化の流れからも取り残されたので、関宿の古い町並みは壊されずにほぼ当時の姿のままで残りました。僕たちの町にとって“すごい財産が残った”と思います」(服部さん)
地元で「旧東海道の面影を残す歴史的な街並みを『重要伝統的建造物群保存地区』にしよう」という活動が始まったのは、昭和55(1980)年のこと。当時の旧関町(平成17年に亀山市と合併)の町長がリーダーシップをとり、有識者等から助言を受けながら重伝建地区選定に向けての舵取りをおこなってきた。同時に住民団体の『関町まちなみ保存会(現:東海道関宿まちなみ保存会)』が発足し、保存活動が少しずつ地元住民にも理解されるようになった。
古い町並みを見放さなかった重鎮たちの“先見の明”が、町の財産を守った
1980年代の日本といえばバブル前夜の豊かな発展期で、建物だけでなく人々の概念も“古いモノをぶち壊し新しいモノを創り出すことが良し”とされてきた時代だ。その時代の流れの中にありながら、「関宿の古い町並みを見放さなかった当時の重鎮たちがすごい」と服部さんは言う。
「古い町並みを残すか?残さないか?については、重伝建地区に選定されるまで住民たちへの説得を含めて紆余曲折がありましたが、4年の活動を経てようやく関宿の町並みが国の文化財になったのです。ただ、うちの店もそうですが、文化財となると勝手にリフォームしたり取り壊すことができなくなりますから、古い建物の中で生活を送ってきたひとたちは本当に不便やったと思います」(服部さん)
“壊してしまうには価値がありすぎる建物”がたくさん残っている町

筆者もこれまでいくつかの重伝建地区を取材してきたが、地区内で暮らしている方たちから決まって聞かれるのは「建物の改修に関する制約が多くて大変だ」ということ。
保存対象の建物はいくら老朽化しても勝手に住まいの改修を行うことはできず、行政が定める一定のルールの範囲内での修繕しか認められない。ここ関宿でも同様の規定があり、例えばキッチンをオール電化にすることは問題ないが、外壁をサイディングなどの近代的建材に張り替えたりすることはできない。
「“維持費がかかるので面倒くさい”とか“年寄りばかりだからいっそのこと更地にしたい”というのは、ごく普通の気持ちなので否定はしませんが、ここ関宿には『壊してしまうには価値がありすぎる建物』がたくさん残っているのです。こうした住民たちの気持ちを丸く治めるのが、行政の大事な仕事だと思いますね」(服部さん)
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関宿の町並み保存を担当している亀山市市民文化部文化振興局まちなみ文化財室の稲冨正充さんに、行政担当者としての想いを聞いてみた。
「重要伝統的建造物群保存地区内にある保存対象の建物は、確かに個人の財産ではあるのですが勝手に取り壊すことができません。そのため、文化財保護法という仕組みの中で各自治体が独自の法令を定めて、面的な趣の保存を図っています。
外観や屋根、柱・梁などは伝統的建築物の価値を有する部材となるので当初のものをそのまま残すルールになっていますが、住民の方の生活にかかわる内装や水まわりなど建物内部についてはゆるやかな規制とし、近代的に暮らせるように住民の皆様に工夫を行っていただいています」(稲冨さん)
関宿では“その場所で生活を続けながら古い町並みを保存する”をテーマとしてこれまで取り組んできた。映画のセットのハリボテのように、単に古い建物を寄せ集めた町ではなく、“住民たちの生活がその場所で継続していること”に大きな意義があるのだという。
重伝建地区の選定を受けて30年、住民たちの“無関心”が一番怖い問題
関宿に残されている建物は“住民みんなの財産”とも言うべき大切なものだが、二世代・三世代と時代が移り変わっていくと、各家庭の中でも意識が変わってくる。
「おじいちゃんは建物を守ろうと一生懸命頑張っているのに、孫の代はまったく無関心…これが一番怖い問題ですね。そこで、僕たち『東海道関宿まちなみ保存会』では行政と連携して、住民の皆さんに改めて“町の価値を知ってもらうため”、そして“町に関心を持ってもらうため”の活動を進めています」と服部さん。
次回《『関宿』を次世代へ継承するために。生活とともにある重伝建地区保存への取り組みとは?②》では、『東海道関宿まちなみ保存会』の活動についてレポートする。
■取材協力/亀山市市民文化部文化振興局まちなみ文化財室
https://www.city.kameyama.mie.jp/
2017年 05月25日 11時05分