フランシスコ・ザビエル上陸の2年後に、すでにキリスト教が流行していた町

『隠れキリシタン』と聞くと、長崎や天草をイメージする人が多いのではないだろうか。しかし、近年『隠れキリシタン伝説』で注目を集めているのが、大分県南西部に位置する山あいの小さな城下町・竹田市だ。

かのフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが天文18(1549)年のこと。その2年後に豊後の国(現在の大分県)を訪れたザビエルは、後にキリシタン大名となる大友宗麟と出会い、手厚い保護を受けながら布教活動を行ったとされている。

当時の文献によると、天文22(1553)年頃にはすでに現・竹田市内でキリスト教が流行していたという記録が残っており、豊臣秀吉の九州平定・天下統一後も(秀吉はバテレン追放令を出していたが)豊後国岡藩の初代藩主となった中川秀成がキリシタンに寛大な姿勢を見せ、竹田は宣教師たちの布教拠点であり続けたという。

その後、慶長17(1612)年に江戸幕府が『禁教令』を発したことで“表向きは”仏教への改宗を余儀なくされたわけだが、そこから『竹田キリシタンのミステリー』がはじまることになった。

▲大分県指定の文化財『キリシタン洞窟礼拝堂』は、竹田市殿町の歴史の道『武家屋敷通り』からほど近い裏山にある。当時この一帯は、古田織部で知られる古田家の下屋敷の一部だったと伝えられており、筆頭家老の住まいがあった。「岡藩の上級武士である古田家の下屋敷の一部に礼拝堂が造られ、近代まで残されていた…ということは、当然ながら藩主も筆頭家老もその存在を知っていながら、禁教令後も“見てみぬふりをしていた”ものと考えられます。“藩ぐるみでキリシタンをかくまっていたのではないか?”という説が竹田キリシタンのミステリーなのです」(後藤さん談)▲大分県指定の文化財『キリシタン洞窟礼拝堂』は、竹田市殿町の歴史の道『武家屋敷通り』からほど近い裏山にある。当時この一帯は、古田織部で知られる古田家の下屋敷の一部だったと伝えられており、筆頭家老の住まいがあった。「岡藩の上級武士である古田家の下屋敷の一部に礼拝堂が造られ、近代まで残されていた…ということは、当然ながら藩主も筆頭家老もその存在を知っていながら、禁教令後も“見てみぬふりをしていた”ものと考えられます。“藩ぐるみでキリシタンをかくまっていたのではないか?”という説が竹田キリシタンのミステリーなのです」(後藤さん談)

禁教令後、宣教師たちは洞窟に隠れながら布教活動を行っていた

▲竹田のキリシタン研究の第一人者でもある後藤篤美さん。平成24年の『岡藩城下町400年祭』を記念して、市の広報に『竹田キリシタンの歴史』を執筆することになったのがきっかけで研究をはじめた。「調べれば調べるほど、竹田のキリシタン伝説は無尽蔵に出てきますからとても面白い」と後藤さん。後藤さんの執筆記事は『ミステリアス!竹田キリシタン』と名づけられ、竹田市のホームページに掲載。その記事が全国から注目を集めるようになり、竹田の観光資源として生かされるようになった。(奥に写っているのは宣教師の住まい兼集会所として使われていたと思われる手彫りの洞窟)▲竹田のキリシタン研究の第一人者でもある後藤篤美さん。平成24年の『岡藩城下町400年祭』を記念して、市の広報に『竹田キリシタンの歴史』を執筆することになったのがきっかけで研究をはじめた。「調べれば調べるほど、竹田のキリシタン伝説は無尽蔵に出てきますからとても面白い」と後藤さん。後藤さんの執筆記事は『ミステリアス!竹田キリシタン』と名づけられ、竹田市のホームページに掲載。その記事が全国から注目を集めるようになり、竹田の観光資源として生かされるようになった。(奥に写っているのは宣教師の住まい兼集会所として使われていたと思われる手彫りの洞窟)

「禁教令以降、キリシタンにまつわる記述は“隠さなくてはいけないもの”になりましたから、文献がほとんど残っていないのが本当に残念です」

今回、県の文化財である『キリシタン洞窟礼拝堂』を案内してくださったのは、竹田市役所商工観光課に勤務しながら『竹田キリシタン研究所』の所長を務めている後藤篤美氏。地元では“竹田キリシタン研究家”としてお馴染みの存在だ。

「意外と知られていませんが、竹田は日本の八大布教地のひとつで、南蛮から渡来した宣教師たちの活動拠点になっていました。実はここ竹田での布教活動は、長崎や天草よりも15年ほど早かったことがわかっています。

残念ながら学術的な文献は残っていないのですが、竹田市内にはキリシタンに関する『口伝』や『伝説』がたくさん残されていました。それをひとつずつ拾い上げていくと、点が線になって結ばれてミステリアスなストーリーが見えてきたのです。そこで、竹田市商工観光課としては、あくまでも“市の文化政策の一環”として竹田キリシタンの文化を広くPRし、わかりやすく伝えていきたいと考えています」

=============================================

長崎・天草の『隠れキリシタン』の歴史には悲しいエピソードが伴うことが多いが、竹田に伝わる伝説はどうやら少々事情が違う。当時はすでに多くのキリスト教信者が存在していたはずなのに、禁教令後の岡藩内では宗教紛争によるトラブルが起こったという記録は残されていない。

「表向きには、竹田でもキリシタン弾圧が行われていたはずなのですが、実は禁教令から5年後の元和3(1617)年に外国人宣教師が書いた手紙が発見されて、そこには“竹田地方では宣教師たちが洞窟に隠れながら布教活動を続けていた”と記されていました。その洞窟がどこにあったのか?については明記されていませんでしたが、山中の洞窟を転々としながら布教活動を行う様子が綴られていました。実際に、竹田市内には各所で人工的に作られた洞窟が見つかっています。その代表的な洞窟がここ、武家屋敷通りの裏山に残されていた『キリシタン洞窟礼拝堂』です」

禁教令発後は礼拝堂を『稲荷』に変えて信仰を続けていた?

もともと竹田の城下町は、阿蘇山の噴火により堆積した溶結凝灰岩の上に形成された町だ。溶結凝灰岩は比較的柔らかく加工しやすい特徴がある。そのため竹田では、この溶結凝灰岩を使って城づくりや町づくりが行われ、最先端の石工技術が発展してきた歴史を持つ。

「この洞窟礼拝堂は、自然の地形を生かした礼拝堂ではなく、人工的にのみを使って彫られた礼拝堂です。当時の日本人はおそらくキリスト教の教会の実物を見た事はなかったはず。そのため、外国人宣教師が描いた教会の絵を見て、それを竹田の石工技術で再現したのだと思います。大分県の中でも、人工的に彫られた洞窟礼拝堂があるのはここ竹田だけですから、溶結凝灰岩と高い石工の技術が礼拝堂づくりに大きく影響していたのでしょう」

この『洞窟礼拝堂』はもともと鬱蒼と茂る竹林の中に隠れるように存在していた。昭和28年に県指定の文化財登録を受けたことで脚光を浴びたが「地元の人たちは昔から洞窟の存在を知っていた」と後藤さん。

「実は…これも竹田キリシタンのミステリーのひとつなのですが、こんな小さな町なのに、竹田の市街地には40数箇所もお稲荷さんのお社があるんです。竹田にお稲荷さんができはじめたのは、禁教令が発令された直後からでした。地元の伝説としては、このお稲荷さんは隠れ蓑であって、キリストを表す聖なる頭文字『INRI=ユダヤ人の王・ナザレのイエス』にアルファベットの“A”を加えることで『IN“A”RI=稲荷』として洞窟礼拝堂の存在を誤魔化しながら、自分たちの信仰を続けていたのではないか?と伝えられています。

学術的な裏付けはできていないのであくまでも“地元の伝説”ではありますが、この洞窟礼拝堂と同じような形状のお稲荷さんが城下町だけで7箇所も発見されています。竹田の隠れキリシタンたちが『INRI』を『INARI』に変えて信仰を守ったという説は、私個人的には信憑性があるような気がしますね」

余談だが、禁教令後に竹田で急増した稲荷には共通する3つの特徴があるという。「表にはお稲荷さんのお社があるものの、奥の祭壇は教会のような形をしている」「洞窟を中心として左右のいずれかに集会スペースがある」「近くに湧き水がある」。これらの条件から、竹田では禁教令後も宣教師たちが各地の稲荷(洞窟礼拝堂)を転々としながら説法を続け、洗礼の儀式を行っていたと考えられている。

「他にも、城下町の大庄屋さんや藩直営の仏教寺の境内でも似た様な洞窟が見つかっています。つまり、藩の殿様も、家臣たちも、寺も、商家も、地域みんなで江戸幕府に背きながらキリシタンをかくまっていたのではないか?と推察できるのですが、きれいさっぱり文献が残っていない…これが竹田のキリシタンミステリーです(笑)」

▲『キリシタン洞窟礼拝堂』の正式な築年は不明だが、外国人宣教師の手紙の記録からすでに建造後400年は経過していると推察される。「宣教師は正面の扉から出入りしていましたが、信者たちは左右の小さな扉を使っていたようで男女の入口が分かれていました。この入口のデザインについても、ここが古田家の下屋敷だったというところがポイント。千利休の茶道の教えを受け継いだ古田家ですから、茶室のにじり口を模したのでは?という説が有力です」(後藤さん談)。中央部分が高くなったドーム型天井は大聖堂の様式を再現。正面の祭壇には外国語の文字が浮き彫りになっていたが、禁教令後に削り取られたと伝えられている▲『キリシタン洞窟礼拝堂』の正式な築年は不明だが、外国人宣教師の手紙の記録からすでに建造後400年は経過していると推察される。「宣教師は正面の扉から出入りしていましたが、信者たちは左右の小さな扉を使っていたようで男女の入口が分かれていました。この入口のデザインについても、ここが古田家の下屋敷だったというところがポイント。千利休の茶道の教えを受け継いだ古田家ですから、茶室のにじり口を模したのでは?という説が有力です」(後藤さん談)。中央部分が高くなったドーム型天井は大聖堂の様式を再現。正面の祭壇には外国語の文字が浮き彫りになっていたが、禁教令後に削り取られたと伝えられている

約400年ものあいだ風雪に耐えた手彫りの洞窟礼拝堂は竹田の大切な財産

こうして、竹田キリシタンミステリーの象徴的存在となった『キリシタン洞窟礼拝堂』だが、礼拝堂そのものは建造物ではなく溶結凝灰岩を人工的に彫ったものであるため『補修』のしようが無い点が課題だ。さらに、この一帯は『急傾斜地崩壊危険区域』に指定されているため、今後は礼拝堂周辺をフェンスで囲むなどの対策を取らなくてはならない。

「わたしが子どもの頃は、集会所の岩盤ももっと大きかった記憶があるのですが、風雨や木の根に浸食されて随分えぐれてしまいました。のみを使った手彫りの洞窟なので、表面をコーティングして保護するわけにもいかず、木の根っこを切り取るぐらいで一度も大きな補修は行っていません。市として対応できたことと言えば、この周辺の土地を買い取って礼拝堂の周りを整備したことぐらい。洞窟自体には手を加えることができないのです。

一昨年の熊本地震のときには竹田も震度5強の揺れに見舞われましたから、私も真っ先にこの洞窟のことが心配になって駆けつけたのですが、幸い被害はありませんでした。約400年間ものあいだ風雪に耐え、禁教令にも耐え、大地震にも耐えて、今もちゃんとこの場所に残っている…これは地元で語り継ぐべきミステリーであり、素晴らしい竹田の財産だと思います」

▲住宅地の裏山にひっそりと佇む『キリシタン洞窟礼拝堂』。この礼拝堂の向かい側にもお稲荷さんがあり、礼拝堂の下には透明度の高い湧き水が流れている。「ここは礼拝堂であったと同時に、外国人宣教師たちが暮らした場所でもありますから、約400年前の日本ですでに西洋風の『石の住宅』がこの場所にあったということも認識してもらえると嬉しいですね」と後藤さん。ちなみに、竹田で布教活動を行った外国人宣教師は確認できているだけで7人。禁教令後も最後まで残っていた2人の宣教師はイタリア人だったそうだ▲住宅地の裏山にひっそりと佇む『キリシタン洞窟礼拝堂』。この礼拝堂の向かい側にもお稲荷さんがあり、礼拝堂の下には透明度の高い湧き水が流れている。「ここは礼拝堂であったと同時に、外国人宣教師たちが暮らした場所でもありますから、約400年前の日本ですでに西洋風の『石の住宅』がこの場所にあったということも認識してもらえると嬉しいですね」と後藤さん。ちなみに、竹田で布教活動を行った外国人宣教師は確認できているだけで7人。禁教令後も最後まで残っていた2人の宣教師はイタリア人だったそうだ

教科書に載っていない歴史にこそロマンがある

▲竹田の城下町に約2万本の竹灯篭が灯される『たけた竹灯篭 竹楽』は毎年11月第三週の金曜~日曜日までの3日間開催される。「キリシタンミステリーに関心を持って竹田を訪れてくださる方は、みなさん“殿様や家老が加担して町ぐるみでキリシタンをかくまっていたと考えるとなんだか笑えます”とか、“切なくて悲しい隠れキリシタンのイメージが変わりました”とおっしゃいますね。クスっと笑える隠れキリシタン伝説が竹田のカラーです(笑)」(後藤さん談)▲竹田の城下町に約2万本の竹灯篭が灯される『たけた竹灯篭 竹楽』は毎年11月第三週の金曜~日曜日までの3日間開催される。「キリシタンミステリーに関心を持って竹田を訪れてくださる方は、みなさん“殿様や家老が加担して町ぐるみでキリシタンをかくまっていたと考えるとなんだか笑えます”とか、“切なくて悲しい隠れキリシタンのイメージが変わりました”とおっしゃいますね。クスっと笑える隠れキリシタン伝説が竹田のカラーです(笑)」(後藤さん談)

竹田に数多く残る「隠れキリシタン」の伝説は、世のパワースポットブームに重なって「竹田キリシタンミステリー」として注目されるようになり、この小さな城下町に観光客が押し寄せるようになった。

年間200人程度だった洞窟礼拝堂を訪れる観光客は1万人まで急増。特に観光ハイシーズンとなる秋の紅葉時期のイベント『たけた竹灯篭 竹楽』では、洞窟礼拝堂前で警備員が交通整理を行わなくてはいけないほどの大行列ができるという。

「これまで竹田のキリシタン文化は、長崎や天草の歴史に隠れて注目されてこなかったのですが、教科書に載っている歴史というのは氷山の一角であって、載っていない歴史にこそロマンがあるのではないかと思います。だからこそ、こういう地元の『口伝』や『伝説』を大切に残しながら、観光資源のひとつとして町の活性化に生かしていきたいですね」

大分の小さな城下町・竹田に伝わる『隠れキリシタン伝説』は壮大な歴史ロマンをかき立てる。皆さんも、日本最古とされる洞窟礼拝堂を訪れ、竹田の町のキリシタンミステリーに触れてみてはいかがだろうか?

■取材協力/竹田キリシタン研究所・資料館
https://www.taketan.jp/christian-taketa/index.html

2018年 04月19日 11時05分